バトラーのジェンダーと身体に関する思考
12月11日(水)
もはや日記のていをなしていないただのメモ帳になってしまったがごめんあそばせ
今回はフェミニズム研究において超有名なジュディス・バトラーのセックスとジェンダーに関する思考をまとめようと思う
というのも、今日(日付的には昨日だけど)Queer理論の授業の復習をしていて、躓いたところがあったので、そこをひたすらかみ砕いて理解したけど、自分なりにアウトプットしておかないとまたすぐ忘れちゃいそうだったので、もはや日記ではなく、バトラーになった気持ちでバトラーの主張を書きます
じゃあバトラーって誰なのよって話なんですが、簡潔にまとめると、フェミニズム研究において革新的な理論を持ち込んだ人です
とまあなんとも適当すぎるんですが、具体的には、セックスとジェンダーという用語の意味、含蓄するものを見直した、ということです
そもそも、以前のジェンダー研究、あるいはフェミニズム研究において、セックスとジェンダーという単語の違いは、生物的な性差か社会的に生まれた性差か、というものでした
これに対してバトラーは、セックス(生物的な性差)も社会的に生み出されたものである、つまり、身体的特徴によって意味づけられた性差自体が社会的な価値観や圧力によって生まれたものである、ということです
これは、例えばペニスがあり、XY染色体であることが男性の身体的特徴で、ペニスがなく、XX染色体であることが女性の身体的特徴である、という区別自体が元来実存する価値や理論ではなく、男性・女性という二分的な性別の枠組みに当てはめるためのものであり、染色体やある部分における形状・性質的特徴が、どの性別に当てはまるものかということ自体が、そもそも社会的に作られた性差であるジェンダーによって決められる、ということを意味しています
これは、バトラーの二つ目の視点である「身体」に関する考察に結び付きます
なぜなら、もともとの、セックス=生物学的性差、ジェンダー=社会的性差という意味は、身体が絶対的かつ普遍的な事実として疑いようのないものである、ということが前提にあるからです。これは「精神/身体」という、デカルト的二元論で、普遍的事実である身体は精神によって意味づけられるという思考ですが、バトラーは、この身体も、観念的なものであり、物質的なものとしての身体と考えます
そして身体とは、ジェンダー化される個々の身体であり、異性愛体制の中でセックスの物質性を枠づけられたもの、と解釈します
はて???何を言ってるんだ??という感じなのでここで、バトラーが用いた、身体の「内部/外部」という枠組みをもちいてかみ砕いていきましょう
バトラーは、身体には、内面と外面があって、それらを区別する「輪郭」もあると考えます。なぜなら、心、つまり身体のうちにある何かを想定するには、内面に対する外面、そしてそれを隔てる境界性がなければ成り立たないからです。例えば、家の中と外、という表現ができるのは、壁やドアや屋根といった「輪郭」によって家の外部と家の内部が存在するからです。
しかし、実際に身体で考えてみると、身体には完全に内部と外部を区別する境界線はありません。なぜなら、人間は排せつや、食糧の吸収といった行為をするように外部とつながった部分があり、完全に区別しているとは言えないからです
そこでバトラーは、身体の内部と外部を区別する「輪郭」というものは不確定なものであり、そのような不確実な境界を定めることで内部が構築されてきたといいます。そして、バトラーの問いは、どのようにして内部は内部化され、外部は外部化されたのか?というものにたどり着きます。この問いは、内部と外部という概念が相互に存在することで初めて認識できることから、前者と後者を切り離して考えることはできません
ではここで、バトラーのジェンダー理論とこの身体の内部/外部がどのように結びつくのか?ということを考えたいと思います
そもそもなぜバトラーがこの、内部/外部の問題に着目したのか?それは、ジェンダーが内部性に因を求めることが可能であるかのように論じられてきたからです。言い換えると、身体は、それぞれの身体の内面に性別を付与する(性自認をする)ために重要な前提であり、その身体の内部と外部を隔てる輪郭を定め、身体的特徴に性的な意味づけをし、異性愛という二元的な枠組みの中で理解ができるように「身体」を自然に配置するものがジェンダーであるということです。
そして、ここでの内部とは、あるのではなく、行為をなす「身体」に投影されている、と言います
例えば、自らを女性だと自認している人が、スカートを履き、髪を伸ばし、ムダ毛をそるのは、内部の女性というジェンダー的枠組みが身体に投影されている現象であるといえます(それが生物学的あるいはオリジナルに女性であっても男性であっても)
これらの理論を通してバトラーが伝えたかったのは、いかに精神・身体、内部・外部の境界性が不確定であるか、そしていかにジェンダーの規範としての一貫性を自明視しているか、です
いやあバトラーってすごい
というかそもそも、生物学的に男性・女性の身体的特徴を決定づけたのはなぜなんでしょうか
おそらく、そうすることで生み出された、男性・女性というジェンダーの枠組みが何かしらにおいても都合がよかったからですかね
というか、ほとんどの学問研究は、西洋のキリスト中心の思考がベースになっているからだと思います
西洋が生み出した男性・男性以外の他者としての女性、という枠組みが、西洋学問によって再思考される、というのは何とも西洋の構造から抜け出せない気がしますが
ポスト構造主義については次回書こうと思います
あ~眠たいなあ