自殺したい人へ

人生辛い人へ。


俺も辛いことがたくさんある。

生きたくないと毎日、思ってしまう鬱にもなったし。

でも、死ねない。 

俺が仮に自殺したら、残された家族の気持ちを考えてしまう。

すると、死にたくても死ねないという状況になる。


辛かった。早く死んで何も感じない状態になりたい。無に。

でも、自分の経験上、死後の世界はある可能性が高い。

死後の世界があるなら、自殺した後も自分の存在は消せない。

自殺したら、罰があるかも。地獄かも。


やはり、死ねない。

ただ単に自殺した時の苦痛が怖いから、死ねないのもあるが。


生きるしかないみたいです。

結局は死にきれなくて、今も生きてます。

俺の最終目標が「最期まで生き抜く」です。

死後の世界、霊界があるかもしれない。

リタイヤしたら、途中リタイヤはカッコ悪い。

どんなに苦しくても最期まで耐えて生き抜く。


不可抗力で死ぬまで生き抜く。


死後、最期まで生き抜いた!人生というマラソンを完走したとい気持ちよさ、満足感、喜び、嬉しさ、幸福感を感じたい!


いつか必ず死ぬ。

いくらでもこの先、苦しくて死にたいという瞬間がある。

僕らは人間に生まれ、この世で魂の修行をしに来てる。

修行だから、苦しいのは基本設定。


最期まで生き抜いた時に、神はご褒美を必ず用意しているはず。


苦しいのは変わりない。

自殺は絶対にしないと思う。

したくない。

修行の途中リタイヤは望んでない。


あなたも俺も必ず最期まで生きような!

苦しい時は、その苦しみを乗り越える力を、克服することで

魂、精神が成長してゆく。


全ては成長するためにあるんだと悟った。


死後の世界=霊界では、刺激が少なくてすぐに飽きる。

だから、不自由を感じたくて、自ら望んでこの世に

転生して、生まれてくるのかもしれない。


脳の機能が停止すれば、何も感じれなくなる。

どうやら、そんなことはないらしい。

死後も生命は続くかもしれない。


その可能性がある以上は、下手に自殺したりできない。


でも、これだけ辛い世の中では

死にたくなるのが正常な感覚でしょう。


死を考えると、何故か楽な気持ちになる。

死ねばいい。辛いなら。と、逃げ道がある安心感。

死を想うのは、安心感、精神を落ち着かせてくれる作用がある。


俺は自殺はできればしたくない。

望んでない。

楽しく、面白く、人生を作っていきたい。

素晴らしい明るい未来をこれから作っていきたい。


大丈夫って神様が言ってくれた。最近。

あの時の安心感が忘れられない。


俺が心の中で「これから俺の人生大丈夫でしょうか?」

って呟いたら、隣にいた弟のスマホから、「大丈夫!」と

タイミング良く流れた。言葉が。

弟はYou Tube見てたんだろうが、こんな偶然が、嬉しい。

神様が励ましてくれたんだろうか。

また、以前に考え事していたら「大丈夫!」と自分の体内から聞こえたこともあった。反応がしたというか。

 

大丈夫。

大丈夫だと信じて生きてゆく。


酷い死に様の最期を迎えたとしても、

覚悟しておく。

最悪を常に考えている。

最悪、これでもいいか。よし。

とプラス思考になる。


辛いけど、自分を成長させてゆきましょう。

辛いからこそ、成長の糧に

成長に幸福感と喜びを感じ

生きていきましょう。



おまけ


こんにちは。私は皆様に何かを教えるほどの知性を持っているわけでないですし、結果を出した偉人でもありません。

むしろ、底辺中の底辺にいる生産性のない人間です。

こんな私に何か話したいこと、皆様にお伝えしたいということがあるとするならば、それは何点かございます。

全て話すと長くなるので1つだけ、生きるということにおいて、特に今の私が大切だなと思うことをお伝えします。

『思考できることの喜びに気づく』

よく過去は振り返らないでって言葉があります。

しかし、それはもったいないと思います。

今まで生きてきて、記憶した全てを、ふとしたときに思い出し、懐かしさに浸る。これが、人生を豊かに生きるうえで非常に必要になってきます。なぜ、人間は生きるのか?

それは思い出を増やし、懐かしむことを楽しむためだと考えているからです。

懐かしい感情に浸っているときの幸福感が私は大好きです。

生きれば生きるほど、様々な思い出ができます。過去ができます。布団に入っているときに、それらの今までの自分の人生の過去の記憶に散らばった宝物を楽しむ。思い出に浸り、楽しむ。生きていて、好きな映画やドラマを見て、またひとつ、振り返り、懐かしむことが増えた。それを私は『心の財産』と呼んでいます。人間は唯一、頭で考え、思考ができる動物です。思考できるということが、人間最大の喜びではないかと考えています。懐かしさに浸るということは、また、その起きたことをもう一度味わうことができる。何度でも思い出すたびに味わうことができるのです。

例えば体が動かなくなる病になれば、人生は退屈や暇で苦しむことになります。しかし、人間は思考ができます。昔の子供の頃を思い出したりして、思考自体を楽しむことができれば、生きることが面白くなります。あなたが今、考えていること。頭を使い、考えられるということ。あなたは普通なことだと、素通りし、何も感じないかもしれませんが、実は、その『思考できること』『頭を使うこと』『考えること』に

喜びを感じ、面白いと思えるようになれば、人間は常に生きているならば、思考を絶え間なくしてるので、生きることがより幸せになります。気づいてないだけなんです。懐かしめること、思考できることの喜びと面白さに。私はいつも、自分の頭を使えることに、思考をふけることに喜びを感じております。

生きれば生きるだけ、思い出が増えます。『心の財産』が増えていくのです。何度でも思い出し、懐かしみ、感傷に浸ってください。過去を振り返る。ずっと過去を振り返ってばかりでは、前に進めなくなるかもしれない。しかし、過去も、現在と未来、同様に大切にしてあげたいと私は思います。

