【ネタバレ注意】実存と音像


ハーイ、薔薇の末裔🌹金天院實春です。
最近音楽を語る際に実存と音像という謎の二元性が用いられることがありますが、あれを言い出したのは、この、俺だ。
難しい話をするので、ゆっくり吟味しながら読んでください。
これらはこないだの年末12月31日に魚太郎くん、Minoru Kobayashiくんと丸特で飲んでいる時にふと呟いた言葉です。大まかな認識としては、音像はリズムやメロディ、音域といった音楽理論で測られ得る音の物理的な側面、実存は歌詞や音像を媒介して伝えられるアーティストの人間性、パッション、"魂"など、人生を反映させた点、ということでいいと思います。音像的な実存というのも想定できますが、それは音像主義と言い換えた方がいいでしょうね。
しかし正直なところ「実存」と「音像」の語は便宜的に用いただけのものであって、それぞれ伝えたいことを的確に表した語だとは思っていないし、別に「音」と「魂」とかなんでもよかったんですよね。
ただ所属していたストレンに"音像主義的な"人達が多く、彼らに伝える言葉として「魂」とか「パッション」はあまりにもチープだと思ったので、理論武装としてこれらの語を当てたという所はあったのかもしれません。

さて、本題ですが、実存と音像の二元論にはリファレンス元があります。以下ですね


実は私は文系の大学院生(留年)で、ニーチェを研究していまして、、つまりのところ、実存と音像の二元論はそのままディオニュソスとアポロンの二元論に当てはめることができます。他愛もないnoteでのお話なので論文とかでなくネット上の適当なnoteを参照します。すまん。
アポロン的なものは仮象の中へと形態化(個体化)する、秩序立った造形芸術の原理です。対してディオニュソス的なものはアポロンによって形態化個体化されたものを陶酔や官能によって破壊し、生を解放する音楽の原理です。
アポロン的なものとディオニュソス的なものはそれぞれ、夢と現実、昼と夜、形態化と一体化、理性・英智と情動・感性、科学と自然、cosmosとchaosなどの例に対応してますが、、これらの例を個別に「音像」と「実存」に透かして見てみると、よく理解できると思います。
勝手な僕の解釈ですが、例えばメタルコアでチャグのタイトさを追求することは、アポロン的な形態化の原理に適ったことだと思います。ブラックメタルはめちゃくちゃディオニュソス的ですね。夜だし、現実・自然だし、陶酔、官能、情動的で感性的で、Chaosに収束します(DISSECTIONの最後のアルバム、Reinkaos)。それらを時に映画的に観て、また時に自分と一体化させて楽しみます。まあそもそもこれは、ニーチェ主義を元にしたサタニズムの表現としての音楽なので当たり前なのですが。
これらアポロン的なものとディオニュソス的なものは、ニーチェが(ショーペンハウアーの「意志と表象」に影響を受けて)処女作『悲劇の誕生』で世界を形作る二元論として用いたものです。
しかし、アポロン的なものについては、中期後期になるにつれて語られなくなっていきます。中期後期ではキリスト教とディオニュソス(反キリスト者)の対立が展開されます。私の見るところでは、ニーチェの中期以降のキリスト教批判における重要なテーマのひとつであるキリストの道徳的世界秩序に、秩序を司るアポロン的なものが同化していったために、ニーチェはアポロン的なものを手放した、ということだと考えています。アポロンはディオニュソスと循環して世界を形作るものから、その明朗さはキリスト教の救済概念に、秩序や形態化する原理は道徳的世界秩序とルサンチマンの心理学に、夢はルサンチマン的で生否定的な信仰へと形を変え、アポロンはキリスト教へと吸収されていったのではないか、というのが私の見立てです。
はい、で、なにが言いたいかと言うと、先にも述べましたが「実存」と「音像」は便宜上の単なる語であって、僕はその背景にあるディオニュソスとアポロンに目を向けてほしかったんですね。(後述するが、自分の違和感の原因はその先にあるので。)便宜的というのは、これらをわざわざ説明するのもナンセンスだと思ったからですし、なにより居酒屋で大学生が「これはディオニュソス的だね〜」とか「かなりアポロニッシュだ」とか言ってたら、かなりキモいじゃないスカ、笑
ただ最近はどうなんすかね、僕のいないところでこれらの語が、僕が冗談半分で用いたこれらの語が、僕の手を離れたところで語られているというのをたまに耳にします。ディオニュソスとアポロンの二元性を理解していない状態で実存と音像の話をすることは、僕の望むところではありません。まあ馬鹿の一つ覚えのようにオウム返し的にこれらの語を表面上の意味の理解だけで使うのは極めて「音像主義的」(形式主義的、アポロン傾倒的)な人のする行動だとは、思います。(秩序立てて、形式化する作用が働いているので)  僕が音像主義をからかう際に用いた言葉が音像主義者に用いられることは、僕の嘲笑が達成されたのと同時に、僕の本意の理解がなされなかったことであり、嬉しい反面カナーリ悲しいところではありますね。あるバンドをみて「実存的だ〜」とか「音像が𓏸𓏸」とか言うのは、本意(ほい)からズレてます
僕は、お友達が欲しかったのです。僕はこの話をすることを通して、ディオニュソス的なものに目を向けた人が出現して、彼がニーチェを読んで、ブラックメタルを聴いて、そうして、お友達になってほしかったのです。ニーチェ風に言えば俺のツァラトゥストラを探していた、ってェ、ことさ…。さあ、実存と音像について語っていた諸君、ニーチェの『反キリスト者』を読むのです。そうしてブラックメタルを"聴かざるを得ない"状態に、なるのです。それをなしに実存と音像を語るのは、研究者としていかがなものかなと思いますがネ、⁉️⁉️⁉️⁉️正直ここまで書いても言いたいことが伝わりきるとは思っていないので、原著を当たってほしいスネ、ホントに。ブラックメタルじゃないにせよ、僕は音楽のこういった内容部分について話がしたい。

