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ハサミをどうぞ。


まるで手からこぼれる沙(すな)のような、あっという間に過ぎる子育ての日々。そんな日々を綴る、テラモトサヤカのエッセイ。
ーー沙の音(すなのおと)ーー


"沙の音"について

私のほとんどの生活は、"お母さん"で、それはそれは全く映えはなく、ただ粛々と現実(いま)を生きる。

子が身も心も魂さえも健全に育つように、注意を払い、時々感情に強く振り回されながら、日々自分と向き合いながら。

子育ては掬っても掬っても、手から溢れ落ちる沙(すな)のよう。
掬っては溢れ、また掬っては溢れ、とりとめがない。

すぐの結果も結論もなく、点が続く。それが続いているのか正しいのかもわからぬまま、続いてゆく。

きっと、ほとんどの時が過ぎ、愛しい生き物たちがみんな立ち去った後で、私は不意に後ろを振り返る。そのかけがえなかった、当たり前だと思っていた日々の尊さに、ようやくそこで気付き、そこでようやく日々の点が線を結ぶのだと思う。

そんな忘れたくない日々をエッセイとして(できる限り、、、!)残していこうと決めました😌✨🕊️
お付き合いくだされば、また私の文の中にご自身の欠片を見つけてくだされば嬉しいです。

ハサミをどうぞ。


我が家の第三子の長女(3歳)
たった3年しか、我が家に君臨していない、そう、3年前に現れたばかりにも関わらず、台風の目のように我が家の中心に君臨する彼女。

兄たち(8歳6歳)の日々の言動、行動を、大きなお目目で見て聞いて学習し、即座に吸収していくその様は圧巻である。天晴れ。(そして時々、いや度々しんどい)

しかし兄たちとは違うところが彼女にはあって、それが共感力と場を読む力の強さ。
こちらの伝達したいことを、汲み取る力の強さである。

ハサミや色鉛筆を使って、工作をしていた上3人。出しっぱなしにしていると、母鬼👹が出現するため、使用後は即撤収が我が家のルール。

片付けをしながら、ハサミを持ってトコトコと歩いてきた長女。
「ままぁ〜はしゃみぃ〜」
「はいはい」
と受け取ろうとする母。すると、
「あ、こうしゅるんだよね」
と、母側に向けていた刃の部分をひっくり返し自分の手で掴み直し、なんと、持ち手側を母に向けて渡すではないか。

母驚愕。
兄たちには再三、再四、再五(でも足りない、、)説明している、
"ハサミは人に刃の部分を向けるのは危ないから持つ方を向けて渡すんだよ"
を、長女には以前一度説明した程度。

それを彼女はしっかりと覚えていたのである。

話は変わるが私の中にも差別や偏見はまだまだあって、それに触れるたびに、まだあるのかと悔しくなる。だからこそ、決めつけた子育てはしたくないと、子どもたちに外見の性別で決めつけるような不用意な発言はしないよう心がけている。

が、男子2人と女子2人を育てていると、そこには男性性と女性性が確実に存在しているし、性差というものがあると感じる、というのが本音である。

男の子は優しい。外へと与えたいという欲を感じるし、それを受け取った時の喜びようといったら可愛くて仕方ない。与えることが喜びであるというのを、特に子どもは純粋に表現してくれる。が、共感力や感受性というものには欠けるため、基本的には自分の欲求に忠実で「誰かに何かを言われたから自分を変化する」ということは少ないように思う。

女の子は前述もしたが、感受性が高く、共感力や場を読む力に優れている。だからこそ他者(特に男性)を上手く動かす術も持っていると感じるし、故にこちらの意図をよく理解する。そのため、一度で理解して行動できるという特性も(もちろん個人の差はあれど)できるのだと感じる。

ハサミの件を褒めると、うふふと微笑んで去っていく長女。
なぜハサミの刃を人に向けてはいけないのか高らかに語る長男、自由におしゃべりを続ける次男に、掴まり立ちをしながら、ご機嫌でスーパースピードのスクワットを披露する次女(7ヶ月)

我が家は今日も平和である。

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