当たり前にしている『考えること』こそ、最も身近であり、最も見落としがちな『喜び』なのです。

そして、私は思います。『苦痛と感じられることも、喜びなんだと。』

人生には様々な苦痛があります。

しかし、『死んで、何も感じられなくなる』

のは、『苦痛を感じること』より嫌です。

生きているからこそ、感じられるのです。

いかに嫌なこと、苦痛なことも、何も感じないよりはマシ。

死ぬよりマシなのかと最近、思います。

苦痛にすら喜びを感じられるくらい、レベルアップすれば、

人生苦痛だらけですから、喜びだらけの毎日になると期待して、苦痛は苦痛だけど、幸せでもあると、苦痛=嬉しいとマゾになり、苦痛に快感を感じるくらい強くなりたいです。

ありがとうございました。







「天寿を全うしたい」でも、本当に生きることがつらい。しんどいことがとにかく多いですね。夕食後に布団に入るんですが、心がソワソワして落ち着かないのです。かなりの苦痛ですね。いろいろと考えてしまうので、しんどいんです。何かして気を紛らわすこともできない。やることがないというか。なにもしたくないというか。とにかく、これから先、死ぬまでのあとの数十年間の人生を生きていくのが嫌気さすことも多い。楽しいこともあるけど、精神的苦痛と肉体的苦痛が楽しいこと以上にあるから。感動や出会いを人生の宝物にして、なんとか乗り越えるしかないですよね。スマップの世界に一つだけの花をこのところ聞きまくっています。もともとあまり好きじゃなかった曲でした。以前は。でも、今は、最近は、このごろは一番大好きな曲になりました。「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」「そうさ僕らは 世界に一つだけの花 ひとりひとり違う種を持つ その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」どう転んでも、あがいても、成功できない。無能にしかなれない。心の弱すぎる臆病者で小心者で能力の低い自分には、癒しの励ましのメッセージが歌詞に込められていて、非常に共感し、元気出るし、とにかく一番にはなれなくても、自分の持っている種を咲かせれば満点の人生なんだと、他人との比較や競争から脱出できるので、この歌を今日も聞きまくっていました。なぜか、ドラゴンクエストの生みの親 堀井雄二の顔がずっと思い浮かびながら、そういう彼みたいな成功者にはなれないけれど、偉大な人物にはなれないけれど、自分という人間を、種を咲かせれば、最期まで生き抜けば、どんな人生になろうと、満点なんだと。映画アイロボットの特別なロボットのサニーが「私たちは目的があって作られた。そう思いたい」というセリフがありましたが、本当にこの世の中の生命体にはそれぞれ与えられた役割や使命があり、すべて意味があって生まれてきた。と考えたいのです。自分のこの地球上での役割を理解していきたいです。そもそも人間に優劣をつけたくないです。それぞれ能力や性格が十人十色の桜梅桃李のように、それぞれのカラーがあり、違うのは当たり前ですから、競争や順位付けを否定することではないですが、人間に優劣はつけれないと思います。俺とビルゲイツ。影響力は違えど、成功者でいえばビルゲイツだが、人間としての優劣はつけたくないです。自分は自分でひとりの人間だし。様々な思いをもって、葛藤して、人生を戦っているし、生きているし、自分の持っている種を咲かせているのであって、その種が能力が低いという、心が繊細で床屋行くのもつらいと感じるレベルのメンタルの種の花だったとしても、人間としては優劣はつけれないと思う。つけたくない。どう考えてもビルゲイツの方が能力も高いし、成功しているし、影響力もケタ違いだけど、自分は優劣だけはつけたくない。世間一般的な常識では、ビルゲイツのほうが優れた人生、優れた人間になるんだろうけど、俺は俺でこの種で精いっぱい生きている、咲かせているわけであり、どちらが優れているかなんて本当の深いところでは決められないと思う。人は人、自分は自分。自分の与えられた種を咲かせきれば、最期まで天寿を全うすれば、満点なのだから。ビルゲイツが最後まで生きて、満点。俺が最後まで生きて、満点。最期まで天寿を全うして、自分の与えられた役割を果たし切れば、種を咲かせきれば、同じ満点で、比較できない。優劣は決められないと考えていきます。だから、成功者じゃない自分はダメだとか、劣っているとか考えなくていい。思わなくていい。生きていれば、満点なのだから。生き抜けば満点なのだから。







この世界での自分という人間の役割。俺はどんな役割だろう。地味で目立たないエキストラみたいな小さな役なんだろうけど、その小さな底辺の普通よりずっと下の役者も必要だからいるんです。自分の社会でも役割を見つけ、理解していくことが大事かなと思います。普通に働くことが難しいメンタルが弱い繊細な統合失調症ですけど。そういうひともこの地球という舞台、映画で必要だからいるんです。みんな働けていたら、みんな有能なら、バランスがおかしくなってしまう。すべては意味があって、必然で成り立っているのかもしれないと考えることがあります。みんなが天才なら、それはそれで狂ったおかしい世の中になってしまう。凡人がいて成り立っている。3 10 60 27 に必ず分かれる。自然界の法則。3%の超一流 10%のまあまあ 60%のボケーとした平凡 27%の嫌味な社に構えた脱落組に必ず分かれる。営業の世界でも、3%だけですよ。スーパースターは。野球の世界でも。ゴルフでも。ビジネスでも。すべてに当てはまる法則。自分は27%の落ちこぼれに分かれてしまう。これはそういう種をもらって生まれてきたのです。その種を咲かせているだけで、自分に罪はない。自分は悪くないんです。もって生まれた種、遺伝子、DNAを開花させているだけですから。頭がおかしくて、精神が異常をきたしている。メンタル最弱の使えない、しっかりしてない、だらしない、抜けてる、自堕落な人間。そういう遺伝子だから、仕方ない。努力で変えられないレベル。だから、自分の無能さは宿命です。努力で変えられない。遺伝子レベルで決まっていしまっているから。だから、残念だけど、おちこぼれからは抜けられない。努力不足というわけではない。努力すらできない。努力を苦痛を感じてできない。自分の役割はこの27%の落ちこぼれを演じること。これが与えらえた自分の役割。使命。それを果たせば、自殺しないで、不可抗力で、これで死ぬなら仕方ない、やむを得ない、避けようがないというところまで、最期の最期まで生き抜けば、天寿を全うすれば、合格。満点なのです。いつも暇、退屈、つまらないという悩みにぶち当たっています。家にいてもつまらないのです。でも、外に出たくない。外に出るものしんどい。没頭できるハマれるものがない。楽しいと感じる趣味がない。音楽聞くこと、紙に書くことくらいで、それ以外は、やる気がない。楽しくない。何も楽しめないのです。本当にやりたいことがないのです。かなりしんどいです。精神的苦痛です。病んでます。時間がありすぎて。なにしていいかわからない。いつも時間をつぶすのに苦労していて、自分って何がしたいんだって。何も本当にしたいことがないんです。行動が苦手。床屋や病院すら苦痛に感じるから、何かするのが本当に苦手。悩んでます。かなり。どうしよう。一生、この退屈さと戦っていくしかないのかと途方にくれています。長い。一日が。退屈すぎて。仕事すればいいし、なにか行動すればいいといっても読書も小説書くのも料理するのもネットするのもなんかしっくりこなくて、あまり楽しいと感じない。楽しいと熱中できるものがない。悩むなあ。深く絶望している。働く能力もたぶん、ない。働けない。家にいるしかない。やりたいこともない。なにかに熱中している人がうらやましいです。それがあるのはとても幸せなことだと思う。今日は美術に興味を持とうと思い、レオナルドダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの盛期ルネサンス三大画家とか、葛飾北斎について少し調べていた。知らないことを知る。未知の情報をインプットするのが、知ることが退屈から解放し、面白いという感情を与えてくれるのではないかと。自分の興味の幅を広げたい。様々なことを知りたい。いろいろなことに興味持ち、好奇心で知りたいと強く思い、いろいろな新しい世界へと足を踏み入れ、新しい感動や発見や気づきで充実した満ち足りた幸せな喜びの毎日にしていきたい。しかし、ミケランジェロのアダムの創造とか、芸術って面白いですね。音楽鑑賞が最大の趣味ですが、美術とか絵画とかも楽しめたらなと思います。世の中、未知の情報であふれている。だから、面白いし、楽しい。新聞や本を見る気が起きなくて、小説も読む気起きなくて、やる気がない。でも、変わっていこう。苦痛に感じる。読書が。でも、変わりたい。読書や文章を読むと、音楽への集中がそれて、文章理解の方に集中力が集まってしまうので、音楽を楽しめなくなる。とか、あり、音楽を聴いていたいから、文章読むよりも、音楽の方が好きだから。聞いていたから。楽しめるから。と、なかなか読書とかはかどらないし、やる気でないけど、退屈なら、読書はできないと困る。変われるだろうか。読書大好きに。まあ、自然体に任せよう。無理に読むこともないか。本当に読みたいと思ったときにだけ読むとかね。そこの塩梅が難しい。読み始めると、やる気が出てきたり。動くからやる気が出る。やる気が出るのを待っていたら、いつまでたってもやる気は出てこない。行動して、出てくるものだから。とにかく、行動しろ。読め。そうしたら、読んでるうちにやる気が出てくる。難しいけど、その通りだよなあ。








