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トラム

 葬儀の帰りに、食事でもとヤンに誘われた。
 私は一緒に最後まで残った彼とともに、ジャンへもう一度別れを告げて墓所を後にした。トラムはここまで来ていなかったので、予約していたランドカーに乗り、ハイネセンポリスの繁華街まで行く。私たちは車内で特に話をせず、互いにぼんやりと窓の外を見つめていた。郊外の単調な景色が続き、特に目に刺激もなくて私の頭も視界もしだいにぼやけてきた。目に映っているのは夕景に赤く染まる墓石とそっけないジャンのフルネームと生没年だけかかれた墓碑銘だった。それがかえって言葉に尽くせないご両親の悲しみを感じて私は胸が詰まる。あるいは虚しさだろうか。そこにはジャンはかけらもいない。じつは私はジャンの遺体が存在しないことを、葬儀のこの日に初めて知った。他の客より先に葬儀の手伝いをしに墓所に行った時にご両親に教えてもらったのだ。ご両親は帰還したヤンから直接その話を聞いたと言っていた。ヤンはなぜ私にそのことを教えてくれなかったのだろう。その機会はいくらでもあったはずなのに。ヤンには一応、葬儀に現れた時に聞いてみたのだけれども、ひとこと「ごめん」としか口にしなかった。ジャンもよく言っていたけれども、彼の言葉はいつだって氷山の一角だ。隠されたところに膨大な意味や事情が隠れている。でも彼が口に出すのはたいてい真実の片鱗ではない。その件に関して最もどうでもいいことなのだ。少なくとも私にとっては。でもそれで助けられているのも私だ。私は窓の外から視線を外し、横で窓辺に肘をついて外を見ているヤンにちらりと眼差しを送った。彼は私と彼にとって重要なことも昔から一切口にしない。それも私はずっとなぜなのだろうと考えている。
「ジェシカ?」
それほど視線を向けていなかった筈なのに、ヤンは顔を私に向けて首を軽く傾げた。いつもの居心地のよい落ち着いた表情に、衝動的に私は爆弾を投下したくなる誘惑を感じ、同時にそれを抑え込んでいた。つまり「あなたは私のことが好きなのね?」ということなのだけれども。普段は排除しようとしているその言葉を彼の包容力に任せて投げつけようとしている自分の心がいかにささくれ立っているか、私は全ての儀式が終ってからようやく気がついた。
「ううん、なんでもないわ」
「そう?疲れてない?」
「大丈夫」
ヤンの気遣いに私は笑みで応える。話は終わるか終わらないかの所だったけれど、どうせ顔を合わせてしまったので少し考えて、私は彼にもう一度なぜ遺体のことを言わなかったのか聞いてみた。
「言う時間がなかったんだよ」
と彼は肩をすくめる。
「合同慰霊祭の時は?ヴィジホンだって」
「帰還してから色々慌ただしかったし、やっとヴィジホンをかけた時は君は泣いてたからこれ以上ショックを受けてはいけないって。合同慰霊祭の時はもっとそれどころじゃなかったし」
「私のせい?」
「せい、っていうのは変だけど……タイミングじゃないのかな。あと俺もあんまり口にしたくなかったから。悔しくて」
「悔しい?」
「うん」
彼は憮然としたように短く言い、また窓の外を見始めた。どういうことなのかということも一切口にしたくないようだ。ヤンは自分のことを語る口をほとんど持たない。いつか話してくれる日もあるかもしれない、と思い私も窓に顔を向けた。じきにランドカーはハイネセンポリスの繁華街に入り、指定した場所にするりと停車した。私たちは車を降り、少し歩いてヤンが行ったことがあるという小さなレストランに入った。
 そこは青壁のシンプルな意匠がほどこされ、壁一面に風景や人が撮られた写真が飾られた、帝国のものとも同盟のものとも違うふしぎな雰囲気の店だった。まだ日は翳り始めたばかりの中途半端な時間で、店内は空いていた。私たちは窓のそばに座り、ボードに書かれたメニューをめいめいに眺める。それを見るに、『地中海』料理の店のようだ。だいぶ以前に私は友人と行った店の地中海料理がおいしかったと彼に話したことがある。彼はそれを覚えていたのだろうか。私たちはハムスから始まるディナーのアラカルトやワインを適当に頼み、すぐに出てきた冷製の前菜に手を付け始めた。乾杯はなしにしないかと彼が提案し、私も同じ気分だったので、なんとはなしにディナーは開始された。
