『逃げ上手の若君』90話までの、今川殿(及び直義様)について

※単行本既刊9巻未収録部分の話をしています。


今川殿の切なさと、直義様の冷徹な優しさについて。

今川殿の超騎馬が瑪瑙と一緒に編み出した戦法だとすると、それを自分の力だけで再現してしまうことで、その瞬間瑪瑙を感じることもできるけれど、逆に瑪瑙がいなくても合体技を繰り出せるためにこの世から瑪瑙の存在を忘れさせてしまうんじゃないの、と考えたら切なくなりました。

あの超騎馬を永久欠番として封印すれば、今川殿の超騎馬は未来永劫瑪瑙と共に語り継がれただろうに、そうしなかったがために後世の人々は超騎馬で駄馬を使い潰す馬スクマンしか知らず、瑪瑙のことは当時の一族郎党の記憶の中にしか存在しなくなってしまった、のかもしれません。

ただ、あの状態の今川殿からすれば周りや後世への名の残り方などどうでも良いのでしょうが。というか今川殿は瑪瑙の未亡人だったから、瑪瑙の幻影に会うこと以外のことはどうでも良かったんだと思います。

いくら戦場で生き生きと走り回っていても、馬スクで自分の世界を完全に閉じて何も誰も心に新しく受け容れようとしないのは、私は緩やかに死に向かっているのと変わらないと思います。そっか、瑪瑙を追って自害しようとしていた時と、駄馬で超騎馬していた時、溌剌さは全然違うけど心の中は全く変わっていないのか……。


とすると、直義様の悪魔的提案について、私は今川殿の心を捻じ曲げたと解釈していたけれど、そうではないのかもしれません。
直義様がしたことは、あくまで今川殿の死への望みを変えさせることはせず、足利や尊氏様のために良き働きをできるよう感情の出力の仕方をチューニングしたということなのかな。石塔殿に八幡神社の舞台をプレゼントしたのと同じように。

それは、他人の心を決して勝手に改変しない、冷徹とも言えるし過干渉のない優しさとも言える、直義様独特の他人との関わり方なのかもしれません。最近直義様の解像度が上がり続けてるし謎が深まり続けてます。
そして、それは国司の望みを神力涎で上書きしてしまった尊氏様とは相反するもの。いつか二人のやり方がぶつかってくれたら熱いです。

まとめ:今川殿の色気の根源は、死の香りなのかもしれません。(そういう話だったっけ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?