朗読への想い

日本語は字で読むと意味が分かるという世界でもかなり稀な言語である

と、思ってる
それはもう、幼い頃から読書しまくった僕としては、読めば読むだけ意味がわかって来たのだから、誰が否定しようが一切の相手をする必要もないほど真実であり、それがために日本人の「読解力」は世界でも有数の後進国だと感じている

いまここに挙げた「読解力」とは何が書かれているか分かる力のことじゃない、なぜ書かれたか分かる力の事だ。
なぜ書かれたか?は?
って思う人は沢山いるだろう。
でも、大事なのはなぜ書かれたか、だ。

一旦、読解力の話は外へ置く

朗読というのは何だろうか?
一人一人が紙に書いてある事を自分で黙読する方が圧倒的に効率が良いにも関わらず、朗読という分野はそれこそ「読み聞かせ」から「朗読劇」に至るまで広範囲にある。僕はというと誰かの朗読を、誰かの字を読むその音を聞くのが大嫌いだ、それこそ子供の頃から国語の先生が読んで聞かせようものなら作品を誤解して仕方なかったからとにかく嫌いだったし、今でも嫌いだ。下手したら、ニュースだって下手な奴が読むと良いニュースか悪いニュースか分からなくなる。行間もなく、読解力を必要としないニュースでさえ、そうなのだ。

本を読むという行為は二種類ある

自分で黙して読む、という行為と
声に出して誰かに読む、という行為だ

前者に読解力は必要ない
ハッキリ言い切る
前者に読解力は必要ない、好きにすればいい、間違った解釈でも誰にも迷惑はかけない、生涯全くもって的外れな感想を抱いても誰にも怒られない
日本語は親切で書いてある通りが意味だ、例外はあっても、そんなに大きな問題にならない、自分で黙して読むモノの解釈なんてものは好きにしていい

ところが、だ
後者はそんなわけにいかない。いかないなんてものじゃない、後者は聞く人と、書いた人とに責任を持たなければならない、この場合の責任を持つというのはただ一つ「読解力」によってのみである。あ、いや、まだあった。技術だ。それにしたって、読解力がないのに技術なんか使い道がない。読解力だけが、一先ず絶対に必要になる。黙読で意味だったものは、朗読では役に立たない。これは絶対だ。
例えば「テンコウ」という言葉が出て来たとする。黙読で「天候」なら誰が見たって天気のことだ。でも朗読で「テンコウ」と聞いたら「転校」かもしれないし「転向」かもしれないし「天香」かもしれない。というと、前後の文脈から分かるでしょう?という人がある。は?前後の文脈?黙読において前後の文脈にかけられる時間は極端な話、一年くらいだって可能だ。自分で黙読してるんだから。ところが朗読においては前後の文脈が2〜3行程度の文章の場合、所用時間はおよそ40〜70秒だ。この時間の中で聞き手が誤解しないと誰が言い切れるのだろう?誤解をなくすのは、読解力と技術だ。読解力というのは自分が理解する力じゃない、聞く人に誤解を与えない力だ。この点において日本人は普段親切な文章をゆるい気持ちで読んでるから、他人に誤解を与えないように朗読するということが出来ない、ひいては台本が読めないとくる。台本が読めないんじゃない、芝居の仕方がわからないのだ。誤解と退屈を生まないで、スリリングにお客様を導く立体力がないのだ。

それはなぜか?

なぜ書かれたか、分からないからだ。
なにそれ?
って、なるだろう。
なぜ書かれたかとは、簡単に言うと根底にどんな感情が存在するか、だ。その感情の存在をお客様にチラチラ提示することで、誤解がなくなり、物語が始まり、枝葉に惑わされず、必要な情報が精査され、ともすれば、奇跡的に「感動」に巡り合うのだ。
なぜの根本は、正義感であり、トラウマであり、アンチテーゼであり、訴えであり、告白だ。
それらを「物語を通して、お客様の経験則と感情にアプローチするのが朗読」だ。お話が、物語が、複雑だから、難解だから「分からない」と言われてしまうのは、ただ単にこの「なぜ?」の感情部分にアプローチが足りないからだ。物語は世界に溢れている。古典だから難しいとか、現代だから分かるとか、ギリシア人の事は知らないとか、神様だから自分たちとは違うとか、ツルゲーネフは変態だからとか、一切関係ない。人類が生まれてから今日まで連綿と続けて来た、愛して憎んで許して忘れたいと願ってやまなかった「感情」は世界中共通であるはずだし、そこに小説の意義があり、朗読の深淵があるのだ。

僕はそう信じて、朗読を続ける。
朗読会『夢十夜』に寄せて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?