カラオケって矛盾してる
このnoteは盛崗デミタスさんのアドベントカレンダー「じゃっぱ汁(仮)」に参加させていただき、書いたものです。問題文をよく読み、「?」にあてはまる最も適切な言葉を答えなさい。なお、「?」はありません。
https://adventar.org/calendars/6205
ちーさんである。音楽が好きである。楽器は弾けないので聴くだけである。それでも毎日聴いている。好きな曲がたくさんある。音楽のおかげで生きているといっても過言ではない。
あ、カラオケも好きである。ドリンクバーが枯れるまで飲み、喉が潰れ酸欠になるまで歌い、動けなくなるまで元気を使い切る。お金を払ってそういうことをする。馬鹿である。
このカラオケ、ひいては歌うという行為は、音楽を好きになる上で矛盾している、と私は思っている。以下にその理由が長々と書いてある。読むだけ無駄である。
私は音楽が好きで、最近プレイリストを作りまくっている。いまは「2021年isこの曲」といった10曲を選んでいる。明日その10曲を発表する。
プレイリストを作っていて気付いたことがある。「2021年isこの曲」は選べても、「自分isこの曲」というものを、私は1曲も選べないのだ。好きな曲がこんなにもあるのに。
今まで好きになったすべての曲が私の自己形成に関わっていると思っている。しかしそのすべての曲を並べたからといってそれは「自分」ではない、と私は思う。なぜなのか。
私の場合、好きな曲が好きである理由の1つに、その曲が自分からはるか遠く、あるいは高い場所にあるからだというのがある。私が音楽に惹かれ取り憑かれ崇拝しちゃうほどの魅力は、私から遠いところにこそ潜んでいるのだ。
だから好きな曲の中に私はいない。むしろ、いないでほしいし、関わらないでほしいと思う。邪魔である。音楽は恐ろしく、美しく、禍々しく、だから最高なのである。そしてそれらに最大の敬意を払い、ばかでかい海にもがき、私は生きている。
っていうか人類が音楽好きな理由ってたぶんそうなのである。これから1000年どれだけ技術が進歩しようが荒廃しようが、1000年経っても同じような形をしているギターやピアノを弾くと思う。きわめて原始的な、弦が震えて出る音を楽しんでいると思う。
その音はめちゃくちゃ気持ち良いけどどうしようもなくその方法でしか作れないから楽器を弾くのであって、同時に、そのどうしようもなさにも心躍るのだ。
話を戻すと、「私の好きな音楽に私はいない」という法則があることに私は気付いた。でも私には私が選んだ私の好きな曲があるし、好きな曲は私の自己形成に関わっているし、私は曲に合わせて踊るし、そして私は曲を歌う。そう、歌うのである。
歌うことは誰でもできる音楽の楽しみ方の一つだが、これが好きだというのは先述の私の理論と矛盾している。なぜなら歌うということは、私は好きな曲に参加していて、何なら自分の肉体で音を作っているのである。愚の骨頂である。
でも私はその曲が好きだから歌うわけだし、歌っている間の私はアーティストでもシンガーでもないと思っている。何なら私ですらないと思っている。矛盾が意味不明で塗り固められ見るも無惨な姿になっている。
でも、歌うという行為は音楽を受け取る側の楽しみ方の一つとして、踊ることや黄昏ることと並んで、やはり成り立っていると私は思う。
なぜ私がカラオケに行って歌うのか私は分からない。ストレス発散とよく言われるが、それは副次的に生まれた結果であって、私の目的そのものではない。
となると、歌うという行為も、やはり音楽がもつ恐るべき力によって、ちっぽけな人間が突き動かされてしまう結果の一つだと思う。ならばそれは純粋に「音を楽しんでいる」と言えるのではないか。私はこれ以上、歌うという行為を説明できない。もともと音楽にとって言葉は邪魔なのだから。
音楽は大きな魔力を持っている。音楽を作るのは人間だが、人類は未だに音楽の力をコントロールすることはできず、そのコントロールできないところをまた楽しんでいる。コントロールできないから、人類は今でも音楽を作り続けている。
私は死ぬまで音楽を聴き続けるし、同じアルバムを何度も聴くし、死ぬまで音楽が好きである。死んでも好きである。
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