おめでとう【御芽出度う】
砂さんがいなくなったのは、一月の寒い日だった。何の前触れもなく、アパートから出て行った。砂さんは寒いのが苦手だった。普段は無愛想なくせに、寒い日になるとすり寄ってきて、私の体温を奪う。
「オンナでもできたんじゃないの」
とノリちゃんは言った。ノリちゃんは私の専門学校時代からの友達で、砂さんが心を許す数少ない相手だ。
「砂さんが?まさか」
「わかんないよ、ああいうタイプに限って意外と内に秘めてるものがあったりしてさ」
そうかもしれない、と私は思った。自然と人を引き寄せるようなところが砂さんにはあった。私は砂さんの名前を知らない。砂美駅という駅で会ったから、砂さんと呼んでいるだけだ。
砂さんと私はすぐに一緒に住み始めた。断っておくが、私と砂さんは男女の関係ではない。一緒に住んでいる、同居人。ノリちゃんも最初疑っていたけど、一度会わせるとすぐに納得した。一度だけふざけて砂さんにキスをしようとしたら、思いっきり嫌な顔をされて、ゲイなんじゃないかと本気で疑ったが、そういうわけでもないらしい。
朝起きて、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、あっさりとメイクをして出かける。昼間はお客さんの髪を洗ったり、髪を切っている人の横に立っていたり、人形の髪を切ったりして、家に帰ってくるのは日が変わりそうな時間だ。その間、砂さんが何をしているのかはわからなかった。ただ時々朝帰りすることはあっても、夜私が家に帰ってくると砂さんはたいてい食卓のある部屋の窓際に座っていた。
砂さん、どこ行ったんだろう。お互い干渉しなかったし、特別な関係なわけでもなかったけど、いなくなると不思議と心に穴が空いたような気がした。私の生活は砂さんを失ったことで、ただ朝起きて、人の髪に触り、帰って寝るだけとなった。砂さんの好物だったスルメを買って帰り、砂さんを待つ。もういなくなって三日が経っていた。スルメは減らないので、自分で食べた。
探してます、なんて張り紙を出そうにも、なんだかバツが悪かった。砂さんはうちに住民票を置いてるわけでもないし、立派な成人だ。私たちは結婚しているわけでも、ましてや家族でもなく、なんの約束もしないまま暮らし始めたのだから、一生懸命になって探すのはおかしな気がした。だから、毎日スルメを買っては、食べ、買っては、食べ、という生活を繰り返した。
そんな生活が二ヶ月は続いた。その日は特別疲れていて、いつものコンビニに寄った。もうスルメを買うのは生活の一部になっていたので、目をつむってもコンビニに入ることができた。
『向いてないんじゃない?』
ごゔごうと唸るエアコンのそばで、頭がぼうっとする。今日の休憩時間に聞いた店長の冷めた声が頭に蘇る。
『まだ若いんだし、他の仕事もあるんじゃない?吉野さん、やる気ないみたいだし』
「158円です」
ハッと顔を上げると、カウンター越しの店員が行儀よく手を組んでいた。あ、すみません、とあまり動かない手で財布を探していると、スルメ好きなんですか?という声が聞こえた。水色の制服を着た店員が愛想よく笑っている。いつも、スルメ買われるでしょう?
涙がだぼだぼ流れていた。レジの前で立ち尽くしたまま、スルメが、スルメが、としゃくりあげた。店員はおろおろと慌てて奥のおばちゃん店員を呼び、おばちゃんは出てきて水色の店員を叱っていた。スルメが、砂さんの、スルメが。涙でぼやけた世界では、自慢の睫毛さえ邪魔だった。
店の奥に通されても私は泣き続け、落ち着いた頃にはぽつぽつと話し始めていた。仕事でミスばかりしてしまうこと、夜遅くまで練習してもお客さんがつかないこと、スタッフと馴染めず浮いていること、上京してから新しい友達ができていないこと、一緒に住んでいた知り合いがいなくなってしまったこと、毎日スルメばかり食べていることなど。最後まで話し終わった後、おばちゃんはそれまでの神妙な顔を少し崩して笑った。
おめでとうって言えばいいんよ、とおばちゃんは言った。毎日家に帰るでしょう。疲れた、って言うんじゃなくて、「おめでとう」。お局さんに嫌味言われても、心の中で「おめでとう」。スルメ食べた後も「おめでとう」。輪郭のぼやけたおばちゃんの丸っこい顔をみていると、その意味も理由もわからないけれど、素直に頷けた。それで、ペコペコと頭を下げる水色の店員を背に、ひとりのアパートへ向かった。
扉を開けるとすぐキッチン、その向かいにユニットバス。食卓のある部屋。いつもの同じ景色だ。そしてそこに砂さんがいた。
砂さんは身体中泥だらけで、石油の匂いを漂わせながら縮こまっていた。私は驚いて砂さんに駆け寄り、思い切り抱きしめた。砂さんは不満げな顔をするかと思ったけど、少し私に身体を預けたような気がした。急いで砂さんをお風呂に入れて綺麗にしてあげると、満足そうな顔で毛づくろいを始めた。大きくて丸い背中を撫でると、少し湿った毛が手に絡みついた。スルメを夢中で食べる砂さんは、いなくなる前より少し痩せていた。砂さんも、苦労したのかもしれない。
砂さん、おめでとう。
「おめでとう」と言うと、反射的に「ありがとう」が出てくる。不思議だ。
おめでとう。ありがとう。
砂さん、もうすぐ春だねぇ。
まーお、と砂さんが鳴く。自分の鼻先を砂さんの鼻先に合わせると、しっとりと湿っていて、懐かしい匂いがした。もうすぐ春だねぇ。おめでとう。
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