今のストレンジャーズのトレンドは、かなり音像主義的だと思います。それはアポロン的で、キリスト教的で、、、それによる効用も、もちろん、あるのですが。(集団主義は大学のサークルという形式に適っているし、もちろん道徳は必要だし)
それにM1の秋冬頃気づいたので、ブラックメタルを敢えてやり続ける啓蒙活動をすることを、僕は選びました。STRANGERS♡BLACKMETAL PROJECTというのは、ストレンの後輩達をブラックメタルに触れさせるという名目でいがりょさんがつけた企画名ですが、僕がそれを敢えて繰り返し用いたのも、そういった啓蒙の姿勢になぞらえる意図があってのことでした。ただまあ、そもそも、僕の好きなディオニュソス的な、夜的な音楽は、ストレンにはあまりなかったな、(苦笑涙)(まあそれはこのような音楽との向き合い方の違いによるものであるが。)
ただ、ニーチェ主義の(立場にたつ)僕はツァラトゥストラがキリスト教世界でそうしたように、最終的にはあえてその世界において没落することを選びました。ディオニュソスの元へあえて下ることが、Destrangerizing(非ストレンジャーズ化)、なんですよね、、
しかしながらこれはあえて対極を提示しそのように振る舞うことで問題提起をしようとしただけで、もちろん僕自身にも音像主義的な効用に対する理解や素養はありますし、僕が"音像主義者"と敢えて形容した人達も、実存的なもの、ディオニュソス的なものの良さを理解することはあると思います。最近のジェンダー論や障がいのある人達に対する見解のトレンドに見られるように、人の内面はグラデーション的であって、一義的にこの人はこういう人、と決まるようなことではないです。(この一文は、音像主義的な人が犯しやすい極端な形式化に対する啓蒙でもあります。)
また、以上はニーチェを読むことで自分の音楽の聴き方の答え合わせを達成した人間の意見なので、理論的な所から音楽を始めたかつニーチェを読んだことのない人にとっては、そもそも真理になり得ないかもしれないです(まあ"個人"の域を超えた絶対的な"真理"みたいなものなんて、存在しないんですが、笑)。ディオニュソス的な精神によって生み出された芸術こそ音楽、としたニーチェに共感した僕だからこその考えです(本来僕はピアノから音楽始めてるので理論スタートではあるのですが、笑)。何が正しいとか、音楽とは何かという問いにおける絶対的な真理とかはなくて(遠近法主義)、それぞれの価値があっていいと思います。
ただ、どちらかに傾倒し過ぎるのもよくないなと思ったので、このnoteを書きました。先の引用でも、ニーチェが問題視している事態がアポロンとディオニュソスの分断である、と示されていますね。僕の問題意識もまた、本質的にはディオニュソス的な価値が見えづらくっている点に向けられています。音像(形式)主義に傾倒することで、実存的な部分が見えなくなる(ex.このバンドは上手くないから聴かなくていいや)ことは、もったいないことだと思います。このようなことをニーチェはキリスト教のルサンチマンの心理学を批判する際に言っていますね。生否定的なルサンチマンの心理装置によって成ったキリスト教が、その奴隷的価値転換によって古代の生肯定的なディオニュソス的な価値を否定したことは、実存的な価値に対して盲目的に(みえなく)なってしまう音像主義者の例と対応しています。(アポロンとディオニュソスが分断されたことで、アポロンの形態化がディオニュソスによる一体化をみることがなくなってしまい、結果として形態化が行き過ぎている??)
また、僕が明朗な音楽(クリーンボイスのある長調メタルコア、明るいスクリーモ)があまり好きでないのも、深堀すれば根底にはこういう思想面での拒絶があるかもですね。しかしまあ僕のこともこんな思想も、とりあえず知りたい人だけが調べてくれたらいいとおもいます。(引用したディオニュソスとアポロンについてのnoteは、僕が触れなかった要点を補足してくれてるのでせめて読んで欲しいところではありますが、)
とどのつまり以上は形式主義に傾倒して精神の屠殺が行われている社会、黒マザー牧場に対する批判文ってコト⁉️ってコトです。(24歳、高二病)話の方向性があっちこゃっちゃいって読みにくかったろうけど、note程度だから許してくれって感じ。随筆なので。それこそ、ディオニュソス的な「感性」のもとで、包括的に"感じてほしい"、(フフ)

Open yourself for chaos!

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