「あれから何か嫌な目に逢ってない?」
「合同慰霊祭の?」
「そう」
「全くないわ。父には軍から連絡が来たみたい。でも父は私を叱らなかった」
「君たちは家族ぐるみの付き合いだったからね」
「そうね」
合同慰霊祭の私が起こした騒ぎは、帰宅してから分かったけれど途中からは放送されていなかったらしい。父も番組を見ていて、私が国防委員長と話し始めてから委員長が私を褒める所までは放映されていたようだ。放送事故防止用の五秒のタイムラグは有効に働き、私が取り乱したところはきっちりとカットされてコマーシャルが流れ、やや不自然に拍手と国家斉唱が始まったと父は教えてくれた。娘はどこだと心配していたらしばらくしてヤンから連絡があり、私が危険だから宇宙港まで出迎えに行ってほしいと頼まれたという。
「あなたに申し訳なかったわ。迷惑をかけて」
「迷惑なんてかかってないよ」
「あれから、あなたも何かなかった?軍部でも」
「いや、俺も特に何もなかった。普通に過ごしてるよ」
ヤンはキヌアサラダに顔を向けてがつがつと食べながら返事をする。食事をする時は真面目な顔をするので、怒っているようだとよくジャンと笑っていたことを思い出し、楽しい記憶に今はかえって淡い悲しみを感じながら私は微笑ましい彼の様子を見ていた。
「あなたはあの作戦の英雄だし、さすがに余計なことをする人もいなかったのかも」
「英雄?」
「そうでしょう?皆を助けたわ」
ヤンはカトラリーを置いて真顔のままで息を吐き、私を見つめた。
「俺はさ、不思議に思ってるんだよ。なんで俺が出世しているんだろうって。俺は参謀としての仕事をきちんと果たしていない。その結果があの惨敗だよ。ジャンと俺は全く同じ立場だった。順番が違ってお互いの結果が違っただけさ。ジャンも俺と同じことを考えていて、でも司令官を説得できないって連絡が」
「あなたたち、あの時に連絡を取り合っていたの?」
「うん……まあ」
彼はなぜか急に歯切れが悪くなり、曖昧な言葉のあとで口を閉ざした。
「あのひと、最後に何て言ってたの?」
ヤンは一瞬、言葉を詰まらせたように見えた。彼は押し黙っていたけれど、私の視線に根負けしたという風に口を重たげに開いた。
「戦闘中だったからね。散文的なことだけだよ。互いに司令官を説得できないって。合流出来ないことに二人で苛々していて。健闘を祈る、だったかな。それで通信が切れた」
「それが最期の言葉?」
「うん」
「彼らしいわ」
「そうだね、俺もそう思う」
私たちは淡く笑みを見せあう。ヤンはそれから青く染まり始めた窓の外の景色に顔を向けた。その表情は茫洋としていて相変わらず感情を表に出してこない。私は同じように窓の外の足早く行きかう人々を見つめるふりをして、窓に映るヤンを見ていた。「健闘を祈る」。ヤンは今どんなふうにその言葉を受け止めているのだろう。私にとってのジャンの最期の言葉は「帰ったら結婚しよう」だった。戦死の知らせをヴィジホンでヤンから聞いた時、私はその彼の言葉が脳裏に強く浮かびあがり、今もずっとそのままだ。私はいまだに取り乱している。ヴィジホンごしのヤンの前で子供のように泣いてしまい、彼に迷惑だから挨拶をしてヴィジホンを消さないとと心の片隅で気がついたのはもうだいぶ彼の前で泣き乱れた姿や「どうして」「なぜ」とうわごとのような言葉を見せてしまった後だった。ふと気がついて顔を上げると、ヤンはまだヴィジホンを切っておらず、痛みのこもった表情で私を見守っていた。「ジェシカ」と彼は私を優しく呼んだ。「少なくとも今日一日は、安心できる誰かと過ごすんだよ。辛くなったらいつでもそうして」と彼は続けた。
 葬儀が済んで、何もかも一段落したという訳ではなく、取り乱し続けている私はヤンと今、一緒にいる。彼は私を穏やかにしてくれる人だ。私をようやく大人としての節度を守らせているのも彼の持つ言外のいたわりのせいだし、こうして私にまともな食事を摂らせているのも彼だ。
「私、頭に来ていて」