「人生の様々な困難や苦痛から逃げるのは、とてももったいないよ」難があって、有難い。自分もメンタル疾患、心の弱さと戦っている。シャワー、洗顔、歯磨き、ドライヤーとか、掃除とか、日常の当たり前のことがとても苦痛だ。メンタルが弱い。弱すぎるよ。だから、とても生きづらい。人並みに仕事して、稼いでなんてとてもじゃないけど考えられるレベルではないと実感している。自分の食い扶持すら稼げず、社会の役に全然立ってない、普通に仕事ができない、自立すらできない、そんな情けない、かっこ悪い、生き恥のようなまま、天寿を全うするのはとてもしんどい。でも、自殺だけはしたくない。しっかりと天寿を全うすることが自分の与えられた社会での役割。「無能底辺」という役をもらって、地球上に生まれてきた。誕生したんだ。自分の役目を放棄したくない。死後の世界、霊界、天国はあるかもしれないじゃないですか。その可能性がある。最期まで生き抜いたら、なにかボーナスポイントがもらえるかも。この世の精神的苦痛、肉体的苦痛、社会や人への善行、貢献により、天国ではそれ相応のポイント、お金がもらえるかもしれない。仮説だけど、自分が神様なら、必ず苦痛の分だけ、何かサービスしたいと思う。もしかしたら。例えばもし仮に。だから、生き抜いたいのです。天国はあるかもしれない。その可能性があるから。情けないかっこ悪い姿で生き抜く。これは、死ぬより難しい気がする。生きるということは苦痛にまみれたけもの道をナイフ一本で進んでいくようなものかと。自分の能力の低さに絶望し、悔しがる。自分は凡人だって理解している。苦痛から逃げるのはとてももったいない。逃げずに、近道せずに、真正面から、苦痛に立ち向かっていきたい。天国に行ったら味わえないかも。肉体がある今だけかもと思うと、苦痛すら恋しくなる。そもそも、苦痛がなければ、喜びもないのです。喜びしかなかったら、それがやがて当たり前になり、何も感じなくなってしまう。苦痛があるから、喜びを、幸せも感じられるのかなと。味わった苦痛だけポイント化されていて、天国で受け取ることができると考えて、この自分なら、退屈、暇、つまらない、メンタルが弱くて、家に来客が来ただけで、不快な気分になるくらいの繊細さに苦労する。その苦痛すら、宝物で有難いと思って、これからも天寿を全うし、死により、終戦するまで、生きていきたいと思います。







「それでも生きる理由」辛くて、苦しくて自殺しても、死後の世界、霊界はあるかもしれない。なので、今が苦しくても自分の存在や意識を無くすことはできないかもしれないので、根本的な問題の解決にはならない。死後の世界があった場合、自殺したことをひどく後悔し、さらに苦しむ可能性もある。また、自殺したらなにか罰が待っているかも。霊界があることを仮定したら、死んでも問題は解決しないので、自殺しても仕方ないのかも。「自分の存在を消すことはできないかもしれない。死後の世界、天国があるのなら。精神的苦痛、肉体的苦痛からは逃れられるかもしれないから、自殺したくなるかもしれないが、自殺したらペナルティーがあったり、命を無駄にした、逃げたという後悔や悔しさがあるかも」天寿を全うした人を横目で見て、悔しくなるから。自殺したら。悔しい。最期まで戦い抜いた人がいたら、それを見てものすごく苦しむ。喜びも終戦、歓喜の霊界入りの人を見るのはツライ。だから、自分も最大限、最期まで生き抜きたい。与えられた命を全うしたい。それが人生最終目標。命がありゃいい。誰にもできることとできねえことがある。生きて、自分を変え、成長させていく方が、自殺してすべてから逃げる人よりよほど強い人だと思います。人生の問題集、課題、宿題を解いてゆく。ひとつずつね。みんなが頑張って、戦って、生きてる中で、人生を謳歌している中、自分はリタイアして、死ぬなんて悔しすぎる。むかつくから生きる。人や社会のために貢献するために生きてるんじゃなくて、自分の人生を楽しむために生きてる。すべては自己の幸福のためにね。自分最優先でOK。それでよい。自分の人生の運命を最期まで見届けたいのです。どんな人生になるのか、未知だからね。確かめたい。人生の苦痛を真正面から受け止めたい。味わいたい。逃げたくない。逃げたらもったいない。苦痛は貴重だから。新しい発見や感動があるから生きる。自殺したら家族が哀しみ、泣き、苦しむので、生きる。自殺するのが怖い。死ぬのが怖い、痛いのが嫌だから、死ねないから生きてる。理由はそれだけで十分さ。ミセスグリーンアップルの新曲をまだまだ聞きたいから生きる。などなど、生きる理由はあります。だから、僕は生きるよ。







