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【虹ヶ咲】桜坂しずくとケモ耳【脚本の根幹】


今回は、【2期5話】でしずくが執筆した脚本の内容について私見を述べさせていただけたらと思います。

また、「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」を含む、【2期5話】でしずくが執筆した脚本を元にした演劇(以下「しずくミュージカル」とします)は、私たち視聴者からすると、いわゆる「作中作(劇中劇)」という位置づけの存在であり、少し複雑な構造になっています。

【2期5話】より引用

※上記画像の描写部分は(おそらく)しずくの脳内イメージであり、厳密に言えば観客の前で披露している演劇ではありませんが、便宜上この部分(を元にした演劇)も「しずくミュージカル」としています。

そのためこの記事では、私たち視聴者の世界に演劇(ミュージカル)として存在している「スクールアイドルミュージカル」を例にして、

  • 「しずくたち虹ヶ咲の世界としずくミュージカルの関係」と、

  • 「私たち視聴者の世界とスクールアイドルミュージカルの関係」

を比較しながら話を進めていきたいと思います。

兵庫と大阪、関西に位置する二つの伝統校。
芸能コース選抜アイドル部の活躍で
ブランド化に成功した大阪・滝桜(タキザクラ)女学院と、
昔ながらの進学校、兵庫・椿咲花(ツバキサクハナ)女子高校。
対立する2校の理事長の娘である二人の少女が
アイドル活動を通じて出会うことで、
彼女たちを取り巻く小さな世界に、
大きな変化が生まれていく―。

大事な約束より大事なことを探して……。

新たな舞台(セカイ)で始まる、「みんなで叶える物語スクールアイドルプロジェクト」。
いま、スクールアイドルをはじめよう!!

スクールアイドルミュージカル 公式サイト』より引用

堀内 まり菜(ほりうち まりな、1998年4月29日- )は、日本の女優、声優、アイドル、モデル。東京都出身。
出演
・スクールアイドルミュージカル - 椿ルリカ
 ・東京公演(2022年12月10日 - 15日、新国立劇場)

堀内まり菜 - Wikipedia』より引用

とはいえ、スクールアイドルミュージカルの展開や登場人物の言動などを例として挙げるわけではないので、スクールアイドルミュージカルについて把握しておいていただきたいのは、

  • スクールアイドルミュージカルとは、高校生の椿ルリカが主人公の物語である

  • 高校生の椿ルリカを演じている堀内まり菜氏は、スクールアイドルミュージカル出演時点で高校生ではなかった(24歳だった)

という2点だけです。

それでは、

  • 虹ヶ咲という作品についてというよりかは、

  • ものごとの見方や考え方について

という意味合いが強い記事になっていると思いますが、ぜひ最後まで読んでいただけますと幸いです。


①:虹ヶ咲の世界の住人は、しずくミュージカルを演劇の舞台(=フィクション)であると認識できている


【2期5話】より引用

しずく「これ… お恥ずかしいんですが、先日お話してた台本です。」
侑「歩夢とせつ菜ちゃんをイメージしたお芝居だよね。」
しずく「はい。 この話をベースにお二人による歌とお芝居のユニットができればと思ってるんですが…。」

【2期5話】より引用

まず、しずくミュージカルは、しずくによって執筆された脚本を元にした演劇であるため、当然しずく本人は、しずくミュージカルが演劇(=フィクション)であることを認識できています。

そして、上記引用の通り、侑や歩夢といった虹ヶ咲の世界で生きている住人たちも、しずくミュージカルが演劇(=フィクション)であることを認識できています。

スクールアイドルミュージカルを例にすると、

  • 私たち視聴者の世界の住人は、スクールアイドルミュージカルが演劇(=フィクション)であると認識できているように、

  • しずくたち虹ヶ咲の世界の住人は、しずくミュージカルが演劇(=フィクション)であると認識できている

ということですね。

ちなみに、

  • 私たち視聴者の世界の住人は、視聴者の世界を現実だと認識しており、虹ヶ咲の世界としずくミュージカルの世界はフィクションだと認識している

  • しずくたち虹ヶ咲の世界の住人は、虹ヶ咲の世界を現実だと認識しており、しずくミュージカルの世界はフィクションだと認識している(視聴者の世界は認識できない)

  • 野獣たちしずくミュージカルの世界の住人は、しずくミュージカルの世界を現実だと認識している(視聴者の世界と虹ヶ咲の世界は認識できない)

