『逃げ上手の若君』仏教と一緒に考えるキャラクターの退場パターンについて

 『逃げ上手の若君』(松井優征、集英社)4巻28話で弧次郎が「死に様じゃない 若の生き様見届けさせて貰うっス」と言ったように、『逃げ若』は人々が虚しく散っていく中世において明るくたくましく生きるキャラクターたちの生き様を魅力的に描いています。

 ……しかし、その散り様もまた美しい! そして、散り方を意図的に描き分けているように感じたので、主要キャラの退場の仕方について、仏教の考え方と一緒に見ていきたいと思います。

 まず結論から言うと、退場には次の3パターンがあると思います。


 ①から順番に、キャラクターごとに退場の仕方を味わいながら説明していきます。
※キャラクター名の後の()内は退場巻•回
※単行本既出情報のみ掲載
※「」内は『逃げ上手の若君』(松井優征、集英社)より引用
※筆者は仏教専門家ではなく、知識のほぼ全てを『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史』(生駒哲郎、吉川弘文館)から得ているだけの一般人です。もし間違い等がありましたらご指摘いただけると嬉しいです。


①首を落とされない…罪をあまり犯していないキャラクターが、自分の生に満足して最期を迎える

・西園寺公宗(7巻58話):帝暗弑計画を自身の弟に密告され捕縛、処刑されました。一緒に逃げようと提案する北条泰家に対し、「麻呂は賭けに負けたのです」と敗北を受け入れ微笑みます。公家でありながら武士に自家の運命を賭けるギャンブラーとしての生を全うした最期でした。

・石塔範家(10巻80話):庇番衆として北条軍亜也子&望月兵と戦い、孤立させられて討死しました。「理想を追う時間そのものが幸せだった」と鶴子ちゃんと共に歩んだ人生の幸福を思いながら息絶えました。
 なお亜也子に自分の首を取るよう提案していますが、単行本オマケステータスページを見るに、恐らく首は取られず鶴子ちゃん鎧と共に安置されたと考えられます。

・岩松経家(10巻82話):庇番衆として北条軍望月重信&吹雪&巫女たちと戦い、吹雪に攻撃を受け止められた隙に望月の攻撃で討死しました。「何の悔いも無い」と言い切る豪快な死に様でした。

・渋川義季(10巻83話):庇番衆として北条軍海野幸康、北条時行、祢津弧次郎と順番に戦い、体力を消耗させられて討死しました。足利直義の言葉に従い正義を怒りに変えて戦いましたが、最後は弧次郎との一騎討ちで純粋な戦いの楽しさを感じ、満ち足りた思いの中斃れました。

・護良親王(11巻96話):足利尊氏の危険性にいち早く気付き警鐘を鳴らしますが逆に謀反の罪で捕縛され、中先代の乱の最中に足利直義配下淵辺義博らにより弑殺されました。
 自分よりも尊氏を信じた父帝を恨むこともありましたが、最後には「父と同じ夢を見るのは…たまらなく楽しかった」「誰でもいい 父に力を貸してくれ…!!」と自身の人生を肯定し父を心配する大きな愛を持つ人物として描かれました。

 一人一人のキャラクターの精一杯の人生を愛を込めて描く松井先生らしい退場のさせ方です。そのため主要キャラのほとんどがこれに当てはまります。ちなみに武士が戦で他人を害するのは彼らの仕事なので罪には数えない、と考えています。


②生きたまま首を落とされる…大きな罪を犯したキャラクターが、その罪を自覚できないまま首を落とされる

 "現報"という仏教用語があります。理不尽な殺人を犯した罪人が、殺されるか病で死ぬかして生きている内に苦しみを受けることです。そしてその罪人は死後必ず地獄に堕ちます。
 殺されるか病で死ぬかと書きましたが、中世の人々は病よりも殺される方がマシという認識だったそうです。それは当時病が怨霊の仕業と考えられていたことから、怨霊は罪人を病で祟り殺すと鎮まることを知らず罪人の家を代々呪うようになり、怨霊自身も輪廻転生が叶わなくなってしまう双方不幸な状態になってしまうためです。
 却って、殺される=仇討ちされる方が怨霊を鎮めることができ、また仇討ちした人間は現報を行っただけなので、罪にはならないのです(月に代わってお仕置きよ!状態)。
 上記は『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史』(生駒哲郎、吉川弘文館)に詳しく、本書は中世の仏教、特に地獄や輪廻などのシステムをとても興味深く分かりやすく説明してくれるので気になる方は是非!

