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【今こそ】求められるスポーツのあり方を考えてみた

画面越しに、その身体刺激を受け取る事が出来るのか。

コミュニケーション・テクノロジーが普及され、誰もが何処に居ようとスポーツを楽しめるようになった。少しの興味さえあれば、端末を手に取り、検索をかけ、タップするだけで試合は開始だ。

いたって簡単である。

それに、ファンの数を増やしたい各種スポーツ競技からすれば、その競技に触れる裾の尾を広げる為のハードルが低くなることによって、競技人口やファンが増加する可能性が広がり、少なからずの恩恵を受けているには違いない。

ビジネスの面でも大きなパラダイムシフトが起きた。

これまで、試合を観戦する為にはその試合が開催される「空間」にせっせと足を運び、チケットを買うために汗をかきながら長蛇の列を構成する一部となり、チケットを買う必要があった。

テレビで試合を観戦するという手段もあったが、テレビで放送される試合など視聴率が見込まれた試合だけであり、テレビ越しからはプロスポーツの氷山の一角しか垣間見え無い

【目と鼻と肌で感じたスタジアム】

僕は去年、徳島でJリーグの試合を観戦する機会があった。目的は明確で僕の友人の姿を見に行く為。

徳島から遠く離れた所に住んでいる僕は、その試合を観る為の「準備」に多くの労力とお金をかけざるを得なかった。

徳島行きの交通手段を携帯で調べ、そのバスのチケットを購入する傍ら、PCではその試合情報を検索し、試合観戦チケットを購入した。その日宿泊するホテルもリサーチする。

試合当日には朝早く起きて、電車に揺られながらバスの出発時点まで移動し、朝のコーヒーを購入し、バスに乗り込む。

徳島に到着したは良いものの、スタジアムまでの距離が異常に遠く、電車も一時間に一本しか迎えに来てくれない事が判明し、仕方なくタクシーに乗ってスタジアムまで移動した。


ようやくスタジアムに到着した僕は、真夏のくそ暑い中、売店に足を運び冷えたビールを購入した。そのビールを飲みながらスターティングメンバーをチェックすると、なんとお目当てであった僕の友人の名前はなかった。

この試合で友人が試合に出場することでしか僕の感情は埋め尽くされない事は一目瞭然であり、そんな僕はその情報を目にした途端、「あ、これはやばい」と落ち込む自分を俯瞰的に想像し、自分のメンタルをリカバリーする準備までしていたのだが、実際のところまったくダメージは無かった。

その時は不思議な感覚だったが、友人が出ることが無い試合を目の前に、試合前からジワジワと高揚していたことを今でも覚えている。(スタジアム空間が素晴らしかったことも起因しているだろう)

試合終了のホイッスルが鳴った。僕の友人もわずか10分くらいの出場時間であった。正直、試合内容も覚えていない。

しかし、そのとき目の前に広がっていた景色、スタジアムにひしめく人たちの汗と広大に広がった芝生の混ざった匂い、ガタガタで座りづらかった座席の感触だけは今でも美しい記憶として刻まれている。

何故なんだろう。僕の友人が活躍する画面越しに見た試合よりも、カタルシスに溢れていた。

【元の居場所に戻るのではないか】

コロナウィルスの影響によって、様々な業界で予定されていたオンライン化が急速に普及された。リモートワークで済む仕事はオフィスに赴かないようになり、今までは一室に閉じり行っていた会議も、家からWi-Fiを繋げば出来るようになった。

いや、厳密に言えばやっと実践され始めた。

ましてや、僕たちが大好きな飲み会までも、オンラインで行われるようになっている。

もちろん、オンライン化が進むことによってコストパフォーマンスは高くなり、効率化という面での可能性を秘めていることは間違いない。

しかし、

だからこそ、本当に重要なコトだけが生き残り、人間もオンライン化が進むことによって自分が最も求めているコトが明らかになるのではないだろうか。


僕はやっぱりスタジアムが好きだ。

スタジアムには十人十色の感情と鬱憤が密に交差していて、選手のパフォーマンスを見ることによって、非日常空間をシェアすることが出来る。そして、その作業が不可欠だ。

湧き出てくる怒りと喜びのような熱狂に満ちたスタジアムには、科学では示すことの出来ない特有の臨場感がある。

目と鼻と肌でスタジアムを感じることが出来る瞬間を求め、人はスタジアムに足を運ぶのかもしれない。

画面越しに観戦するスポーツを否定している訳ではない。一度のタップで試合が行われるのだから、居住地に左右されることも無い。

準備と期待

スタジアムに向かうまでの移動からエンタメは既に始まっていて、移動時間も試合というコンテンツに結び付けられる。

その移動空間をどのように設計するかによって、スタジアムで得られる快感の質もきっと変わるだろう。

スタジアムに向かう道中、チームのユニフォームやフラッグが視界を横切る。

スタジアムが近づくにつれて、同じ目的をもって足を運ぶ仲間もぞくぞくと増えていく。

移動しながら、携帯でチームや試合の事前情報をチェックする。

このようにして試合に臨むまでの高揚感を設計するのだ。

移動と準備によって提供されるエンタメ。

もっと言うと、我々のスポーツを「見る」スキルが求められているのではないだろうか。スポーツを楽しく「見る」という技を磨く。

大きな痛みと共に時代も大きく変わろうとしている。

怒りと喜びが入れ混じった「感情スポーツエンタメ」はどのような姿へと適応していくのだろうか。

便利になっていく世の中だからこそ、「やっぱりこれだね」といった“どうしても外せないコト達”が生き残り、我々スポーツを楽しむ人間たちにも、スタジアムで味わえる“楽しみ”を増幅させるようなスキルを求められているような気がする。

時代の変化と共に、人間が行うべき業務はAIが代替するようになる。よって、人間は暇を持て余すことになるだろう。

暇を持て余す

この言葉にスポーツの本質が隠されているのかもしれない…