という構造になっています。


②:しずくは、ケモ耳をつけた野獣役のせつ菜を恐ろしい姿であると意図しており、美しい姿であると意図しているわけではない


【2期5話】より引用

しずく「恐ろしい姿であるがゆえに、愛する気持ちを少女に伝えられない野獣。 一方、少女もまた野獣に惹かれていく。」

【2期5話】より引用

上記引用から、しずくミュージカルの制作者であるしずくは、野獣役のせつ菜の姿について、

  • 美しい姿であるとは意図しておらず、

  • 恐ろしい姿であると意図している

ことが読み取れます。

おそらく、人間にとって異形の耳(=ケモ耳)をつけることによって、野獣役のせつ菜の姿が恐ろしい姿であることを表現しようとしているのでしょう。

※ちなみに、しずくは野獣役のせつ菜の姿を「醜い姿である」とは言っていません。

スクールアイドルミュージカルを例にすると、

  • スクールアイドルミュージカルの制作者は、高校生役の堀内まり菜氏(当時24歳)について、24歳ではなく高校生であることを意図するために、学生服(のような衣装)を着せることによって高校生を表現しているように、

  • しずくミュージカルの制作者(=しずく)は、野獣役のせつ菜について、美しい姿ではなく恐ろしい姿であることを意図するために、人間にはないケモ耳をつけることによって恐ろしい姿を表現している

ということですね。

ここで注意していただきたいのは、

『視聴者(あなた)が野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であると思えるかどうかについては一切議論していない』

ということです。

つまり、野獣役のせつ菜の姿に対して、

  • 視聴者が恐ろしい姿に見えるかどうかという「視聴者の気持ち」についての話をしているわけではなく、

  • 制作者(=しずく)が恐ろしい姿に見せようとしているかどうかという「制作者の気持ち」についての話をしている

ということであり、【2期5話】の展開やしずくの言動から、

『制作者であるしずくは野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であると意図している』

と読み解くのが妥当だと私は解釈しています。

※もちろん上記引用の台詞について、たとえばしずくが嘘をついていたり、誰かに無理やり言わされている等の可能性も考えられるので、私の解釈が妥当ではないという見解の人は、なぜそう思うかの理由とその理由を裏付ける根拠を作中の描写から具体的に教えていただきたいです。


③:視聴者が野獣役のせつ菜の姿をどう思うかは主観的な感想であり、視聴者の自由である


それではここで初めて、視聴者(あなた)がどう思うかについての議論をしましょう。

【2期5話】より引用

まず、視聴者が野獣役のせつ菜の姿をどう思うかについて、制作者(=しずく)が何を意図しているか等を考慮する必要はありません。

※制作者の意図を考慮してもいいし、考慮しなくてもいいということです。

そして当然、虹ヶ咲という作品内にあなたの気持ちが描写されているわけでもないので、視聴者それぞれ(あなた)の心に抱いた感情(≒主観的な感想)がそのまま理由となり根拠となり、あなたにとっては100%正しい解釈となります。

※ここでは、物語の展開や登場人物の言動などといった描写(≒制作者の意図)を考慮せずに視聴者の心に抱いた感情のことを「主観的な感想」としています。

つまり、

『「制作者の意図」と「視聴者の感想」は必ずしも同じである必要はなく、視聴者それぞれの心に抱いた感情(≒主観的な感想)は、(自分の心の中で思うだけなら)誰にも否定できるものではない』

ということですね。

厳密に言うと、

  • 自分の心の中で思うだけなら誰にもバレることはないので、際限なくどんな気持ちを抱いてもどんな妄想をしても自由(誰にも否定されない)ですが、

  • その気持ちや妄想などを公で主張することには責任が伴う(誰かに否定され得る)ため、「際限なく自分の気持ちや妄想などを公で主張していいわけではない」という意味で限度はある

ということです。

逆に言えば、しずくが本当に野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であると意図しているかどうか(=しずくの気持ち)も、極論ですがしずく本人に聞いてみないとわかりません。

しかし、しずくは視聴者の世界ではなく虹ヶ咲の世界(=フィクション)の住人であり、直接しずく本人に聞くことができないため、私たち視聴者は物語の展開やしずくの言動(≒客観的な描写)などから「しずくはこう思っているのが妥当だろう」と読み解こうとしているわけです。

スクールアイドルミュージカルを例にすると、

  • 学生服(のような衣装を)着ている(当時24歳の)高校生役の堀内まり菜氏を高校生だと思えるかどうかは、スクールアイドルミュージカルの制作者の意図にかかわらず(自分の心の中で思うだけなら)視聴者の自由であるように、

