井の頭のフインランド
社会人になる年の頭、井の頭公園の近くに引っ越した。職場からアクセスが良いからというのは言い訳で、実のところ、「住みたい街ナンバーワンの吉祥寺に一度くらいは住んでみたい」という田舎者根性のためだった。とはいえ、私の借りた古い木造アパートの近くにあるものといえば公園くらいで、映画館もおしゃれなパン屋も、スーパーもドラッグストアもなかった。吉祥寺駅まで徒歩18分。騙されたような気分で、友達のお下がりの自転車を駐輪場に登録した。後輪カバーに貼ったシールが誇らしげに光った。
生活をスタートさせたばかりの家にある家具はほとんどがもらいもので、足りないものが多かった。洗濯機もなかったから、よく自転車のカゴにランドリーバッグをのせ、近くのコインランドリーまで洗濯に向かった。
コインランドリーは好き。選ばれた、骨のある人だけが立ち入りを許される場所のように思える。苦労したがりのきらいがあった私は、コインランドリーに出入りするだけで自分も気骨ある立派な人間になれるような気がしていたのだ。洗濯物を放り込み、洗剤を入れ、ボタンを押す。大抵の場合、表示時間が経過するまではいったん家に戻り、ダンボール製の簡易テーブルの上でお茶などを飲んで時を待った。
しんしんと雪のように雨が降っていたその日、いつも通りボタンを押し終えたあと、外の様子を見て家に戻るのもおっくうになった。コインランドリーには目立つ看板もなく、文字通りそこにひっそりと佇んでいる。この辺りは一軒家が多いし、そういう家には洗濯機があるものだから、ここを利用する者もきっと多くない。2、30分程度私がここにいることに、何の問題もないように思えた。
洗濯機が6台、靴用洗濯機が1台、乾燥機が2台入っているだけの、昔ながらのコインランドリー。暇つぶしのための漫画も雑誌もなかった。床のコンクリートは端々が割れている。真ん中のスペースには、脚の曲がった古い小学校の机が置いてある。近づくと、机の上にマジックで大きく何かが書かれていることに気がついた。
「フインランド」
にわかに出現した突拍子のない言葉に、目を見開く。井の頭の寂れたコインランドリーにある、学校机に書かれた「フインランド」の文字。
フィンランド? 北欧の? 井の頭のコインランドリーに、なぜ? ここはフィンランドにゆかりのある場所なのか? ここのオーナーが旅行好きなのだろうか?
しばし思いを巡らせたあと目を凝らすと、文字の所々が薄く消えかかっていたらしい。薄い点や線を辿ると、「コインランドリー」という文字が浮かんできた。
はぁ、と安心する。偶然なのか、そうでないのかわからない。けれどその秘密に気づいてしまい、むず痒い気持ちになった。
映画館もおしゃれなパン屋も、スーパーもドラッグストアもなくても、井の頭にはフインランドがある。結局その家を出るまで、私は洗濯機を買わなかった。
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