私は窓の外を見つめながらつぶやく。彼が私を見るのが、視界の端でみてとれた。
「うん」
「ずっとそれが収まらなくて。それで合同慰霊祭であんなことを」
「わかるよ。……俺も頭に来ていた。だからずっと席で文句をぶつぶつ言っていた」
「あなたも?」
「うん。色んなことが許せなかった。そこに君が現れて、俺の気持ちを代弁してくれた。」
「会場から連れ出したのは……」
「君の身が危ないと思ったからね。俺も退出したかったし。怒ってはいたし、心配でもあったんだけども、正直、相変わらずむちゃくちゃだな君はと思っていて。だって、君と来たら……よりによって一番強い奴と徒手で殴り合いを始めようとしていて。通路を歩きながらそう言えば君はいつも正しいと思ったら一番強い奴と喧嘩を始めていたなって。俺たちが諦めても、たとえば校長とか」
「私はいつも妥当な相手に妥当なことを言っているだけよ」
相変わらずだなんて失礼な、と私が彼を睨むと、彼は口を手で撫でて口元のゆるみをごまかしていた。
「無謀すぎるよ」
「怒ると無謀なことをするというのはよく言われる。でも許せないのよ。
 今だって、ほんとはずっと怒ってる。それをなんとか冷静な大人のふりをしているだけ。毎日毎日、あまりにも理不尽すぎて。皆我慢してるのにってあなたに言ったけど、あれは半分本気で半分嘘。私は我慢できない。ねえ、彼の葬儀なんて耐えられないのよ。私達、今頃結婚している筈だったのに、どうして彼はいないの?立ち上がって叫びたくて仕方なくなる」
私たちは話題が話題だったから低めの声で静かに話していた。ディナーはメインがまだ手付かずで、タリアータにも手が付けられていない。
 彼はいつかのように、黙って私の話を聞いていた。私が話を終えると、彼も静かだったから、私達の間にはつかの間の静寂が広がる。店内は客が増え、ざわめきの中に楽しそうな笑い声があちこちのテーブルから聞こえてくるけれども、私にはずっと遠くの、よそよそしいものに感じられた。
「叫んで」
「え?」
「今ここで、立ち上がってわああってわけの分からない大声を出してみて。きっとすっきりするから」
突拍子の無いヤンの言葉に、私は驚いてしまった。そんなこと、普通はしないしテーブルを共にする相手には勧めない。逡巡して黙っていると、彼は促すように続けた。
「非常識なのは分かってるけど、君は叫んでもいいと思う。みんなびっくりすると思うけれども、君は喪服だしきっと大目に見てくれる。ころあいを見て俺が慌てた風に『すみません、彼女つらいことがあって』って四方八方に謝ってたくさんチップを払うからそしたら外に出よう」
食事もまったく中途半端で、しかももう注文は済んでいる。それに間違いなく彼は恥をかくだろう。そう言うと彼は落ち着いた表情で首を振った。
「いいんだ、そんなこと。俺は君の方がずっと大事だ。今の君のつらさを少しでもやわらげることが君にとって最も大事なことだと思う。変なやり方かもしれないけど、俺が全部受け止めるから、君は、思うままにして」
その時私は、ヤンの振る舞いにジャンを重ねていた。そして、ほんの少し前まで、私をこんな風に包み込むように愛してくれていた人がいたことを、まざまざと思いだしていた。ジャンとはよく喧嘩をしていたし、「なんで俺の言うことはいつも聞いてくれないんだ?」と苛々させることもとてもよくあった。でも結局彼は私の考えも、感情もいつでも一番大切にしてくれた。それって我慢しているの?と私が聞くと、たまにはそうだけど全てそういうことじゃないと彼は私にキスをして抱きしめる。愛しているとまだはっきりと耳に残る彼の声。『健闘を祈る』。そうね、健闘しないといけないわね、と私は思う。そしてそれはできれば、ヤンの力を借りずに。
 「やめることにする」
「そう?」
「ええ」
「ここのデザート、おいしいよ」
「食べられそうでよかった」
 私はフォークを持ち、タリアータに手を付け始めた。アップルバルサミコソースが口にさわやかで好みの味だ。美味しいと呟くと、ヤンは「美味しいよね、俺もここの味が好きなんだ」と笑顔を見せる。
「あなたって、猛獣使いよね。私をなだめるのが上手すぎるわ」