  • ケモ耳をつけている野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿だと思えるかどうかは、しずくミュージカルの制作者(=しずく)の意図にかかわらず(自分の心の中で思うだけなら)視聴者の自由である

ということですね。


④:私は野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であると思える


結論から言うと、

  • 視聴者の世界の住人である私や虹ヶ咲の世界の住人は、しずくミュージカルが演劇(=フィクション)であることを認識できていて、

  • 野獣役のせつ菜は恐ろしい姿であるという、その演劇の制作者(=しずく)の意図を把握しており、

  • 私はその制作者(=しずく)の意図に寄り添うことができるので、

野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であると思えます。

【2期5話】より引用

厳密に言えば、

  • 上記引用の絵"だけ"を見た場合では、この人物を恐ろしい姿であるとは思わないですが、

  • この人物は演劇の舞台上(=フィクション)で野獣役を演じており、その演劇の制作者はケモ耳をつけることでこの人物を恐ろしい姿であると意図しているという「この絵の前後の文脈」を知っている場合では、この人物を恐ろしい姿であると思える

ということです。

この考え方は、今回の記事で私が一番伝えたい部分なのですが、おそらく今回の記事で一番難しい部分でもあると思うので、もう少し例を挙げながら丁寧に説明します。

ケモ耳を軸に例を挙げると、

  • 視聴者の世界の住人である女子高校生が、ディズニーランド(=私やその女子高校生にとっては現実である視聴者の世界)で、ミッキーのカチューシャ(≒ケモ耳)をつけているところを見た場合は、その女子高校生を恐ろしい姿だとは思わないですが、

  • その女子高校生が、学校の文化祭の演劇(=フィクション)で野獣役を演じており、ミッキーのカチューシャ(≒ケモ耳)をつけることで恐ろしい姿であることを表現していると知っている場合は、舞台上のその女子高校生を恐ろしい姿の野獣であると思える

ということになります。

スクールアイドルミュージカルを例にすると、

  • 視聴者は、スクールアイドルミュージカルを演劇(=フィクション)であると認識できており、スクールアイドルミュージカルの制作者は、学生服(のような衣装)を着せることによって(当時24歳の)堀内まり菜氏は高校生であることを表現しているという意図を視聴者が把握している場合、その意図に私は寄り添えるので、舞台上の堀内まり菜氏を高校生の椿ルリカであると思えるように、

  • 視聴者や虹ヶ咲の世界の住人は、しずくミュージカルを演劇(=フィクション)であると認識できており、しずくミュージカルの制作者(=しずく)は、ケモ耳をつけることによって野獣役のせつ菜は恐ろしい姿であることを表現しているという意図を視聴者や虹ヶ咲の世界の住人が把握している場合、その意図に私は寄り添えるので、舞台上のせつ菜を恐ろしい姿の野獣であると思える

ということですね。

スクールアイドルミュージカル 公式サイト』より引用

別の言い方をすれば、

  • 堀内まり菜氏が、視聴者の世界に存在しているところ(たとえばプライベートで東京駅周辺を歩いているところ等)を見た場合は、高校生の椿ルリカだとは思わないですが、

  • 上記画像の姿をした堀内まり菜氏が、スクールアイドルミュージカルの世界(=フィクションである演劇の舞台上)に存在しているところを見た場合は、高校生の椿ルリカだと思える

ということです。

また、仮に野獣がしずくミュージカルの世界の住人ではなく、虹ヶ咲の世界の住人(=歩夢や侑たちにとって野獣は現実の存在)であったとしたら、

『ケモ耳以外はほぼせつ菜なんだから、歩夢や侑といった虹ヶ咲の世界の住人たちが、野獣を見て恐ろしい姿であると思うのはちょっと無理があるんじゃないの?』

と私は思うことになるでしょう。

そして前述の通り、野獣役のせつ菜をどう思うかは(自分の心の中で思うだけなら)個人の自由であり、誰かが否定できるものではないと私は思っています。

ただし個人的には、演劇の舞台(=フィクション)であることを認識できていて、制作者の意図も把握しているのに、

  • 舞台上で学生服(のような衣装)を着た堀内まり菜氏は高校生に見えないとわざわざ主張したり、

  • 舞台上でケモ耳をつけた野獣役のせつ菜は恐ろしい姿に見えないとわざわざ主張することは、

非常に野暮でナンセンスな行為だと思ってしまいますね。

※これはあくまでも私見であり、上記のような行為を否定しているわけではありません。


⑤:私はしずくミュージカルを美少女同士の物語であるとは解釈していない


そして、私としては、

  • 客観的な描写を根拠にして、「この人物はこう思っていると考えるのが妥当だろう」と解釈するのではなく、

  • 物語の展開(≒前後の文脈)や登場人物の言動などは考慮せず、「自分がこう思うから」という主観的な感想を優先して根拠にし、制作者や登場人物にその主観的な感想を押し付け、その人物も自分と同じ感想を抱いているだろうと解釈する

