映画の話「花束みたいな恋をした」

映画館に一人で来ると上映前に思い出で死にそうになる。
季節はまだひとつかふたつしか変わっていないのに、あれから映画を見た回数はそんなに増えていないのに、変わってしまったことが多過ぎる。

こんなふうに綺麗なフォントで自分の文章を書いて、評価されたことを正当だと勘違いして、甘い目も痛い目もそれこそ映画のような場面もいくつか見てきて、私は本当に疲れたはずなのに、性懲りも無くまた書いている。

ブログを最初に書いたのはいつだっけ。
確か中学に上がる頃。
古いノートパソコンで、ネトゲすらインストールできなかった。おかげて廃人にはならなかった。元々ゲーム嫌いだけど。

何年かぶりにnoteにログインしたら、下書きがひとつ残っていた。

上京一年目、最寄り駅にTOHOシネマズがあることが何より嬉しい、手取り14万の私が書いている。ひとつ映画を見終わって、「植物図鑑」の開場までにアカウントを作ったのだと思う。
そのときロビーで猫背だったことは覚えているのに、もう一本は何を観たのか、「あれから」が何を指すのか、さっぱり思い出せない。
それでもこうして引用してるのは、当時の私が観たら泣いていたからだ。私のための映画だと思っていた、「花束みたいな恋をした」。
どうして泣けなかったのかを、覚えておきたいと思った。

※ネタバレしてます※


Twitterを開いてもtiktokを開いても本編の台詞が流れてくるので、一刻も早く観なければと思っていた。
手取りはほんの少し上がったけれど、できるなら映画はサービスデーに見たい。

就職を境にすれ違うことは知っていた。京王線が舞台なのは知らなかった。
二人が同棲を新宿から30分の調布駅、更に歩いて30分の部屋を借りた時点で終わりの形が見えた。あれほど就活に不向きな立地も無い。
京王線は本当に、それこそフリーターだった頃の二人には夢のような路線だと思う。昼前に起きて、良い天気の日に川沿いを歩いて、思いつきで新宿や渋谷まで出かける暮らしだったら。
しかし9時の始業に合わせて都心へ向かう電車では毎日満員で片足が浮き、人身事故で頻繁に遅延する。そして、混み合う朝のホームでは飛び降りる気持ちが手に取るように分かってしまう。革靴で舗装されていない道を歩いた後なら、余計に。ずっとお揃いのスニーカーだけ履き続けていたら、恋は別の形で終わっていたかもしれない。

まず、麦くんは最初から弱くて卑怯だった。それが優しい絵を描ける理由だと言われればそれまでだけど、激務で人が変わったわけではないと思う。
仕送りの五万がなくなって、浅ましさと意地悪さが露呈されただけだ。そもそもなんで大学卒業しても仕送りもらえると思ってるんだ。
麦くんの世界は麦くん以外全部間違っているから、じゃんけんのルールも許せないし現状維持に努めなかった(ように見えた)パン屋もどうでもいい。
絹ちゃんのことも自分に重なっているところだけ大事にして愛して、それ以外はダサいと拒絶した。拒絶の仕方までダサい。絹ちゃんが畳んでくれた洗濯物も淹れてくれたお茶も見てない。それは無償なんかじゃないのに。
意地張って店を出た初対面の女を追いかけてトイペ奪うとか、Tシャツとトレパンで新宿駅走るとか、そういうものたちのお返しなのに。
「風立ちぬ」の二郎と一緒で、愛されたから愛しただけだ。麦くんにとっては絵を褒めてくれて、優しく、可愛く、笑ってる絹ちゃんだけが絹ちゃんだった。

そして意地っ張りな絹ちゃんもきっと、今までの男たちに理屈っぽいとか頑固とかすぐ一人になりたがるとか、そういう文句を言われたり見下されたりして疲れていたんだと思う。だから同じ作品を見ていることが嬉しくて、飲む場面を設けてくれたサラリーマンを鼻で笑った失礼さよりも、共有できる喜びが勝った。