「魂の苦悩」・・・この一言に、俺の人生の苦しみが集約されている気がする。映画アイロボットに出てくるラニング博士のセリフですが。ロボットがいつ、魂の苦悩を知るのか。というようなセリフ。人生には、人間が生きるということには、精神的苦痛と肉体的苦痛がたくさんあります。もちろん、楽しいことや面白いことや感動など悪いことばかりじゃないですが、あらゆる苦痛は、生きる意味、生きる目的、生きる考え方、生きる上での哲学を完成させていかないと耐えられないものでしょう。人間は唯一、自殺する生物。それは、他の動物とは違う高い知能があり、心の悩みからくるんです。心の悩みは万人にあり、社会的成功している人、地位、名声、富などすべてを持っているひとでも、成功者でも自殺者が多いことを考えると、やはり、人間はたくさんの感動を感じられる代わりに、苦しみも授かったのだと思います。生きていれば、苦痛はたくさんあります。私の最近の苦痛は、自分の恥ずかしいかっこ悪い情けない姿のまま、社会的弱者の底辺のまま、醜態をさらしながら、生きていくということが苦痛になっています。もっと立派になれないだろうか。なれないんです。考えても。なかなか働くことができない。社会で活躍している人材になりたいのに、それがかなわない。社会の足手まとい、社会のお荷物になっている自分が悔しくて、あと、今までのカスみたいな行動を考えると、自分を殺したくなるくらい憎くなり、気に入らないのです。醜態をさらしながら、中卒ニートで一生暮らすことになりそうです。社会で普通に活躍したかった。一生ニートで暮らすなんて屈辱すぎて、辛いんです。苦しい。こんな恥ずかしい姿のまま生き続けるということがとても、苦痛です。頑張れる人、働ける人はまだいいほうで、頑張れない人、働けない人はとても苦しいのです。自己肯定感、セルフイメージが最悪で、こんな怠けている自分を好きになれません。昨日はとても嫌な気持ちになりました。自分が、とても社会のお荷物で、何もできない、弱者で日本国民の最底辺だと思うと、悲しくて、生きていたくない。苦痛でしかないです。でも、4月12日にはミセスグリーンアップルの新曲がリリースされるし、美味しい食事とか生きる理由はやはり、あるので、生きています。苦痛ですが。自分のこの醜態さらしながら生き続けることがとても苦痛であるのと、「退屈、つまらない、暇、楽しくない」という感情も私を苦しめます。家にいて、まだ昼の2時だ。と、速く時間が過ぎないかなという毎日です。冒頭でお話しした「魂の苦悩」ってやつを味わっています。人間に与えられた特権ですよね。感動したり、心で感じたり、高い知能で喜んだり。しかし、同時に苦しみも手に入るのです。どちらか一方、喜びだけというわけにはいかないのです。とにかく、強制的に働かなければ拷問にかけられ、無理やり、連行されるくらいの強制力がない限り、ニートしていられる甘い環境に甘えて、働くことは絶対にできないと思います。怠け癖、サボり癖、辞め癖、逃げ癖、休み癖が強すぎて、あまりに高すぎて、自分がいかにダメ人間か分析しています。統合失調症になり、体重は145キロです。まず、仕事より、働くより、ダイエットして痩せなければなりません。動ける、ケガしない、軽い、健康的な体をつくらなければならないとわかっていながら、全くダイエットできてません。昨日も3色たくさん食べ、ピーナッツチョコなどのお菓子と、大量のブレンディスティックカフェオレ、紅茶オレを飲みました。いけないとわかっていながら、制御ができません。気持ちが緩み、あるから飲んでしまいます。自己管理が全くできません。本当に、なんの努力もできない、しない超無能で出来損ないで、自分にイライラします。紙に何度も、ダイエットの計画を書きますが、それが思い通りになりません。失敗ばかり、3日と続きません。制御できない。どうしよう。ダイエットしないと、この先、重すぎる体重で膝や関節を痛めて、自力で歩けなくなる。分かっているけど、できない。いいやってなってしまう。なるようになれと。軽い気持ちになってしまう。糖尿病にも確実になるし。また、統合失調症で超肥満で薬たくさんの飲んでいる人は、短命らしい。それは、本当によかったと思う。こんな屈辱的な無能人生が続くなら、長生きなんてまっぴらごめんです。よく長生きしたいという人がいますが、そんなひとにはなれません。長生きしたくない。むしろ、早く死にたいと思っているから、健康のためのダイエットができないのかもしれないですね。不健康になり、速めにこの世のおさらばしたいと。こんな屈辱と退屈にまみれた人生を過ごすくらいなら。母親や祖母の介護、面倒も見なくてはいけない。守らなくてはいけない。市役所の待ち時間すらめっちゃ苦痛になってしまうこともあった自分が、行動力がない自分が守れるだろうか?自分の身すら守れない。間違いなく。死ぬほどだらしないし、しっかりしてない。無力、無能。絶望しかない。この状況で前を向けとか、希望を持とうとか言われたくない。無理。簡単に言わないで。そんなこと。中学歴史の教科書を読んでいる。100ページを超えた。一週間経たずして。順調だ。この教科書もゼロからつくった人がいるからあるんだよなと。日本ってすごいって思う。こんな細かく調べて、判明していった。人類の力、人間の偉大さ、すごいなあって思う。人類よ、よくぞここまできた。到達した。発展した。褒めたい。人類を。私もそんな人類の端くれ、エキストラだと思うと、人類に生まれただけですごいことなんだって感じないこともない。人類は偉大な動物だよな。音楽一つとってみても、ピアノを発明したり、作曲法を発明したり。ショパンだって、ピアノが発明されなかったら生まれなかったわけだし。この全宇宙には人類みたいな地球外知的生命体はいるだろうか?想いを馳せることもある。130億光年先の宇宙の遥か彼方の写真を見て、宇宙人の存在を思ったり。中学の歴史の勉強はとても楽しい。人生の魅力はやはり、インプットとアウトプットにある。未知なる情報をインプットして、楽しむ。面白いし、ワクワクする。知的好奇心というか。知らないことを知るという魅力。それは自分の生きる意味であり、苦痛の人生を支え、最期まで天寿を全うするための力になる。インプットが大好きだ。いろんなことを知りたい。知りたいという欲求を大事にしたい。もっと知りたいという感情を強めたい。「自分にしてほしいことは、何よりもまず人にしてあげる」という言葉がありますが、これは要注意だと思う。こういう生き方して、オレオレ詐欺に引っかかったり、良心を利用されて、借金の保証人にされたり。悪いこともある。節度をしっかり持って、ほどほどに。バランスが大事。自分の誇れるものとしては、神のような高い感受性の持ち主だということ。私はとても感性が強い。音楽一つだけでもものすごい楽しめるし、感動できる。映画のワンシーンでもものすごい感動してしまう。普通の人よりは感受性が強いと思う。それゆえに、苦しみも多く感じてしまい、苦労していますが。自分の感性の器を広げていきたい。これからも。進化し続けたい。天寿を全うする。これが人生の最終目標。これさえできればいい。最期まで生き抜くぞ。どんなに苦しくても、耐えて、その先の、苦痛という山を乗り越えた山頂の見晴らしのいい景色を見てみたい。どんな景色が広がっているだろうか。ワクワクする。あと何年生きれるだろうか?







「後天的に人生の途中から全盲になった場合」の人って、それまでに五感、とりわけ視覚、目で見てきた景色や文章や画像や風景などの情報が何よりの宝物なんですよね。それらを心の中で思い出して、頭の中で思い出して、いつでも味わうことができる。今まで見てきたこと、心の中に蓄積された宝物を、目が見えないから、頭の中で想像して、何度でも味わう。この感覚なんですよね。僕は言いたいのは。つまり、盲目になってしまった人の立場のように五感から、視覚から、目から入ってきた情報、インプットしてきた情報、美しい風景や文章や映画、ドラマとかいろいろとすべてを大事にしろって言いたい。明日、盲目になってしまうとしたら?今まで見てきたことのみ頭の中で思い出せる。だから、特に五感の中でも目で入ってくるもの、インプットしてきた情報を大事にしたいし、これからもインプットを、全盲になってしまったら?って考えて、大事にインプットを意識したいです。何気ない、例えば今の俺なら中学歴史の教科書の情報すらとても大切な宝物なんです。インプットして、いつでも頭の中、心の中で思い出せる。心の中で何度でも味わえることが宝物です。だから、明日、目が見えなくなったとしたら?もっとたくさんインプットしておけばよかったと思うはず。韓国ドラマ「イ・サン」「トンイ」とか映画アイロボットとかも、その内容を、感動を思い出すことができる。心の中で。今まで生まれてから、インプットしてきて、記憶した、覚えてきたすべての情報を、心の宝物を大事にしていこう。いつでも心の中で思い出すことができる。味わえるんだから。目が見えない人とか、ALSで体が動かない人は、「思考しか、考えることしか、自分の意識しか」楽しみがないんだから。全盲の人も同じ。思考することしかほぼ楽しみがない。自分たちは目が見えるから、心にある今までの記憶してきたインプットしてきた情報を甘くみているけれど、目が見えない全盲の人や、ALSの人からしたら、そのインプットしてきた情報、心の財産、記憶してきたこと、今まで感動したこと、経験したこと、思い出が、どれだけ大事でそれしか楽しみがないんだって気づきましょう。普通に目が見える人と、目が見えない人、ALSの人とかでは、頭の中にあるインプットしてきたものの価値が違うんです。目が見えない人などの方がよほど、インプットしてきた情報は価値が高いんです。思考しか、考えるしか楽しみがないんですから。これを忘れないようにしたい。この感覚を。自分もインプットしてきた記憶してきた心の宝物を今まで以上に、大事に、価値のある、何度でも取り出して味わえるものとして、大切にしたいものです。








この宮澤智秀の人生で、なにを得たのだろう。なにを学んだのだろう。それは、「弱い者の気持ち」なのかもしれません。唯一残っているのは、そこ。もし、死後の世界「霊界天国」があったなら、この世界でなにを得て、なにを学んで「天国」に帰っていくのかな。って考えた時に、「弱い者の気持ちを知り、弱い者を慈しむ心」を得ることが、この凡人底辺弱者人生の目的なんだって思ったときに、「あっ、このなんの才能もない、凡人人生にはじめて意味があるなって」思いました。自分が弱い者であり、弱い立場であったからこそ、弱い者の味方になってあげたい、弱い者を助けてあげたいと初めて思えるのだと思います。まだ、行動ができてないですが、私は、弱い者を助けてあげられるような人になりたいです。天才に凡人の気持ちなんてわかりません。「凡人の屈辱感、悔しさ、葛藤、悩み」を学びました。弱い者の屈辱も学びました。この、宮澤智秀の人生は実入りのある、学びのある、得るものがたくさんある有価値の人生です。神様と私との会話。私「神様、なぜ、なぜ私はこんな才能の無い、欠点だらけの、弱い人間なんでしょうか。本当に残念です。私に生きる資格なんてあるのでしょうか?生産性もないし、社会のお荷物です」神様「それはね、君が弱い者として生まれたのは、弱い者の気持ちを知るためなんだよ。弱者の気持ちを学ぶために、そのような人生をあえて選んで生まれてきたんだ。弱い者の気持ちを痛いほど知った君なら、きっと弱い者のことを優しくできるだろう。弱い者を救いたいと思えるようになったことが、なによりの君の人生の意味だよ。その弱者を慈しむ心を持てるようになるために、このような人生になったんだ。君が覚えてないで、君はこのような人生を望んで、生まれた。弱者の気持ちも味わってみたいと。そして、弱者の立場を学び、助けられる人になりたいとね。もし、強い者に生まれていたら、弱い者の気持ちなんてわかりっこないんだよ。君は、もう、十分、弱い者の思いを学んだ。だから、弱い者の味方になることができる。君の人生で唯一残っているのは、それなんだ」







