見出し画像

飽き、スンドゥぶ。そうして、横断歩道を、、、!!!!!!!!

戦隊モノの人形の黄色をチョイスする天性の逆張り保育園児だった小生であるが、同時に教員一家の長男としての側面も持ち合わせており、 この2軸を基に25年やってきた。幾度と言ってきたが小中学生の頃は、相応の幼さをそなえつつも自分の生活世界の大部分である学校社会、それを司る教員の裏側を知っているがゆえの達観性をもち、特に中学では教員に気に入られることをゲーム感覚で楽しんでいるところがあった。こうこうこうだから、相手はこうしたら喜ぶ、この話の導入の仕方だから次に相手はこう言う、こういう人生を送ってきているからきっとこういう性格・考えになって、こう言うだろう…だからこう対応しよう、、小学生の時は相手の手を考え、罠を張り、また騙され、、というやり取りが楽しくて将棋に興じていたが、中学の頃の教員とのやりとりはまさに、この延長戦にあるようだった。気に入られれば内申がよくなった。ただの斜に構えた行為ではなかったと今は思いたい。
もちろん常日頃いちいちこんなことを考えて人と関わっているわけでは全くないが、このような生い立ち環境から実践的に人と関わる上でのこの達観性が早熟しすぎてしまったのか、最近はなんだか、ある程度人の話が読めすぎてしまう。あー、見たことがある。こういう話しね。この類型か。はじめの5分の1程度を聞いただけで、その話がどうなっていくのか大体分かることもあり、せっかちな性格も相まってとうとう相手の言うことを先回りして口に出してしまう。ときどき人と話していると、1人で右手と左手を使ってじゃんけんをしているような感覚になる。

最近インターナルなおもしろとして『「ゴッツィの芝居みたいだね、笑」と人に言う』(「誰にも伝わらない例えを言う俺、カッコイイ〜という人間」をわざわざ演じている自分、オモロwというおもしろと、シンプルに「ゴッツィ」の響きのおもしろがある。)のが熱いが、上の例のように先読みできてしまうこと、またそれゆえの飽きとそこから生じるほのかな絶望感がこれ(ゴッツィ)と相まって、目の前で起きているこれもまさにゴッツィの芝居と同じで、脚本ごとにモチーフや出来事が異なっても、出来事それ自体の精神が同一であるように、繰り返す歴史の中でただ同じ心が表層的に繰り返されてるだけなのではないか、、と悲観的になってしまう。我々はゴッツィのただの傀儡たる役者、あるいは、別の、なにか大いなる脚本家(例えば神)の戯れとして、その掌の上で踊っているだけなのではないか、と、、、、、さすらば、自分すらも、その達観性すらも、その糸の先にあるのではないか、と、、、
また同時に、自分には"達観性"みたいなものが有ると錯誤している、、と自分を客観的にみて、悲し恥ずかしくもなる。たかだか氷山の一角をさらっただけで対人をマスターした気でいるのではないか?多分それは本当にそうなのだろう(所詮ゴッツィの芝居なので、単純にミクロがマクロに対応してるはず、細部と全体が大きく異なることはないはずだから、別にいいだろう!と言う自分もいるが)。
しかしだからこそ、最近はこの飽きゆえに、またゴッツィの芝居に従って、トリックスターであろうとしている節がある。人を喜ばせ、好かれて溶け込むのにかなり飽きた。そのような予定調和的なロールをするのではなくて、人に気持ち悪がられ、おや?と思われることを楽しむフェイズにきてしまった。人に口の中でカエルの卵のようになったタピオカを見せ、ビールを飲んではADHD気質のままに意味のない連想を話す。また、このように一見難解なみてくれでなんの意味もないnoteを書き、、、そして、キモがられ、イタイ人物に、なる。だがこのロールには意味がないけど、しかしあり、そして全く、無いのですのわよね、笑
これは、刺激を感じにくい味覚障害の人が料理に唐辛子を大量に入れるのにも似ていると思う。または、苦味のような本来不快なであるはずの刺激物(コーヒーとか)を大人になるととるようになることにも似てるかも。対人経験の飽和感から、新たな刺激を得ようとしているのだ、、、、(また上の例は自分自身の味覚に起こっていることでもあり、、つまり味覚にも飽きのフェイズが訪れており、、、昨日はスンドゥブを大量の唐辛子からつくり、今朝は悲惨だった。これも、25歳の「飽き」ゆえの悲劇なのか、、、!?)

しかしながら、これら一連の問題が元々の逆張り基質により始まっていることは、確かだと思う。ここに来て逆に、順張ってレールに乗ったまま人と同じように進むことがいかに楽なのかを再確認している。破滅を避けるためにも、その楽さに甘んじるべき段階に、きているのかも、しれない、、、、、正直なところこう思うタイミングはこれまで何度もあったのだが、、、、
自分にはトリックスターが主人公のお話を一から作るだけの技量がないが、かといって生得的なこれをやめることもできない。公務員長男の真面目さとこれとの間のズレは度々生じ、、、以上はそれゆえの、周期的な定例会であって、今回もまた公務員一家の長男と逆張り人の議論は逆張り陣営のトリックスターにかき乱されることとなり、、こうして結局、結論を出さずにまた括弧にくくることしかできない。しかし今朝はせめてもと思い、普段なら信号機のある横断歩道を走って渡る人のことを「いや、笑 真の強者の人生はこんな些細な急きに左右されないから笑」と横目で見るところ、そば神のモーニング蕎麦の期限11:00のために、点滅する信号の横断歩道を、あえて、駆け抜けてみるのであった、、!!そういえば昨日も、スンドゥブを作るため韓国人女性がカタコトでレクチャーしてくれる動画をYouTubeで観ながら、彼女の言う味の深みとかいう抽象的な観念を念頭にやってみるか、、と素手で具材をコネるシーンが(日常に)あったが、、、、信号を駆け抜け、深みを出すべく手でこねる。一歩を踏んで世の流れに素直に身を任せることにチャレンジできるようになったのも、25歳になったがゆえの成長なのかもしれない。(25というキリのいい数字に固執し拠り所にするのもまた、世俗へ身を傾けること、、)藤村操は大いなる悲観は大いなる楽観に一致すると諦観して(巌頭之感)この世を去ったが、、、諦観はまだ最終地点ではなく、その先にはまた、より高次の楽観があるのかもしれない、、、!また、ゴッツィの芝居も、まだ誰も気づいていないが、もしかしたら無限の研鑽の最中にあるのかもしれない。さすらばこのようなロールも、ゴッツィの芝居全体を向上させるものとしての意味を帯びてくる。そう思いながら今日もそば神のそばが真っ赤に染まるほどの一味をふりかけ、そして明日もまた今日のように、排便の熱にうなされるのであった、、、、、、(これもまた、ゴッツィの芝居なので。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?