「ドーピングの現状@競馬」を知ろう!
はじめに
2月21日、2021年ケンタッキーダービー1着入線馬メディーナスピリット(Medina Spirit)の優勝が取り消されました。
その理由はレース後の検査で薬物が検出されていたためだそうです。
アメリカでの出来事なので「ふーん」という感じもしてしまいますが、ケンタッキーダービーは日本だとそのまま日本ダービーに当たる大レースです。
「シャフリヤールのダービー優勝がドーピングによるもので、しかも昨年末に亡くなっている」という状況だと思ってもらえれば、このドーピング問題が大問題である実感が湧くのではないかなと思います。
また「ドーピング問題」と言われてまず1番に思い起こされるのはディープインパクトの凱旋門賞だと思います。
レース後にディープインパクトからイプラトロピウムという禁止薬物が検出されたという事件です。
イプラトロピウムは2006年当時JRAでは禁止薬物に指定されていなかった一方で、フランスでは「治療に用いるのは可」「レースに用いるのは不可」という規定がありました。
この事件に関しては未だに白黒どっちの意見もありますし、これについてどうこうは特に述べませんが、世界中から集まってレースをすることがあるにも関わらず、世界共通のドーピング基準が設けられていないという問題があったのは事実です。
そこで現在のドーピングを取り巻く環境がどう変化しているのか見ていこうと思います。
ドーピングとは
今更説明するようなことではないかも知れませんが一応見て行きましょう。
日本アンチ・ドーピング機構(JADA)のサイトではこう説明されています。
ドーピングとは「スポーツにおいて禁止されている物質や方法によって競技能力を高め、意図的に自分だけが優位に立ち、勝利を得ようとする行為」のことです。
ここで大切なのはドーピングとは薬物を使用することだけでなく、ルール外の身体性能を上げる「方法」やそれらを「隠蔽」することもドーピングであるということです。
この「方法」については後ほど具体的に説明します。
また、アンチ・ドーピングの意義については一般的に
・フェアなスポーツ環境の実現
・身体の限界以上の力を引き出すことによるダメージの懸念
にあると言われています。
これらのことは人間であっても競馬であっても同様の認識です。
薬物によるドーピング
これが一般的にイメージされるドーピングであり、もちろん今回のメディーナスピリットやディープインパクトもこれにあたります。
古くは1900年ごろにアヘンと麻薬の化合物などが競走馬には与えられ、1911年にオーストラリア・ウィーンでの薬物検査が最初の薬物発覚と言われています。
その後1930年代には覚醒剤や麻薬の投与が問題となり、アメリカで世界で初めての組織的なドーピング検査が行われるようになりました。
日本では1965年に第三者機関の競走馬理化学研究所(竸理研)が設立され、現在に至るまで竸理研によるドーピング検査が行われています。
その方法として日本においてはレースの1〜3着馬及び特別に検査が必要だと判定された馬は、レース後に尿(排泄できない場合は血液)を採取し、竸理研に送って検査を行います。
また競走馬に行われる禁止薬物投与はレース時のみではありません。
タンパク質の生成を増長するアナボリックステロイドなどは、成長を大幅に強化するドーピングであり生涯にわたって使用を禁止されています。
このアナボリックステロイドなどはセリに上場する際にも、使用されていない事が細かく検査されることになっています。
国際競馬統括機関連盟(IFHA)
ドーピング問題を語る上で欠かせないのがこの「国際競馬統括機関連盟(IFHA)」です。
旧名を「パリ国際競馬会議」といい、1967年に国際的な競馬の知識交換や統一された政策・規則の構築を目的として作られた組織で、現在では国際レーティングを決めたり国のパート分けをしたりしています。
このIFHAではドーピング規定についても話し合われており、IFHAでの話し合いをまとめた「生産,競馬及び賭事に関する国際協約(パリ協約)」では、禁止薬物について以下のように記されています。
10 次のものが禁止薬物である
・いかなる場合でも,以下に掲げる哺乳類の身体系統のうち一つ以上に作用する可能性のある物質.