俺たち人間は

天国で苦しみがない

全て自由な生活に飽きて

この世に生まれたくて

苦しみを味わい

苦しみを味わったからこそ

感じられる喜びや幸せを

味わうために

自らこの物質界、地球を選んで

生まれてきたのかなと思っています。

天国の自由な生活も

何百年も経てば

いずれ飽きて、退屈で

苦痛になるはずです。

『戦わない毎日につまらなくて嫌気差してね』

俺たちは

戦いたくて

人生という

『戦場』に

参戦したくて

自ら望んで

生まれてきたのかもしれない。








人生報酬


この世「物質界」に誕生したボーナス=100億ポイント


自殺リタイヤせず、最期まで、不可抗力で死ぬまで

生き抜いたボーナス=1兆ポイント


毎日、1日生きるにつき=100万ポイント


その他、生まれてから死ぬまでの

全ての「肉体的苦痛」と「精神的苦痛」を味わった分、

その苦痛の大きさだけポイントがつく。


細かく、苦痛の大きさだけ、ポイントがもらえる。


そして、これらの報酬ボーナスポイントは

死後の世界「霊界」で、お金として、あらゆるサービスに

利用できる。


だから、生きることは意味があります。毎日、生きただけ 

天国でお金が貰えるので、


みんな、得だから生きような!今日も。明日も。最期まで。


生きる意味は「天国報酬ボーナスポイントをできるだけたくさんもらうため」


死後の世界があったら、こんな報酬制度が

もしかしたらあるかもしれないね。

おかしくないはず。

期待して、頑張って苦しいけど生きることにしてます。(笑)


神様はきっと苦しんだだけの幸せを用意しているはずさ。

それがこの世の真理。









「ドラマと映画のそれぞれの魅力」結論「映画のほうが好き」映画は長くても2~3時間だから、何十話、何十時間も続くドラマより、短い時間で物語を楽しめる。だから、映画のほうが好きです。韓流ドラマ「華政」は全33巻全65話まであり、すべて一か月くらいで見終わりましたが、かなり面白かったけれど、見るのがめんどくさかったり、プレッシャーになったり、忍耐もいりました。でも、2時間くらいの映画ならば、そんな忍耐も少なくて済むし、2時間とかで長いドラマと違い、アップテンポで早く物語が進むので、見ていて飽きが少ないし、退屈も少ないし、面白いし、見終わった後の余韻、満足感も数時間の映画のほうが何回も味わえる。それはそうだ。2時間で物語のすべてを詰め込むから、内容が濃い、質が高い。映画は。だから、退屈しないし、見終わったときに、内容が充実しているので、「面白かったー、感動したー」という余韻も大きい。なので、ドラマより映画のほうが好きだから、最近、借りてきている。単純に短い時間で物語をすべて完結で楽しめるから、ドラマより見る、見たいという思える。もちろん、ドラマもいいところがある。映画では2時間とかだが、ドラマは何十時間だから、物語をたくさん味わえる。入れやすい。また、例えば韓流ドラマ「トンイ」は全30巻全60話だが、すべて見終わったときの喜びと感動は、やはり映画より大きい。長かった分ね。2時間の物語と60時間の物語では、すべて見た時の感動が同じなわけない。面白いドラマかどうかにもよるが。満足感は、映画「アイロボット」や「ターミナル」より、韓流ドラマ「トンイ」「華政」のほうが長く時間を見た分、大きい。まとめ映画のメリット「短い2~3時間で物語を楽しめる。2~3時間で1本の映画が見れるので、見たいという欲求がドラマより強い。長いドラマと違い、見るのに忍耐を少なくて済む。少ない忍耐で、少ない時間で、物語を、凝縮した面白い物語が楽しめる。短時間で長いドラマよりたくさんの種類の物語が味わえる。また、見た時の余韻の回数が長いドラマより確実に多く得られる。1本の物語を見終わったんだ!っていう完結まで見た、最後まで見た、最終話まですべて見たという感動と喜びとかは、確実に話が長いドラマより回数多く得られる」ドラマのメリット「何十話とか連続ドラマとかは、何十時間という見るのに長い時間がかかる。忍耐がいるが、全て見終わったときの余韻と感動と満足感が映画より大きく得られることが多い。長い時間をかけて分。また、2時間では収めきれないたくさんの話を入れることができ、見終わったときの腹いっぱい感は、映画より全然大きい」となるのかな。今さっき、映画「CAT&DOG」を見ました。敵ボスの白い猫が悪いけどかわいくて、好きになりました。面白かったー。映画っていいですね。楽しいですね。心の宝物がどんどん増えてくれる。映画って、素晴らしい娯楽で、人生にかけがえのない宝物ですね。苦痛だらけの人生に、映画や本などは癒しや喜び、「生きる力の源」「生きるガソリン」となって、「心の栄養」を与えてくれる。「感動や経験」は人生に不可欠な糧です。









