哲学という学問を考えてみる。
教育の話の第2回目は、「哲学」である。私が高校時代に考えたこともない一つの学びである。「高校社会」の免許を取るために欠かせない単位科目だったので、非常に苦戦したわけだかこの学びを通して一つのレポートにしたものを振り返ってみる。
ここで挙げられる「表象と意志」というのは、聴覚障がい児の教育においても重要性があるのでぜひともみなさんに考えてもらいたい。なお、提出したレポート内容を一部加筆、修正したものであり当時の背景で気付いた学びはそのまま変えていないことと加えて理解して頂きたい。
「はじめに」 私は、哲学のイメージが堅く世界観の難しいことだとしか浮かばなかった。でも講義を受けている中で、一つ気になって取り組もうとしたのがこの今回のテーマである。それは、A・ショーペンハウアーの考え方である。「表象としての世界」と「意思としての世界」の2つに私は、興味を持った。初めはどういう意味で述べているのか全く興味なくただ疑問に感じていた。「表象としての世界」とは、どういうものなのか考え、そこから「遺志としての世界」にいたる倫理とその内容を解説してみた。
「表象」を知る
まず「表象」とは、意識の最初の事実だと考える。心に「直接与えられた事実」こそが基本的な出発点で、何かを考えるものがあれば、それによって「考えられるもの」がある。前者を主観、後者を客観と呼ぶ。2つの捉え方で「直観的な表象」と「抽象的な表象」がある。(川端2006a)筆者は、この概念に最初の頃はよく理解できなかった。理解しようと次の著者の本を読んでみた。板橋ら(2007)によると、「世界は私の表象である」という文言は、しばしば私=主観を絶対化する立場にあり、絶対主義論者としてイメージされていた。しかし、それは全くの誤りだと我々の経験から述べている齊藤・高橋ら論者の意見もある。齊藤(2007)は、主観と客観との相互依存・相対性を主張する意見も存在する。表象=何かを考えるときにいろいろな捉え方があるものだと私は考えさせられた。表象=物自体だか、これは例えばどんなときなのか。主観的に見ていくのか。客観的に見るべきなのか。複雑で正直分からない。でもショーペンハウアー自身は、「(主観にとっての客観である)ということと(われわれの表象である)ということとは同一である。意識から独立しており、それ自体で存在しているもの、ほかのものと関係なしにそれだけで存在するもの(実体ないし物自体)などは、われわれにとっての客観とはなりえない」と実体的存在の独断的措定を廃し、表象と主観と客観の相互依存性とする立場としてそのまま受け継がれているのだと打ち出したのである。(齊藤ら:2007)カントの考えで「意志」とは、表象に対応する対象を生じさせる能力であり、行為は意志によって生み出されると述べている。(川橋2006b)
筆者は、表象を作るときに意志があるから出来てしまい、表象を物自体で考えるとすでに意志が表れている捉え方ではないかと考える。ショーペンハウアーの考えは、悟性の自発性を感性の受容性よりも根源的とみなしたということではなく、感性が感覚を受け取った地点で直観が成立するということである。(板橋ら:2007)つまり、ある物自体を見てそのまま常に判断する、カントの考えを否定したことになっている。感性の段階において直観が成り立つことはありえないとカントは述べているが、ショーペンハウアーは、概念的思考よりも直観の方を重視し、議論を進めているのだ。「表象としての世界」は、カントの考えを否定しており、理性批判すなわち仮象を暴くことに興味ないという大きな違いがある。(板橋ら2007)では、理性批判をどのようにして考え、「意志としての世界」をどう捉えていくのだろうか。
「意志としての世界」を考える 「意志としての世界」とは、どういうものなのか。身体の役割の大きさを強調した意味で以前にかなり限られた文脈である。例えば、実存哲学との関係のなかでこの場合は理性に対する実存として評価されることが多かったという。(板橋ら:2007)しかし、いずれにしても最終結果は、「身体」の概念がどのように見え、評価されえようかを考える基本になったという。ショーペンハウアー自身の身体論は、超越論的身体論として描いている。身体論は次のように2つの意義が述べられている。
第一は、「身体だけは表象であると同時に遺志でもある」のだからそれもきっと意志を内在させているはずだという類推に他ならない。第二は、「身体と遺志は同一性である」という思想が確立することが不可欠である。(板橋ら:2007)このように二重の認識があるといっておこう。
二重の認識を筆者は、意志と身体との関係についてこれらを意志が原因となって、身体の運動が生ずると解釈してはいけないものだと考える。このときショーペンハウアーは、意志と身体は関係づけが必要な二つのものではなく、それらは、「一つにして、同じものであってただ二つのまったく異なった仕方で与えられているだけのことである」と述べている。(川端:2006a)二重の認識は、いわゆる独特なものであったという。
まとめ
要するに私たちが学ぶ内容で聞く哲学で示している「意志としての世界」は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」と自分の存在を最も根源的に把握したときに述べ、ショーペンハウアーならば「われ意志す、ゆえにわれ在り」ということになる。(西尾:2004)
筆者は、社会科の教科書で学んでいくことになるデカルトの考え、カントの考えを踏襲して否定する「意志としての世界」は、ショーペンハウアーにとって新しい見方であったのだろうと感じたことを教えなければならない。同時にまだ知らない身体論と自然、芸術、宗教など意志の捉え方が多様化している。ここでは割愛しておくが、これからも「意志としての世界」をもっと見ていきたい。
(※S大学の『哲学』講義にてレポート提出したのを引用。2011年作成)
<参考文献>
板橋勇仁・齊藤智志・高橋陽一郎(2007)『ショーペンハウアー読本』法政大学出版局
川端繁之(2006a)『哲学の諸問題への手引きー第4.5章苦渋と救済A・ショーペンハウアー第5版ー』梓出版社
川橋繁之(2006b)『哲学の諸問題への手引きー近現代哲学をめぐってー』梓出版社
西尾幹二(2004)『ショーペンハウアー 意志と表象としての世界Ⅱ』中央公論新社