とフォークをいじりながら言うと、彼は軽く笑い声をあげた。
「君によく言われるけど、ジャンにもじつはよく言われていたんだ。どうやってるんだ?とか、なんでジェシカはお前の言うことなら素直に聞くんだ?って」
「ジャンがそんなことを?」
「うん。君たちが付き合いだす前からね。俺はあいつには馬鹿だなって思ったし口にしても言ってた。そんなの、言わなくたって分かることじゃないか。君にとって俺は親しくはしているけど緊張感のある他人で、ジャンだけは特別に心を許せる人で、なんの遠慮もなく自分を出せた相手だったんだ。君たちが付き合うのは時間の問題だなって、俺はずっと思ってた。」

 ヤンが美味しいと教えてくれたデザートは本当に美味しかった。私は自分が叫び出して、恥ずかしさで二度とこの店に来られなくはならなかったことを、ヤンの心遣いとともに感謝した。店を出て、私たちはトラムに乗り込み横並びに座る。きしんだ音を立て、すぐにトラムは動き出した。
 ヤンが私に好意を持っていることを、私はいつの頃からか気がついていた。彼が見せる優しさは友情をとうに飛び越えていた。不器用で隠しきれていない、時折表に出る慈しみをこめた眼差しや、照れたような笑みやそういった愛情を受け取ることに対して私はいつもためらいがあった。ジャンにはもちろん相談できないし、相談したとしても何を?と考えていた。ヤンは私に対して常に礼節を守っていて一線を超えてこない。それは今でもだ。ただ、今日も、あのヤンからジャンの死を告げられた日も、それ以外もいつだって私はヤンの愛と友情を同時に思うままに奪ってしまっていると感じている。私はヤンのことが好きだ。理性的だけど情が厚く、不器用で、とても優しい人。愛することはできないけれども、私はヤンを友人としていちばんに大事にしたい。でもそれすらも彼を都合よく『使っている』気がしている。何が彼にとって一番良いのかが分からない。だから時折、彼には「あなたは大事な友達だ」と告げる。それ以外にはならないから、友情以上に私に心をくだかないでと言いたくて。そうすると彼はいつもにこりと笑い「ありがとう、俺もそう思っているよ」と返事をする。隠して告げたメッセージに気がついているのかいないのかは、私には分からない。
 やがてトラムはシルバーブリッジ街の近くの停留所に滑り込んだ。車輪が完全に止まりそうになるとヤンは立ち上がり、「じゃあまた」とやわらかい表情で私に挨拶をする。
「ねえ、ヤン」
「ん?」
「私、あなたのことずっと大切な友人だと思っているわ」
彼は私を見下ろす形で、真顔の私をほんの少しの間、見つめていた。
「──うん、わかってるよ、ジェシカ」
いつもとは違う返事。たまたまなのか、含意があるのか分からなかったけれど、私は彼の本当の思いを知りたくて反射的に「わかってるって何を?」と彼に尋ねていた。
 彼が口を開こうとする。その時、トラムからベルが鳴り始めた。彼は「ごめん、降りるよ。じゃあまた」と早口で言い、私に背を向けてトラムを降りていった。
 すぐに扉は締まり、彼は停留所のホームから私に軽く手を振っている。私が振り返している内に、トラムはまた音をたてて進んでいき、彼の姿も点景になって消えていった。
 彼はなにを理解しているのだというのだろう。私の狡さを?そんな女を彼は好きだというのだろうか。許して、理解して、そして愛しているのだろうか。きっとそうではないだろう。やはり彼は私のことを実在の私以上に美しく見ているのだろう。そこがおそらく、私がこれだけ身近に存在する彼をきっとずっと愛しはしないだろうと確信している二番目に大きな理由なのだ。でも、そうではなかったら、私は去るべきなのだろうか。ジャンをきっと愛し続けるだろう私は。そして私を包みこむようにいたわり、愛する人は皆私の傍からいなくなる。それをおそれる私はやはり狡い女なのだ。

 トラムは走り続け、やがて私の滞在しているホテルの前に着いた。私はホームに降り、重たい心を引きずりながら、ホテルの入り口へ向かっていった。

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