神経系,心臓血管系,呼吸器系,消化器系,
泌尿器系,生殖器系,筋骨格系,血液系,
免疫系(ただし,伝染性病原体に対する許可されたワクチンは除く),
内分泌系
・内分泌物質及びその合成物質
・隠蔽剤
つまるところ「自然界に存在するもの以外を認めない」ということです。
このパリ協約が現在では世界のドーピングの根底となっています。
しかしながら各国で行われる競馬の禁止薬物基準というのは、それぞれの調査を担当する機関(日本でいう竸理研)が各自で決めています。
その結果ディープインパクトの凱旋門賞の時のように基準の違いが生まれているのです。
(ちなみに現在はディープインパクトから検出されたイプラトロピウムは日本でも禁止薬物に指定されています(2007年に追加))
また、日本では中央競馬も地方競馬も竸理研が検査を受け持っていますが、国によっては複数の調査機関が存在しています。
そのため国の中でも競馬場によって基準が違うことも往々にしてあるのが現状です。
IFHAリファレンスラボラトリー
その基準の違いを正す動きとして2017年に始動されたのが「IFHA Reference Laboratory」です。
IFHAはこれの目的についてこのように説明しています。
IFHAリファレンスラボラトリープログラムの中心的な目的は、馬、レースおよび騎手のIFHAランキングにとって重要なすべてのレースが、IFHAが審査し、IFHAが重要と考える特定の特性を有すると評価した分析ラボによってサポートされている環境を醸成することです。
つまり国や競馬場によって規模や設備が異なる調査機関に基準を設けることで、どこでも一定以上のドーピング検査を保証しよう、というプログラムです。
というのも、資金源が薄かったり規模が小さかったりといった弱小検査機関であると本来対象にすべき禁止薬物全てを検査することがどうしても難しく、仕方なく禁止対象に含んでいないといった可能性が考えられるからです。
IFHAリファレンスラボラトリーになるためには指定委員会(RLAC)の厳しい審査を受ける必要があります。
そして日本の竸理研は2021年にこれに指定されました。
(しかしコロナ禍でリモートによって審査が行われたため暫定的なもので、コロナが落ち着いたら実際に委員会が日本に赴き、正式に審査が行われるそうです。)
これによって現在では、
・オーストラリア
・フランス
・イギリス
・香港
・アメリカ(カリフォルニア)
・日本
に1つずつ存在することになりました。
将来的に世界中の調査機関がこれの指定基準を満たすようになることで、調査の格差がなくなり、結果的に禁止薬物の基準が統一されることが期待されます。
競馬の公正確保と安全に関する法律(HISA)
ここで今回のきっかけとしたメディーナスピリット、彼が活躍したアメリカ競馬に話を移します。
アメリカは合衆国であり、州によって法律が異なっています。
そのため競馬場・調査機関はそれぞれがの州によって異なった禁止薬物の基準を持っています。
それを正すために2020年12月に制定された法律が「競馬の公正確保と安全に関する法律(HISA)」です。
このHISAの施行は2022年7月ともうすぐです。
これを推し進めるHISA機関の中心となっているUSADA(アメリカアンチ・ドーピング機構)はWADAと同じように本来人間のアスリートを対象とした機関です。
このような人間のドーピングの専門家が競走馬のドーピング問題に取り組むという点でとても特徴的なプログラムであると言えます。
HISAが施行されることによってアメリカ全体でのドーピング基準の統一が本年度中に図られることが予定されています。
このように薬物によるドーピングについてはかなり対策が進んでおり、国際的に画一的な基準が設けられる未来は近いと考えられます。
遺伝子ドーピング
これが先述した、ルール外の身体性能を上げる「方法」にあたります。
簡単に言うと「遺伝子操作によって強くする」ドーピングです。
「ゲノム編集」という言葉を聞いたことがあると思いますが、まさにそれをおこないます。
(本来ゲノム編集とは遺伝子を編集する方法の1つで、他にも遺伝子導入や抑制といったものもありますが、ここでは遺伝子に操作を加えることを「ゲノム編集」と総称することにします。)
ゲノム編集によって遺伝子を書き換えることで、より競馬に適した体に発達するようにしたり、強い馬のクローンを生み出したりすることが想定されています。
ゲノム編集はまだ未来の技術、という認識がある人もいると思います。
しかし実際に中国では2018年、人間の受精卵にゲノム編集を施すことで人為的に双子を誕生させるという事例が(もちろん倫理的に大問題になりましたが)報告されており、もういつでも実現可能な技術であることは間違いありません。