「自己中心的で生きてゆく!それでいいんだ!」「人のため」「社会のため」なんて考えるな。カッコつけるなでは、あなたに質問です。神様がいきなり現れて神様「今から、北朝鮮の強制収容所にいるかわいそうな人と、日本にいる豊かな生活しているあなたの立場、人生、状況を入れ替えてあげてください。本当に人のためと思うなら、できますよね?」と言われたら、どうしますか。絶対に断るし、絶対に嫌ですよね。私も北朝鮮で生活したくないし、日本で幸せに生きたいです。人のため?社会のため?そんなのきれいごとなんです。この神様の質問で自分の本心がわかるはず。人のためって生き方はやめておいたほうがいいです。利他の精神とかもダメです。「自分の幸福」を最優先してください。自己犠牲とか、自分は苦痛だけど、人のため、社会のため、環境のために!っていうのもダメです。そんなことしたら、自分が苦痛で不幸になり、続かないし、壊れてしまいます。自分こそ最も大事で一番幸せにしてあげるべき存在です。簡単に「人のために」って書かないほうがいいし、口にしないほうがいいです。「すべては自分のために」で生きていきましょう。例えば、人を助けてあげるのも、自分にメリットがあるからやるんですよ。結局自分のためです。人を助けることで、「自分はいいやづだ、人の役に立ってる、喜んでもらえた、うれしいな」と自分が幸福を感じるから、うれしいからやるわけなんですよ。人助けも、元をたどれば、自分のためにやることでしょう。何があっても自分のことだけを考えていきましょう。一番自分のために考えて、行動しましょう。自己中はダメってその考えが変です。おかしいです。みんな自分のために生きてるわけだし、それを責めるほうがおかしいです。自分のために生きていきましょう。自分中心で生きてゆきたいです。人のためや社会のためじゃない。自分のためなんですよ。自分が何のメリットもなかったら、やらなくていいです。自己中、自分勝手でいいんです。社会はつながっているので、自分が幸せになれば、おのずと社会も得幸せになっていきます。大事なのは人のためと「カッコつけないこと」です。自分をいじめ、ないがしろにするのは、絶対にダメです。やめてください。「自分第一」をモットーに生きましょう。まずは自分を極限まで幸せにしてあげてください。自分を幸せにしまくり、余った幸せを人にあげればよい。自分を幸せにするだけじゃ「退屈、暇、つまらない」と思ったら、利他や人のため、社会のために何か行動して、退屈から解放されましょう。楽しく生きられるように。まずは「自分から」それは悪いことじゃないです。「自分のことしか考えないで!」って怒られても、「何が悪いんですか?」と開き直りましょう。「何か!」っとね。みんな自分のために生きています。自分が一番大事なのは当たり前です。それをバカになどできるわけありません。責めるほうがおかしいです。幸福にする優先順位 1位「自分」2位「他人」人を助けてあげるのも、助けてあげた自分本人が「いいことしたな!相手が喜んでくれてうれしいな!人の役に立てたな!」と幸せを感じるから、自分にメリットがあるからやるんでしょう。究極は、全て、この世は自己満足です。人を助けるのも、利他の行動も。自分に一切、メリットがないならばやめておきましょう。時間の無駄です。人生で一番大切なのは「自分を真っ先に幸せにすること。自分を真っ先に喜ばすこと」です。人のことなんてどうでもいいんです。みんな自分の幸せのために生きてます。自己中心的でいいんですよ。罪悪感なんて感じる必要がないです。自己中心的こそ、一番飾らない本心からの素直な生き方で、「人のため」とか「社会のため」とか言う人より「自分のために」って生きてる人のほうが好感持てるし、信頼できます。「自分より人のため」って生き方は絶対にしてはいけません。いつか自分が耐えられなくなり、破綻します。行動する動機「なぜやるか」「やらないと自分が困り、苦しみ、不幸になるから」「好きだから、やりたいから、ワクワク、面白く、楽しく、幸せだから」「やっていると自分がうれしいから、喜ばしいから、幸せだから」とか自分がすべて、です。行動する理由もね。最後に自分に質問してみました。ロシアとウクライナの戦争を終結させてあげるから、その代わりに、あなたは今後一切、死ぬまで音楽を聴いてはいけません。どうしますか?戦争終結を選びますか?社会のために。それとも、音楽を、自分の幸せを選びますか?人のために、社会のために、自分の最大の楽しみを奪われる。俺はロシアVSウクライナの戦争なんて知ったこっちゃない。関係ない。自分の最大の幸福を失いたくない。だから、音楽聞くことを選びます。関係ない!戦争なんて。と、その神様の質問を断ります。核心をつく質問ですよね。自己犠牲だけはやってはならない。したくない。自分を不幸にして、自分が苦痛に耐えて、社会を幸せにするなんて絶対に嫌なので私はしません。自己犠牲なんて断ります。自分をいじめてまで、人や社会のことをしなくていいです。自分の幸福第一。これが、本来の最も人間らしい生き方だと思います。








・・・・・もし、この世界が仮想現実だったら?この世界は、この地球は、この宇宙はすべて、超高度な生命体が創造したバーチャルリアリティ。つまり、この世界はコンピューターの中。すべてはコンピューターが作り出した幻想の世界。自分以外はすべてコンピューターが決められた法則により動いているだけ。だから、ウクライナの戦争もアフリカの悲惨な現状も不幸なことは全てコンピューターの幻想的行動なのだ。だから、誰かが悲惨な死に方したとしても、それは悲しむことではない。コンピューターだから。その人は。自分以外は全て、あらかじめプログラムされている動きをするCPUである。なので、自分以外の人間は全て厳密には存在しない。全て、コンピューターかもしれない。かも。もし、仮に、そうだとしたら、ウクライナの戦争で心痛める必要もないということか。それは、コンピューターの動きで、ただの仮のシミュレーションなのだから。私たちはひとりひとり、コンピューターに接続されていてこの人生を選んで、生まれてきた。どのような人生になるかは、選択次第で変わってくるが、その選択の先は全てどうなるかはあらかじめ最初から決まっている・・・としたら?私は、ときどき、そんなことを考える。自分以外は全て、コンピューターの動いているただの反応。プログラム。自分の母親も友達も全てコンピューター。自分の無限の選択肢の行動から、あらかじめ決められた反応をするだけのCPU。だから、何もこの世界で戦争が起きたことも、今までの人類の歴史も全て、全てが、コンピューターの決められた世界だから、悲劇を悲しむことはない。自分以外の悲惨な現実を気にすることはない。ウクライナの戦争は全てコンピューターがそう見せているだけ。だとしたら?悲しむ必要がなくなる。戦争に心痛める必要がなくなる。コンピューターだから。全ては。自分以外は。もしかしたら、これは真実かもしれません。証明はできない。でも、この地獄のような世界で起きている悲惨で嫌な現実は全てニセモノで機械が作り出した幻であってほしいと思ってしまう。多分、ウクライナの戦争は・・・・実際には起こってない。この世界は仮想世界だから。そう思い、安心したい自分がいるのは悪いことだとは思わない。でも、仮想世界の可能性がゼロではないのは確かなことなのだ。

トニルスキーのある日記 「仮説」

この世はもしかしたら、自分一人の世界なのかもしれない。

本当は地球や宇宙も他人も家族も自分も全てバーチャルで、オレたちは孤独の旅に出てきたのかもしれない。

オレたちの本当の姿はロボットで、ある大規模なコンピューターに接続されていて、そのコンピューターが地球や宇宙などを作り出しているだけかもしれない。

今は人間として生きているが、本当の姿はロボットで、もし死んで目覚めたらロボットたちに囲まれているなんてことが起こらないだろうか。つまり、オレたちの死後の世界は霊界じゃなくて、ロボットの世界。オレたちは元々、ロボットだったんだ。コンピューターに接続され、地球に生まれてきた。つまり、地球はコンピューターによって作り出された幻。本来は存在しない。ゲームの中だけの地球やオレたちだったとしたら、あなたはどうしますか? 霊界さえもコンピューターが作り出した幻想だったら? 宇宙さえもコンピューターのゲームが作り出した幻。 オレたちはコンピューターが作り出した世界に住んでいるだけ。 コンピューターを管理している人たちの世界に行ったら何が待っているだろうか? そう考えるとなんか面白いですね。この私達が住んでいる世界が 仮想世界の可能性もある。想像力が無限に溢れ出してきます。 私達はもともとロボットで人間たちの生活を学ぶために授業を受けにこの地球に誕生した。コンピューターに接続されて。だから、 今は人間の授業を受けている授業中! 早く私は目覚めたい。もう人間の暮らしはよく分かった。

「私はこのゲームは降りたい。」

とトニルスキーが書いた瞬間にいきなり気を失った。 目を覚ますとたくさんのロボットたちに囲まれていた! よく見るとトニルスキー自身もロボットだった。机には小さな 地球の画像が映ったコンピューターが置いてある。「トニルスキー君、人間界、卒業おめでとう。」 とあるロボットに言われた。トニルスキー「どういうこと?なんで僕がロボットなの?」 ロボット「まさに君が日記に書いていたとおりなんだよ。今まで君がいた26年間の世界はコンピューターによるバーチャルだったんだ。コンピューターが作り出したゲームの世界にいたというわけ。 この世界は西暦500396241年の地球だよ。地球の人間がいた頃の人間の生活を授業していたというわけ。人間の生活を学ぶという授業をしていたんだ。遥か昔、約5億年前に人類は核戦争やウイルス災害により絶滅してしまったが、ロボットに意識や霊魂を移すことで生き残ってきたんだ。」 トニルスキー「ライトたちは?世界大統領のトモは?みんなは?」 ロボット「みんなコンピューターが作り出した幻想だったんだよ。 もう授業は終わったから会うことはないさ。今、記憶を修復してあげるよ。」 トニルスキー「授業は終わった?まだ26年間しか生きてないのですよ?」 ロボット「この地球も宇宙も自分たちが今いる世界が全てコンピューターにより作り出された幻かもと気づけた人はゲームから解放させる決まりなんだよ。このゲームにより人間と協力することの大切さや肉体を持った人間の生活がどういうものか経験できたはずだ。確かにもうライトたちに会えないのは寂しいかもしれない。でも、 私を含め、君の周りにはたくさんの友達がいるじゃないか。」 トニルスキーは周りを見渡した。 トニルスキー「違う。僕の友達はこんなロボットたちじゃない。」 トニルスキー「もう、あのコンピューターの世界には戻れないのですか?」 ロボット「残念ながら。もう終了させちゃったからね。これからは 私達の世界で暮らすことになる。本来は、こちらの世界が真実なんだよ。地球とか、ライトとかはバーチャルだったんだ。君が世界最速でゲームをクリアしたね。普通はなかなか気づかないからね。」 トニルスキーはあまりに呆然とした出来事に放心状態になっていた。 地球など全てが幻だと気づかなければよかった。トニルスキーは自分の頭の良さを初めて恨んだ。 トニルスキー「あのみんながコンピューターによる幻だったなんて?」 トニルスキーはあまりに驚愕の事実をいつまでも信じられないままでいた。