 なぜ現報の説明をしたかというと、逃げ若作中において"生きたまま首を落とす"という行為が現報を表しているのではないかと考えているためです。それではキャラクターごとに退場を見ていきましょう!

・五大院宗繁(1巻3話):甥の北条邦時を欺いて敵に売り処刑させるという非道を行いましたが褒美を得られず、承認を求めて次に捕らえようとした北条時行の逃げと気迫に恐れをなし、その隙をつかれて北条時行に首を刎ねられました。

・清原信濃守(8巻70話):信濃の悪徳国司。信濃の民に重税をかけ、戯れに殺し、奴隷として酷使するなどの非道を重ね、中先代の乱において保科弥三郎•四宮左衛門太郎に首を落とされました。

 両者に通じるのは、大きな罪を犯した上にその罪を最後まで自覚できなかった点だと思います。罪を感じることは仏教への帰依に繋がり、輪廻転生の中で救済を得られる希望がありました。
 しかしその可能性を自ら絶ってしまった哀れな罪人たちに対しては、せめて怨霊に祟られないように生きたまま首を落とすことが物語上の精一杯の救済なのかもしれません。

 また、江戸時代の仇討ちのルールに"仇討ちが許されるのは父母や兄等の尊属が殺された場合に限る"というものがあります。中世にも同様の共通認識があったかどうかは分かりませんが、五大院へは兄を間接的に殺された時行が、国司へは家族を殺された保科•四宮(恐らく父母も入っている?)が、それぞれ仇討ちを果たしているのも原則に適っている感じがして好きです。


③死後首を取られる…大きな罪を犯したキャラクターが、自分の罪を受け入れて後悔の中息絶え、その後首を取られる

 さて、②に出てきそうで出てこなかった罪人がいたかと思います。主には瘴奸入道ですね。彼の悪行は五大院や国司に勝るとも劣らないものですが、その後と最期に若干違いがあります。ではまずキャラクターごとに退場を見ていきましょう。

・平野将監(8巻65話):別名瘴奸入道。元は武士でしたが悪党に堕ち、村を襲い子を売り払う非道を快楽としていました。
 しかし北条時行との一騎討ちを通して時行に仏を見出し心を洗われ、拝みながら死に瀕します。そして貞宗に命を救われ武士としての生を授けられてからは、罪悪感に苛まれながらも真摯に武将•領主の務めを全うするようになります。
 そして中先代の乱では時行&吹雪と戦い、彼らが将監専用に編み出した「二牙百刃」によって討死。今際の際に武士として死ねることを喜ぶ一方、領主の自分を慕ってくれた女の子との別れを惜しんだことで、一点悔いの残る切ない最期となりました。死後、吹雪によって首を取られます。

・今川範満(11巻90話):最愛馬の瑪瑙を喪ってから、足利直義の囁きに従い戦場で百頭の駄馬を殺す非道を通して瑪瑙の幻影を追っていました。
 庇番衆として北条軍時行と駆け競べをし、吹雪にその隙を突かれて討死しました。最期に己の非道を悔い、瑪瑙との別れを受け入れました。
 直接の描写はありませんが、郎党に自分の首を持ち帰るよう命じていることから死後首を取られたと考えられます。

 両者はそれぞれ非道を行いながらも自分の罪深さに気付き、罪と向き合っています。
 現報を免れないような罪深さがありつつも、その罪に向き合う≒仏教に帰依する選択をした結果、彼らは武士として戦場で討死を遂げ(敵討ちではない)、自分を慕う者と心を通わせることができ、しかし最後には悔いが残るという、複雑な余韻のある最期を迎えました。彼らの輪廻がこれからどのようになっていくのか思いを馳せずにはいられません。
 ちなみに、前掲の『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史』(生駒哲郎、吉川弘文館)を読むと将監や今川を思い起こすような段がそれぞれあり、いつかもっと二人を深掘りできたらいいなぁと思っています。


 最後は少し曖昧になってしまいましたが、主要人物の退場の仕方を罪や罪との向き合い方で描き分けていることで、各人の生き様を情感豊かに、しかし中世的にはシビアな目線で描いているような気がしてきました。それが逃げ若特有の濃厚かつあっけからんとしてヒリつく世界観を生み出しているのでしょうか。
 そんな世界観を生み出した元を知りたいので、いつか単行本などに参考文献を載せていただけたら嬉しいですね……。
 長文をお読みいただきありがとうございました。自分はこう思う!といったことがあれば教えていただけると嬉しいです🎵

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