前述の通りゲノム編集は遺伝子を書き換えます。
そして編集された遺伝子というのは、編集された状態のまま子へ受け継がれます。
すると200年以上血統を管理されることで現在まで紡がれてきた「サラブレッド」という存在そのものが脅かされることに繋がりかねません。
また、血統のドラマによって支えられてきた部分もある競走馬人気、ひいては競馬人気が失墜する可能性も秘めています。
そのためこの遺伝子ドーピングは喫緊の課題として世界的に対策が模索されています。
ここで遺伝子ドーピングとは、ということに話を戻しましょう。
現在では遺伝子ドーピングは大きく2つに分類されています。
①生産段階における遺伝子ドーピング
これは受精卵の段階でゲノム編集を行うドーピングです。
ゲノム編集を施した受精卵を繁殖馬に移植する方法であり、これによって
・出産する母馬と血縁上の母馬が違ってしまう
・様々な牝馬に同じゲノム編集を施した受精卵を移植することでクローンを生み出す
などの可能性が生まれます。
これは著しく現在の競走馬生産を変えてしまう危険な行為であるといえます。
②育成・競走段階における遺伝子ドーピング
これは主に
(A)遺伝子ドーピング物質を投与する
(B)体細胞を採取し、ゲノム編集をして身体に戻す
という2つの方法があります。
特に(B)の方法は技術の進展により非常に簡単になっており、ネットでは遺伝子編集DIYキットが2万円弱で販売されていたりもするそうです。
これらの方法であっても書き換えられた遺伝子は後世に残るため、絶対に認められないドーピングです。
検査方法
これは非常に難しい問題とされています。
基本的には細胞から遺伝子情報を取り出し、配列を見ることで異常部を見つける方法が考えられています。
しかしながら膨大な遺伝子情報の中からそれを見つけることは非常に困難で、時間を要します。
そのため現在では、急に遺伝子ドーピングが施された競走馬が大量に出現しても特定することは難しいと思われます。
またヨーロッパでは血統登録の際に遺伝子情報を採取して保存しておき、検査が必要になった際にそれと現在を比較するだけで済むようにする「バイオサンプルバンキング」の準備が進められています。
日本でもそれを検討するべきという意見もあります。
しかしその方法で判別できるのは②育成・競走段階における遺伝子ドーピングのみであり、①生産段階における遺伝子ドーピングを見つけ出す簡単な方法については今後の最重要課題であると思われます。
おわりに
このドーピング問題は今現在最も盛んに取り組まれている分野です。
そして実際に対策が進んできています。
しかしながらどこまで対策を打っても競走馬がドーピングを拒否することは出来ないため、関係者の一存でやろうと思えばできてしまう事です。
メディーナスピリットは調教師が2022年2月現在、ドーピング判決に対して控訴を予定しているためドーピングを断言することは出来ません。
しかしこの馬はすでに亡くなっているため、ダービー剥奪が確定した場合それを他のレースで取り返すことも叶いません。
メディーナスピリットが人間のエゴでこのようなことになっていないことを願います。
またドーピングは一時的な優勝や強さを手に入れることが出来ますが、長期的には競馬人気の失墜やサラブレッドの根幹からの崩壊といった計り知れない危険を抱えています。
この事実を知った上で全ての人がドーピングについて向き合うことがとても大切だと思います。
参考
横田貞夫(2008)「競馬の薬物規制制度(アンチ・ドーピング)について」,『日本獣医師会会誌』, 61(2), pp.99-103.
草野 寛一(2019)「競馬サークルに迫る ‘ 遺伝子ドーピング ’ の危機」,『BTCニュース』,117, pp.4-5.
戸崎晃明ら(2021)「競馬産業における遺伝子ドーピングコントロール 」,『動物遺伝育種研究』, 49(1), pp.19-29.
IFHA(2021)「IFHA ニュースレター 2021年5月号」
IFHA(2021)「IFHA REFERENCE LABORATORY WHITE MANUAL ver.10」
IFHAリリース(和訳)「(公財)競走馬理化学研究所が IFHA のリファレンスラボラトリーに暫定指定」(2021.07.04)
BBC News Japan「中国「世界初のゲノム編集赤ちゃん」 双子の誕生と、別の女性の妊娠を確認」(2019.01.22)
CNN「米ケンタッキーダービー、死んだメディーナスピリットの優勝取り消し」(2022.02.22)
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