のは難しいですね。

具体的に言うと、

  • 作中に、しずくミュージカルの制作者(=しずく)は、しずくミュージカルを美少女と野獣の物語であると意図しているという描写があるのに、

  • その意図(≒客観的な描写)を考慮せず、「自分は野獣役のせつ菜が恐ろしい姿に見えない(美少女に見える)」という主観的な感想を優先して根拠にし、

  • しずくミュージカルの制作者(=しずく)は、自分と同様にしずくミュージカルを美少女同士の物語であると意図していると解釈する

のは難しいということです。

※厳密に言えば、しずくミュージカルの制作者(=しずく)は、町娘役の歩夢の姿を「美しい姿である」とは言っていないですが、便宜上ここでは町娘を「美少女」としています。

スクールアイドルミュージカルを例にすると、

  • スクールアイドルミュージカルの制作者がスクールアイドルミュージカルを「高校生が主人公の物語」であると意図していることを(自分は)把握しているけど、自分は高校生役の堀内まり菜氏が高校生に見えない(24歳に見える)ということを根拠に、スクールアイドルミュージカルの制作者はスクールアイドルミュージカルを「24歳が主人公の物語」である(=高校生が主人公の物語ではない)と意図していると解釈するのは難しいように、

  • しずくミュージカルの制作者(=しずく)がしずくミュージカルを「美少女と野獣の物語」であると意図していることを(自分は)把握しているけど、自分は野獣役のせつ菜の姿が恐ろしい姿に見えない(美少女に見える)ということを根拠に、しずくミュージカルの制作者(=しずく)はしずくミュージカルを「(序盤からずっと)美少女同士の物語」である(=美少女と野獣の物語ではない)と意図していると解釈するのは難しい

ということですね。

ディズニー 公式』より引用

また、しずくミュージカルは(序盤からずっと)美少女同士の物語である(=美少女と野獣の物語ではない)と主張することは、上記引用の『美女と野獣』という作品について当てはめると、

  • 『美女と野獣』の制作者が『美女と野獣』という作品を「美女と野獣の物語」であると意図していることを(自分は)把握しているけど、

  • 自分はこの野獣が醜い姿に見えない(美男に見える)ということを根拠に、

  • 『美女と野獣』の制作者は『美女と野獣』を「(序盤からずっと)美女と美男の物語」である(=美女と野獣の物語ではない)と意図していると主張する

ようなものだと思います。

このような、客観的な描写よりも主観的な感想を優先して根拠にする主張(≒自分以外に対する客観的な説得力がない主張)が通ってしまうと、たとえば、『美女と野獣』の制作者の意図は把握しているけど、

  • Aさんには野獣がオフィーリアに見えるので、『美女と野獣』の制作者は『美女と野獣』を「美女とオフィーリアの物語」であると意図していると(Aさんは)解釈する

  • Bさんには野獣が鎌倉に見えるので、『美女と野獣』の制作者は『美女と野獣』を「美女と鎌倉の物語」であると意図していると(Bさんは)解釈する

  • Cさんには野獣がSolitude Rainに見えるので、『美女と野獣』の制作者は『美女と野獣』を「美女とSolitude Rainの物語」であると意図していると(Cさんは)解釈する

  • Dさんには『美女と野獣』は、2018年の火星が舞台で美女はエールで野獣はコッペパンに見えるので、『美女と野獣』の制作者は『美女と野獣』を「2018年の火星が舞台でエールとコッペパンの物語」であると意図していると(Dさんは)解釈する

など、個人がそう思う分には(自分の心の中で思うだけなら)自由ですが、そのフィクションを見ている人が制作者の意図している(≒その作品で描写しようとしている)物語(の前提)に寄り添おうとしなければ、何でもアリになってしまいます。