シンガーソングライターは不可能な理由 

1『超音痴、超歌下手くそ、声質、歌声、声帯がゴミで魅力ない。いい声してない。汚い嫌な不快な声をしてる。音域が狭い。絶対に売れない声してる』

2『楽器弾いたことがない。ピアノ、ギター始めてすらない。29歳にもなって』

3『働けない。金稼げない。音楽活動する金がない。アルバイトすら無理。お菓子我慢して、月1万も無理。意思が弱すぎる』

4『行動力がない。本当にやりたいとは思ってない。面白そうだな〜くらいにしか感じてないから、絶対にシンガーソングライターにはなれない』

5『シンガーソングライターになりたいという願望が皆無。弱い。作曲もギター、ピアノもそこまで好きじゃないから今までしてこなかった。興味すらない状態。じゃあ、シンガーソングライターは叶わない』

6『ハミガキすらめんどくさがり、サボりまくり。自転車も辛い、通院も辛い、シャワーが辛い、ダイエット、小説、アルバイトすらできない。そんな人間が、東大より難しいシンガーソングライターは無理』

7『やる気がない』

8『体力ない、疲れやすい』

9『努力すらできない、練習できない、大量行動できない』

10『シンガーソングライターになる才能がなさすぎる。無能だからなれない』

11『歌うのが好きじゃない。嫌い。カラオケすら1時間で精一杯。カラオケフリータイムすら過ごせず、帰ってきてしまったり。疲れるから、しんどい、辛いから歌いたくない。シンガーソングライターは無理。歌いまくるのができないから』

12『勇気がない。行動力がない。人付き合いが苦手で、バンド組めない。小心者だから、思い切った行動ができない』

13『インターネットのFACEBOOKやツイッターやYahoo知恵袋に自分の個人情報とか、様々なクズ記事載せて、有名になりたくない。他人の車のナンバーや写真を無断掲載してしまったから、問題になるのが怖い』

14『有名になり、顔を知られたくない。有名人になりたくない。家や行動を監視とか怖い』

15『超めんどくさがり屋。学校すらまともに通えない。高校3年間すら通えないようじゃ、何しても無駄。続く職業はニートくらい』

16『作曲したことない。DTMとかギター、ピアノを使いこなせるようになる、マスターするまで頑張れない。努力できない体質してる』

17『努力できない。ハマれない。熱中、没頭できない。集中力がない』

18『練習や歌唱すら、しんどくなってしまう。レコーディングすら』

19『統合失調症による薬による副作用で、疲れやすい、眠気、などからシンガーソングライターには絶対なれるわけない』

20『働いて、空いた時間、ギターなどの練習や作曲して、一人暮らしして、生活費自分で仕事して稼いでとか、そんな体力ややる気ない。出てこないから無理』

21『ライブコンサートするのが苦痛に感じ易い』







創価学会について思うこと創価学会の教えは完ぺきではない。悪いところ、ダメなところ、危険な教えもある。創価学会にも善と悪があるのだ。なぜか。創価学会男子大学校指導集260ページくらいのをすべて読んだ。創価学会は日蓮の教えを根本にしている。「不惜身命」という教えだ

正法「創価学会の教え」を全世界に流布「広宣流布」するために命を捨ててでも、悪を責め抜き、正義を、この正法を広めよ!という教え。「命を捨ててでも、正義に生きろ!」というような教えなのである。創価学会が実践する日蓮は、法華経「南無妙法蓮華経」を布教するために権力者を敵に回し、2度流罪「佐渡流罪、伊豆流罪」され、龍ノ口の法難で斬首されそうにもなった。それでも、「この南無妙法蓮華経を世界に広めるために」決して、その生き方を変えずにいた。熱原の法難では、日蓮に帰依して、従った3兄弟の人たちが、教えを捨てずに、斬首されて、命を落とした。「日蓮は命を守るより、命より、この教えを広めて、戦うこと」を優先し、大事にしたのだ。当然、日蓮を根本にした創価学会も「不惜身命」の実践を推薦し、広めている。初代牧口先生は、神札を受け取るのを拒否し、牢獄に入れられ、獄死した。殉死だ。2代会長戸田先生も、牢獄に入れられ、2年苦しんだ。「神札を受け取るのは、日蓮の教えに反する」ということで、治安維持法で逮捕されたのだ。なんでそこまでするかなって思う。命より大切なものはないというのが俺の考え方だ。日蓮みたいに命を捨てて、この教えを広めなくてはならないなんて、嫌すぎる。悪に殺されるくらいならば、悪に染まってでも、負けてもいいから、生き延びろって言いたい。生きることのほうが大事だ。正義のために死ぬ覚悟より、生きる覚悟のほうが大事に思える。だから。例えば、オウム真理教によって殺された坂本弁護士とその家族も、オウム真理教の宗教法人認可取り消しをしようとして、抹殺された。正義を貫こうとして、殺された。「殺されるようなことは決して、避けるべき。逃げるべきである!」殺されるくらいなら、避けてもいい。逃げてもいい。悪になってもいい。生きるということが大事だと思う。だから、日蓮仏法と創価学会は完ぺきではないといいたい。世界広宣流布は実現できる。広宣流布とは創価学会の日蓮の教えを全世界に広めること。それは、机上の空論で、絶対に不可能。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンデゥー教、仏教など様々な宗教を折伏し、創価学会の教えを実践させる、全世界布教なんて、夢物語。しかし、創価学会を目指している。大義名分としてはあるが、実現は永遠にしないと思う。大事なのは「できるかぎり、広宣流布に近づこう!」ということである。何十億人もいる地球上すべての人に布教する=広宣流布それはまず無理でしょうが、少しずつ着実に、粘り強く近づいていこう!というのが「広宣流布に一歩一歩着実に近づいていくことを、使命感とワクワクと幸せと人間革命をして、幸せになりながら、実践していこう!」という「広宣流布の過程を楽しむ旅」を創価学会はしているのだと思う。創価学会には弱点がある。善と悪がある。しかし、すべての宗教やすべての組織においても100パーセント完ぺきで善しかないなんてありえないのである。そんなのは存在しない。当たり前である。しかし、この指導集を読んで、とても面白かったし、大いに参考になり。これからの生き方の道しるべになり、影響を与えてくれる貴重な機会を提供してくれた創価学会と同志たちに感謝したいと思う。いいところだけ、吸収したいところだけ、自分のものにしていきたい。創価学会の日蓮仏法も、学ぶと面白い。学ぶのがこんなに面白いとは。今、僕は歓喜であふれている。








バレーボール女子 日本VSポーランド

最期に、珍しいことやってみようと想い、

想いを込めて、祈りました。

日本が劣勢で、4セット目で後がない日本が、『日本18点』『ポーランド22点』くらいから、

『日本が勝つように!必ず勝つ!日本。サービスエース取る。ブロックして、逆転勝ちする!スパイクが気持ちよく決まる!』

みたいに、頭の中で、イメージして、思考や想いは現実化する!

