世界を理性で問い詰めると、感性が開ける

※誰かに送るために書く方がなんだか書きやすいということに気がついたので、誰かに向けて書くテイでメモを残していくことにしました。


池田晶子の『暮らしの哲学』を読みながら帰省したんですよ。
やっぱりこれは文筆家としての池田晶子の最高到達点だと思うんですよねぇ。

池田晶子の著作を色々並べて読んでいると、
それぞれ全然文体が違っておもしろいんですけど、『暮らしの哲学』が一番あたたかくて良いです。池田晶子を読んでいる時は、他のいかなる読書体験ともなんだか違うんですよね。

池田晶子を記念した賞に「わたしく、つまりNobody賞」というのがあります。

NPO法人 わたくし、つまりNobodyは次のように由来を説明しています。
この風変わりな賞の創設と名前は、2007年春にこの世を去った、文筆家・池田晶子とその一作品名「わたくし、つまりNobody」に由来します。考えているその時の精神は、誰のものでもなくNobody。言葉は誰のものでもないけれども、それが表現されるためには、誰かの肉体を借りるしかない、そうして現われてくる言葉こそが、人の心を捉え、伝わってゆく……。大事なのは「誰が」ではなく、誰かによって発せられた「言葉」が、次の時代の人々に引き受けられて、我々の「精神のリレー」が連綿と続いてゆくことである、と。

誰が語るかより、言葉の方が遥かに大きい。

一方で池田晶子は、『暮らしの哲学』の中でこんなことも言うんです。

内容ではなく形式こそ命、文体が印象されなければ、何を言っても同じです。『何を言うか』ではなくて『どう言うか』。そうでなければ、文章を書く必要なんかないでしょう。

例として小林秀雄が出されます。

池田晶子を読んでいる時、それは「池田晶子を読んでいる」でしかあり得ないのは、池田晶子が池田晶子たる文体を確実に獲得していたからなんだと思います。
しかし、それがいったい何なのかはわからない。
著作によって、語り口は全く異なるのです。

懐疑というものは、もしそれが本物なら、あれは疑うがこれは疑わない、そのような疑い方を許すものではない。あれは疑うが、これは疑わない、その根拠もまた、疑われなければならないはずだからである。すなわち、この時疑われているのは、あれやこれ屋の対象なのではじつはない。あれやこれ屋の対象を見、その対象の存在を信じている自分自身という精神の働き、これこそが正当に疑われているのである。およそ認識とは、自身による認識以外ではあり得ないのであれば、自身の認識の働きを疑うより先に、どのようにして対象に疑いを向けることができるものだろう。いわゆる『根源的懐疑』とは、このような意味であるのでなければ、どのような意味なのか、私には理解できない。
池田晶子『新・考えるヒント』<講談社,2004>15頁

と言ったと思ったら

万緑や 力をこめて 鐘をつく 非文
でっかくて、力強くて、いいなあ、こういうの。きっとどこかの山寺で、力漲るママに鐘を撞いた。鐘の音は万緑を震わせて響き渡り、こだまして返ってくる万緑の香りに噎せてしまいそうだ。五月、世界は青春だ。
池田晶子『暮らしの哲学』<朝日新聞出版社, 2007>80頁

と言ったりする。『事象そのものへ!』とかはもっとキレキレです。
歳を重ねると、文体も優しく深みが増すんですかね。

だから、決まった文体があるわけではないのに、「池田晶子だ!」と思いながら読んでいる。
というか、隣で語りかけてくるようなのです。
そりゃ池田晶子を読むぞと思って読んでいるから当たり前なのだけど。

とにかく、僕にとって池田晶子はNobodyではなく池田晶子なのですよ。

だから「池田晶子の本」を読むとかあまりしっくりこない。
池田晶子を読んでいるんですよ。
なんとなく、そんな感覚がある。

彼女の言葉の全てはまだまだ理解できないけれど、その文体によってすっかり真っ黒に染まった身体から付き物が流れ出していく感覚があります。
デトックス。

「私は理屈が嫌いなんです。」と言いながら、世界を理性で問い詰めて、感性が開けた世界(=暮らし)が詰まってるんです。それを彼女は現在=歴史=宇宙と言ったのかもしれないけど、なにより暮らしなんですよ。そこに全ては根ざしている。それが、「理屈は嫌い」ということなんだと思うんですよねぇ。

僕は哲学がなんとなく好きだけど、哲学者ではないし、哲学のことをちっとも分かってはいないし、体系立てて勉強できていないことに不甲斐なさを感じたりもするけれど、一方で自分のペースでも良いのかと思うんですよね。
自分が必要な時にきっとそれらを読むことになるから。

もし難しい哲学書を読んだとしても(読めないけど)、難しく哲学したくない。
いま、書いている文章の多くがなんだか硬いものになってしまっていて、それはそれで楽しいのだけど、本当は、『暮らしの哲学』や『考える日々』の池田晶子のような軽い筆致で、しかし本質的なことを書いてみたいのですよ。どちらもまだまだです。

一方で難しい哲学書を読みながら、他方で池田晶子のように哲学できるようになりたいんです。

池田晶子は、理性で世界を問い詰めたら、感性に行き着いた人なんだと思います。それがまぁ、『暮らしの哲学』という本には詰まっていて、良いんですよねぇ。

本当に良い本というのは、書いてある内容が良いだけでなく、形式が良い。読むことが対話になるんですねぇ。アカデミックな読書ではないけれど、こういうのが好きだわ。

(おわり)

最後まで読んでいただきありがとうございます。
ウェブサイトと、Podcastをやっているので覗いてみてください。


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