個人的には、客観的な描写よりも主観的な感想を優先して根拠にし、「制作者や登場人物も自分と同じ感想を抱いているだろう」と自分の主観的な感想をその人物に押し付けて解釈する行為は、

  • その行為をしている人に読解力があるとかないとか以前に、

  • 物語の展開や登場人物の言動などから、物語や心情を読解しようとすらしていない、

非常に独りよがりで偏った解釈だと思ってしまいますね。(それを「読解力がない」と言うのかもしれませんが…)

※これはあくまでも私見であり、上記のような解釈を否定しているわけではありません。


⑥:まとめ


今回は、【2期5話】でしずくが執筆した脚本の内容について私見を述べさせていただきました。

【1期1話】より引用

フィクションであるアニメ(虹ヶ咲)を例にすると、上記画像の歩夢について、アニメ制作陣は歩夢が人間(少女)であると意図していることを(自分は)把握しているけど、

  • わざわざ「歩夢は視聴者の世界に存在している人間と比べると目が大きすぎるし鼻や唇がほぼないから人間には見えない」と主張することは非常に野暮でナンセンスな行為であり、

  • 客観的な描写よりも「自分は歩夢が人間には見えない」という主観的な感想を根拠に、アニメ制作陣は歩夢を「人間以外の生命体である」と意図していると解釈するのは非常に独りよがりで偏った解釈である

と私は思ってしまいますね。

※念のため記しておきますが、たとえば「アニメにおける人間の表現技法」についての議論で「アニメでは視聴者の世界に存在している人間と比べると目が大きくて鼻や唇はほぼ描写しない表現をする傾向がある」等と主張することは(真偽はともかく)野暮ではないと思っています。

これを【2期5話】でしずくが執筆した脚本の内容について当てはめると、

  • しずくが「美少女同士の物語を妄想している」わけではなく、

  • あなたが「しずくは美少女同士の物語を妄想している」と妄想しているだけであり、

  • あなたがそのように妄想することは(自分の心の中で思うだけなら)自由ですが、

  • その妄想は、野獣役のせつ菜の姿について、しずくは恐ろしい姿を意図しているという「客観的な描写」よりも、自分は美しい姿に見える(≒恐ろしい姿に見えない)という「主観的な感想」を優先して根拠にしており、

  • 「制作者であるしずくも自分と同じ感想を抱いているだろう」と自分の主観的な感想をしずくに押し付けて解釈していると私は判断するので、

  • 私はその妄想を「妥当な解釈」だとは思えない

ということになります。

しずく「恐ろしい姿であるがゆえに、愛する気持ちを少女に伝えられない野獣。 一方、少女もまた野獣に惹かれていく。」

【2期5話】より引用

上記引用の通り、「しずくは野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であると意図している」という根拠は作中(≒客観的な描写)にありますが、「(あなたの妄想と同様に)しずくは野獣役のせつ菜の姿を美しい姿である(≒恐ろしい姿ではない)と意図している」という根拠は一体どこにあるのでしょうか?

その根拠は、作中(≒客観的な描写)にはなく「あなたの主観的な感想(妄想)の中」にしかないのではないでしょうか?

それはつまり、「野獣役のせつ菜の姿を美しい姿である(≒恐ろしい姿ではない)と思い込んでいる」のは、

  • しずく(の意図≒客観的な描写)ではなく、

  • あなた(の気持ち≒主観的な感想)

ということなのではないでしょうか?

別の言い方をすると、

  • これは「しずくの気持ち(意図)を答えなさい」という国語のテストではないので、(自分の心の中で思うだけなら)どんなしずくの気持ちを妄想してもいい(=どんな支離滅裂な妄想であってもあなたにとってはそれが正解になる)のですが、

  • これがもし国語のテストだったら、あなたの気持ちは一切関係なく客観的な説得力があるしずくの気持ち(意図)を読解しなければいけないので、「しずくは美少女同士の物語を妄想している」という回答は、正解にはならないのではないか

ということですね。

私としては、

  • 視聴者の世界の住人である私は虹ヶ咲という作品がフィクション(アニメ)であることを認識できていて、

  • 歩夢は人間であるという、そのフィクション(アニメ)の制作陣の意図を把握しており、

  • 私はそのフィクション(アニメ)の制作陣の意図に寄り添うことができるので、

  • 歩夢を人間である

と思えるように、

  • 視聴者の世界の住人である私や虹ヶ咲の世界の住人は、しずくミュージカルがフィクション(演劇)であることを認識できていて、

  • 野獣役のせつ菜は恐ろしい姿であるという、そのフィクション(演劇)の制作者(=しずく)の意図を把握しており、

  • 私はそのフィクション(演劇)の制作者(=しずく)の意図に寄り添うことができるので、

  • 野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿である

と思えます。

そして、しずくミュージカルの制作者であるしずくは、しずくミュージカルを美少女と野獣の物語であることを意図している(少なくとも序盤は美少女同士の物語であることを意図していない)ので、