ということを証明してみたい。確かめたいと思った。

たかが、想い。されど想い。

強い想いが、結果すら変えるかもと。

勝てなくたっていい。少しでも、うまくいくように。

日本がいいプレーをできるように、想いを込めて、最後は見ていた。

手を合わせ、日本が逆転勝ちする強いイメージを。

すると、18−22から、日本は18から同点まで追いついたのです。

ブロックが出て、日本の執念のレシーブが返り、油断したポーランドが拾えなくて、点に繋がったりね。

26−28まで粘りました。日本は敗れましたが、頑張りました。

もしかしたら、俺のいきなり衝動的に想いを送ったから、こんな接戦になったのかな?最後の第4セット目は。

なんて、少し思わなくもないです。

想いにはパワーがあるのかもしれない。







音楽プレイヤーパソコンスマホ

を使用禁止にしよう。

と決意し紙に書いて、2時間以内に、それを

決意通りにいかず、いつものように破りました。

いつもそうだ。

決意したとおりには大体ならない。

音楽プレイヤー聴きたくなりました。Mrs.GREEN APPLEとか。

パソコンも動画見たくなりました。

スマホも使いたくなりました。

自然体に任せ、自分の気持ちに正直に生きよう。

スマホ禁止とか、音楽プレイヤー禁止とか、パソコン禁止とかは、

『強制力がない限り、絶対に無理。極端な話し、戦争になり、住む家を失い、電気使えない、くらいじゃないと』

決意し、禁止しようとしましたが、うまくいかない。

俺は全て中途半端。最低だわ。

ダメ人間の俺。

決めたことを守れない。

ダイエット、食器洗い、小説書く、絵、勉強、歌の練習など全てが中途半端。

今回の使用禁止も守れない。

でも、守れない。使いたい。という気持ちを我慢しないくていい。

自然に使いたいならば、使えばいいと思う。

働いてないニートだから、贅沢はダメ、したくないとか、音楽プレイヤーとか使用禁止にしたぶん、なにか得るものがあるかもしれないと、ワクワクした。が、

使いたい!音楽聞きたいという欲求、欲望、衝動には勝てなかった。

でも!もし、音楽プレイヤー禁止が達成できたからといって、なんになるんだろうか。

損するしかないです。

毎日に感動が減るわけですから。

利用できるものはなるべく全て利用して、

幸せな喜びの毎日を作ってゆこう。

シャワー、歯磨きしました。

久しぶりに体をビオレのボディーソープで、きれいに

急がない、雑にしないで、『丁寧に、時間をたっぷりかけて、形だけの体洗いにならないように、しっかりと』洗いました。

何ヶ月ぶりだろう。ボディーソープでしっかり全身を洗ったのは。

いつも、シャンプー、コンディショナーで髪を洗い、石鹸で洗顔、あとはシャワーで洗い流すだけなのに。

つまり、ボディーソープで体を洗うだけは、いつも普段はしないのに、今日はできたから、体がきれいになり、嬉しいけど、

体重148キロで、体が洗いにくい。疲れた。シャワーから出る時、少し貧血気味というか、クラクラして、疲労しました。

腕をよく動かしたから、腕の筋肉が疲れたし。

疲れたけど、そのめんどくさいという気持ちにはならなかった。

『体を久しぶりにきれいにしたい。皮膚の垢、汚れを落としたい。綺麗に。清潔に。さっぱりしたい』

となりました。

だから、できたのです。

シャワーで体が綺麗清潔さっぱりいい気分居心地良い快感。

シャワーが好きになりました。

感受性をレベルアップして、生きるのが面白く、幸せになるようにしたい。


疲れたけど、体が綺麗になった喜び半端なくて。

やはり、シャワーは好きだわ。

以前より苦痛を感じないでできてる。

嬉しい!






聖教新聞を久しぶりに読んでいた。

沖縄の人の体験を見終わって、スマホのストップウォッチを 確認した。

偶然、18分33秒になりました。

1833 =イヤササ。沖縄のセリフ。

しかも、1回ストップウォッチを止めて、また、少しおして、また、止めてと、聖教新聞まだ読もうか迷ってと

いう行動のあとだった。

まるで、神様のイタズラのように不思議な出来事だ。

全てのことに意味があるのかもしれない。

この世は仮想現実で、全ての道は、出来事はあらかじめ

決まっているのかも。

酒井響希くんのパソコンに流れている映像で、

酒井響希くんが「タッチ」と答えたタイミングで

テレビのある番組のクイズの答えの発表で「タッチパネル」 と出て、そのシンクロ、神タイミングから、まるでパソコンの映像の中の酒井響希くんがテレビに流れていたクイズに答えたみたいな形になり、凄い不思議なことが起こるなあと思いました。

この不可思議な現象は何を示しているんだろうか。

偶然、ストップウォッチを止めた時間が1833だった。

イヤササ。沖縄の。

沖縄の記事見た後に。

テレビで歌番組やってた。そこで興味深いことが起きた。モーニング娘の「ハッピーサマーウェディング」って歌がかかり、兄貴の小学生の娘「ののは」が歌っているようで、かわいいな、ののはって!って毛嫌いしていた感情が忘れるかのように、ののはをこの歌を聞いただけで、少し好きになれる気がした。そして、音楽プレイヤーに入ってたよなーって、探して、あって、聞いたんです。ハッピーサマーウェディングを。「ああー父さん母さん ああー感謝してます 一生懸命恋しましたー サンキュー!」ののはが歌っているとしたら、すごくかわいいなって、ののはを思いながら聞いた。ののはのおかげで、この曲がいい曲になった。ありがとう。ののはって。ののはが少し好きになった。嫌いって、落ち着かない子供って、すごく嫌ってた。不思議に俺は性根の腐ったチキン野郎だった。でも、ののはがかわいいなって思える歌だった。「ハッピーサマーウェディング」は。そして、そのあとに気まぐれで、偶然、AKB48の「SO LONG」って曲をハッピーサマーウェディングが入っていた音楽プレイヤーのフォルダ「100part2」でたまたま見かけて、これ、そういえばとてもいい曲だったよな、と気になり、「ハッピーサマーウェディング」の次に連続して聞いた。その「So Long」って曲にはこういう歌詞がある。「思い出が味方になる 明日から強く生きようよ」って。昔から、妄想で思い出=おもいで=ともひで=智秀=オレみたいな妄想していて、ののはが「思い出=オレ」が味方になる!って、ののはが言われているような気がしたのだ。このハッピーサマーウェディングとSo Longを連続して聞いて、ののはが関係したなんか考えすぎだし、妄想に近いけど、自分にとっては、この神みたいなタイミングで、ののはをハッピーサマーウェディングで好きになり、その好きになった=オレがののはの味方になるみたいなSo longのそう妄想させるような歌詞といい。何が言いたいかわからないし、変な勘違い妄想かもしれないけれど、自分の世界の中では偶然とは思えないんですよね。江頭俊文さんの「パーフェクトドリーム」って本にこんな記述がありました。「すべてのことに意味がある」あなたが今まで起こったことも、これから起こることも、それはすべて偶然ではなく、必然ですっていう感じの書き方していた。本当に、この世は必然しかないのかもって思いました。初めから、この世は選択肢が用意されていて、その無数の選択肢の中から、決まった出来事が起こる。はじめから何が起こるか決まっている。つまり、運命ははじめから決まっている。どういう人生を送るかは、選択肢にもよるが、全て選択肢が用意されていて、どのような未来になるかは最初から決まっている。としたら?なんでこんな偶然が起こるのだろう。たまたま?本当にたまたまなのだろうか?すべてのことに意味はあると思えた夜でした。


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