都内の広い実家でのびのび育った絹ちゃんにはボロアパートも立地の悪い二人暮らしも新鮮で、自分で見つけて手に入れた幸せだった。
広告代理店独特の高慢さを持つ両親にうんざりしながらも、彼らを嫌悪する言葉ですら与えられた教養からきている。そんな自分も退屈だったから、麦くんの存在そのものが大きな刺激だった。

生まれも育ちも違うのに二人の疎外感はよく似ていて、外れた部分を補うんじゃなくて抱えるようにして始まった恋愛だから、社会に適合して終わるのは当然の摂理だった。

飢えるように本で映画で写真で言葉を摂取する人たちは、自分自身や周囲に向ける言い訳をたくさん持っている。そして、言い訳が尽きると殴ったり怒鳴ったり不機嫌になったりする。
麦くんだって、絹ちゃんにお店紹介できるよ、と持ちかけられたとき、反射で怒らないどころか「ちょっとアリかも」って顔してた。
絹ちゃん可愛いしスタイル抜群だし、愛想良いし話題も豊富だし。それらを武器にしてたくさんのお金を持ち帰ってくる彼女のサポートをしながら、家で単価300円ちょいの絵を描いて待っていたい。
そんな麦くんの願望を、遮ったのも恋心と思い出だ。それはお揃いの刺青を入れた先輩と彼女にはないものだった。きっと2人もどこかまでは恋だったのに。

仕事が忙しいことも作品に思うような値段がつけられないことも、彼女を殴る理由にはならない。ならないのに、今日もどこかで殴られてる女の子がいる。
絹ちゃんの転職を麦くんは稚拙な言葉で罵った。男の人は「知らされていない」「自分の知らない世界を持っている」ということに物凄く怒る、と鈴木涼美氏の本に書いてあった。伝えられなくなるほど不機嫌に過ごしていたのは自分なのに。
麦くんのそんな身勝手さは、先輩まであと一歩のところまできていたんだと思う。絹ちゃんも「私はやりたくないことはやりたくない。ちゃんと楽しくいたいよ」って大きな声で言ったけど、それでも引き継ぎして退職届を出して、2人分の洗濯物を畳んで麦くんを宥めている。麦くんが「やりたくないこと」と認識すらしないでいられるのは、絹ちゃんが先回りしてやってるからだ。

「結婚すればいいじゃん」って言った時点で、麦くんも他の、例えば絹ちゃんのお父さんとか、コリドー名刺配りマンとかと同じ、「女の子なんだからのんびりした仕事して家にいなよ、洗濯物でも畳んでさ」って見下している自覚もない男の人たちと同じになってしまった。だからこそファミレスで見た若いカップルとかけはなれた今が苦しくて、それでも別れる決意は揺らがないし、最後まで冷静だった。

私は物語は好きだけれどサブカルのノリがとことん好きじゃなくて、2人の関係性の美しさよりも界隈への嫌悪感が上回って泣けなかった。終始、考えれば分かるじゃん、と思ってしまう。
唯一うるっときたのは、ファミレスで麦くんが「恋愛じゃなくても、」と口に出して初めて、恋愛じゃなくなっていたことに気づいたシーン。
そんなことにも気づけなくなるほど仕事は忙しくて、絵が描けないことはしんどかった。
それが一番悲しかった。

読み返すと、私がいかに洗濯物を畳みたくないかが浮き彫りになってしまった。
誰かが「有村架純って魔法なの?」って感想を呟いていて、私も相手を眩しく見るときの表情が魔法みたいに可愛い、と思った。
対して菅田将暉は、「男の子が男の子であるための部分」の輪郭をきれいになぞる宝石だ。
あとカラオケの選曲が抜群だった。これは「最高の離婚」でも思った。


そろそろ本屋さんが開く頃だから、ノベライズと「星の子」を買いに行こう。泣けないけど、好きな映画だった。