『(しずくの脳内イメージ部分の)しずくミュージカルの教訓は、視聴者の世界に存在している『美女と野獣』の教訓と同じであり、(しずくミュージカルはその『美女と野獣』を題材にしていると仮定しても)決して『美女と野獣』の根幹を蔑ろにしているわけではない』

と私は解釈しています。

仮に、『美女と野獣』の根幹となる教訓を「人を見かけで判断してはいけない」とすると、「野獣が醜い姿である」というのは枝葉となる具体に過ぎません。

例を挙げると、『ウサギとカメ』と同じ教訓を表現するためには、絶対に「ウサギ」と「カメ」が「かけっこ」をしなければいけないわけではなく、たとえば「人間」と「人間」が「出世競争」をすることでも、『ウサギとカメ』と同じ教訓を表現できます。

なぜなら、根幹となる教訓というのは、

  • 具体的なものではなく、

  • 抽象的なもの

だからです。

つまり、枝葉となる具体の存在が、醜い姿であろうと恐ろしい姿であろうと、男性であろうと女性であろうと、根幹となる「人を見かけで判断してはいけない」という抽象的な教訓を表現するための具体的な描写はいくらでも(無限に)創作できるので、

『しずくミュージカルで『美女と野獣』と同じ教訓を表現するためには、「絶対に登場人物は野獣で、その野獣は絶対に醜い姿をしていなければいけない」というわけではない』

ことになります。

【2期5話】より引用

※ちなみに、上記画像のしずくのノートには「獣少女」と書いてあることから、おそらくせつ菜が演じている野獣は女性だと考えられるので、しずくミュージカルは(少なくとも序盤は美少女同士の物語ではないが)百合の物語ではあると私は解釈しています。(ただしここに深入りすると、「では虹ヶ咲の世界に男性は存在するのか?存在しないのであればしずくはこれを百合の物語だと認識できているのか?」などという、視聴者の世界と虹ヶ咲の世界の違いについて(個人的には不毛だと考えている)議論をせざるを得なくなると思います)

そして作中には、

  • しずくはフィクションである野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であると意図している描写があり、

  • その野獣にケモ耳をつけることによって恐ろしい姿(≒醜い姿と同様に見かけで判断してしまう姿)であることを表現しているだろうという描写があり、

  • そのしずくの意図に私は寄り添えるので、

しずくミュージカルと『美女と野獣』の根幹となる教訓は同じであると私は解釈しています。

また、このように物語の展開や登場人物の言動などという、作中にある客観的な描写を(複数組み合わせて)根拠にして読解することは「善意の解釈」ではなく「妥当な解釈」であると私は考えており、反対に、

  • 客観的な描写よりも自分の主観的な感想を優先して根拠にし、

  • 制作者の意図や登場人物の気持ちなども自分の感想と同じだと押し付けて解釈することは、

『「妥当な解釈」ではなく、物語の展開や登場人物の言動などから読解しようとすらしていない「故意の解釈」(≒故意に良い解釈をした場合は「善意の解釈」、故意に悪い解釈をした場合は「悪意の解釈」)』

であると私は考えています。

※これはあくまでも私見であり、上記のような解釈を否定しているわけではありません。


最後に、これは私の独断的な憶測ですが、しずくミュージカルは『美女と野獣』の根幹を蔑ろにしていると主張している人は、

『好きだったしずくが、一見すると美少女同士の百合の妄想という自分の気に入らないことをしているように見えたのが嫌で、「自分の思い通りにならなかった」という不満にそれっぽい理由をつけて、正当な批判のように見せているだけ』

のように見え、

  • しずくが『美女と野獣』の根幹を蔑ろにしているのではなく、

  • あなたがしずくの意図(≒客観的な描写)を蔑ろにしている

ように見えるのですが、いかがでしょうか?

というわけで、コメントはもちろん、SNSのいいねやnoteのスキもすごく励みになるので、記事を読んでいいなと思っていただけた方はぜひよろしくお願いします!

それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!

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