見出し画像

自分に厳しく相手にも厳しく

 私が今、抱えている気持ちは死んでいく理由があるのになかなか行動に踏み切れないことを正直ここに記しておく。現在、YouTube、note投稿と出来る限り、これまでの学びの蓄積や自分のもてる力と人生を振り返る意味で色々と表現してみたが、結局は何にも効果に期待はないといっておこう。単なる自己満足のアピールする場所であって、客観的な評価は得られないものである。まるで、遺言日記を書いている感じなのだ。

 では客観的な評価を良く得て、周りから信頼される存在として活躍するというのは何か。これが良い気持ちで痛感したとき、お金が高くもらえたりするかもしれないし、価値観が上がると生活感も豊かになることあるだろう。     でもこれが本当の幸せだろうか。無理矢理、やりたいと思わない仕事や行動をすることで我慢して生活するということはやはり精神的に悩みも積み重なるしストレスが溜まることは健康にもよくない。

 だからこそ、今の私は正直言って心のストレスがなかなか消えずにもういつでも自殺してもいいギリギリなラインに達していると痛感することを耐えようと必死なのである。

 でもここには申し上げ辛いが、許されない厳しい現実があり、それらに対して苦情を申し上げたいし、事実は異なっていることを伝えたいのに相手は耳を傾けることなく正当化しようとせず、濡れ衣を背負う私をそのままにして過ごしている人間が周りに存在している現状がある。私はそのことを認識するととても許したくない。悪知恵が動いてしまう性格なのだ・・・。

 つまり、私は「自分に厳しく相手に厳しく」という性格上である。そのため、このまま色々と努力しようと自分に厳しくしても相手に厳しさが伝わってこなければそれは。私の努力が無駄であり、何にも意味がないんだというネガティブな気持ちも大きくなる一方である。

 振り返ると自分がやりたいと思える教師の夢を必死に追いかけようと勉強に集中していた大学時代では、遊びというリラックスというのも忘れていたという10代である。そして教師の仕事も理想通りに上手くできないために自己模索しながら、●●●●に我慢し続けていたという苦しみもあって、ストレス発散よりは何より学びをもっと深めることで、チャンスを伺っていたというひたむきな努力があった。だから恋愛するという余裕もなく、自分のことばかり考えていた20代である。

10代、20代の結果が30代になったばかりの自分にはどうしても何したらいいのか。分からずに正直、恥ずかしい一人の男であると素直に申し上げる。恋愛する立場でもないかもしれない。でもやっぱり傍にいる人をそろそろ探さなくてはならないかもしれない時期かもしれない。笑!でもその前に命絶つかもしれないというある考えも心揺れている。

自分に厳しくというものは、その行動であって

相手に厳しくというものは、現場を見ていないから事実が見えない。正しくない。判断に答えが見つからないのだ。

非常に腹立つ。人間として責任とは何か。対話する姿勢の大切さを自己保身のプライドのためにへし曲がるようなどこかのデタラメな公務員や政治家の人間にはなってほしくない。

 江戸時代だったら簡単に切る行為だ。昭和時代なら戦争のように武力行使だ。では、令和ならどうするべき?裁判では出来ないならどうしたらいいの?表現の自由に基づいて、事実を書いていると思っていても、視聴者の受け捉えによっては誹謗中傷だと批判されたりして社会問題に発展することも最近、よく聞かれるので、慎重にしなければならないところだか、判断の基準が複雑だ。私自身は、事実を訴えるつもりでも相手がどう感じるのかで、結果が変わる。その結果で不利になったらどうしようもない。表現の自由を疎かにしてしまうのは、逆にどうもおかしいと私は思っている。

 あと1ヶ月で現状に進展ないとすれば、もう正義なりの行動で示していくしか私の精神的苦痛を思い知らせるしかないものかと。とりあえず日々、note投稿やYouTube配信はその気持ちを抑えて出来る限り、自己の学びを悔いないように発揮していきたい。そしていつかどこかでこの努力が伝わって前進してくれる、良い導きになることを願う。