【愛多憎生】を考える

【愛多憎生】あいたぞうせい

 人から受ける愛や恩も度を越すと、そのためにかえって人の憎しみやねたみえお買うことになるということ。
(豊富な用例でよくわかる 四字熟語辞典 改訂第3版より引用)

 こんにちは、異羽です。
 人から優しくされて嫌な人などいるんでしょうか。という疑問が出た時点で、まぁいるのでしょう。
 僕は「人間が想像できるものは必ず存在できる」と信じているので、たった今、優しさを嫌がる人がどこかに生まれました。

 その時の心理は、どういったものなんでしょうね。「自分なんかに」って心の底から思えるほど大多数の人間って根っから卑屈ではないと思うんです。結局優しさに対しては頬が綻ぶだろうし。
 じゃあ「欲しい優しさはそれじゃない」なんでしょうか。多分こっちの方が当てはまるケースが多そうですね。

 かくいう僕も、そう感じる時はあります。そして同時に、相手がどんな優しさを欲しているのかを常日頃うっすらと考えていたりします。
 僕は「根は良い人」を良い肩書きだとは露ほども思っていません。それを言われる人っていうのの大半は表面上は厳しいか怖いかのどちらかですから。
 中身がどうであれ表面が"そう"であれば、印象として持つのは"そう"の方なので絶対表面から優しくある方が自他共に幸福であることは明確なのに、不思議とそうしない人がいます。

 そしてこれは個人的感覚によるものなのですが、周囲の人に「根は良い人」と言われてる人は、そう言われることで所業がトントンになっていると思っているのではないかと。いやいや、そんなことはなく。
 交流の中における考慮の無さが「根は良い人」でひっくり返るんだったら、そんな簡単なことはありません。まぁ、人それぞれのことではあるんですけどね。

 今はっきりと自覚しました。愛多憎生の憎を僕は強く体現してますね。

 「嫌われ役」とかいう、意味のわからないことをする人がいますね。僕は以前の職場で先輩が「いいよ私は嫌われ役で」と言っていたのを聞いて「役とか関係なく普通に嫌いですけど仕事だから喋ってるんですよ」って思って飲み込んだことがあります。その人に限った話ではありますが、悦に入っているのが非常に嫌でしたね。
 多分それはその人なりの優しさだったんでしょうけど、それに共感できるほど僕は人に嫌われたいと思っていないので、三歩ほど引いた状態で関心を向けようと思います。

 優しさを反転して出力したことで、逆に(順に?)憎しみを生んでいるのですから難しいわけです。反骨精神で燃え上がる人にとっては良いアクセルとなるのでしょうか。

 愛を与えて憎まれるのであれば、それならちゃんとストレートに優しくしていた方が人生を計上する時に良い存在に転生できそうですよね。
 ここで憎んできた相手に「優しくしたのに!」と憎み返さないように気を付けたいですね。人を呪わば穴沢山、ですんで......。
 嫌われ役になって憎まれても「そらそーやろ」としか思わないですが、まぁ順当ですんでモヤを抱えずに人生の計上を行えそうではありますね。閻魔様ってそういう翻った優しさを理解してくれるのかな。

 ていうか閻魔様自体が翻った優しさの権化か......じゃあ地獄ってそっちに味方するじゃん! これだから嫌われ役はイヤなんだ〜〜〜〜!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?