鍵、持ってるの

ものすごくくだらなくって
笑いが止まらないゆるくて面白い話も、
ものすごく真剣で
一つ一つ本心の言葉を選んで
落ち着いて話すことも、
どちらも日常的にしてます。
どちらも大好きな会話です。

後者を
ちょっとひとつ
わたしが何年も
心に鍵かけてることを書くのだ。

ある意味それは鍵を一度
開けてみることと同じか。
なんの解決にもならないですが。

わたしは信じることがこわいです。
信じることは人に期待することと
同じようなニュアンスでもあると
捉えられたりしますが、
わたしは人に期待することはありません。
そう書くと冷たい人間みたいですが、
人は人それぞれだから、
それぞれなるがままでいいじゃない、
そう思って期待は持たずに生きてます。

信じることというのは
自分の身近な、
例えば家族とか、
そういういい意味で空気みたいな
安心して心を開ける存在に対して
無意識に抱いてるもので、
なにかが崩れたときに
「あ、そうか、わたしは信じてたんだな」
と、信じてたことによって
喪失するものが大きい。

だから信じるのがこわい。
うまく書けない。

解決方法が見当たらないので
えいやと押し込んでいるのです。
ここだから書いた。
匿名性というこの時代だからこそ。
なかなかこの話は口では話せません。

中学生の時に
合唱コンクールで
谷川俊太郎さんの詩の
「信じる」という曲を歌ったなと
思い出したりして、
その詩を読んでみたりしましたが
自分の力では腑に落とすことが
できませんでした。

このまま人を信じることを
こわがって生きていたら、なにか、
素晴らしい景色みたいなものを
見ることなく過ごしてしまうのかな、
なんて思ったりします。

自分は自分でいていい、とも、
人は人それぞれでいていい、とも、
自分と他者どちらもそれぞれ達者で
生きていましょうスタンスでいる。
だからいつもある程度の距離感を
保ちながら生きていますが、
それが信じるうんぬんにつながる
スタンスなのかどうかもわからない。

欠けたり
曲がったり
嘘が隠れてたり、
そういう不安がない
まっすぐな光みたいな
そういう「信じる」って
この世にあるのだろうか。

私はその光を見ることができた時は、
今気づくことができていない
なにか大切なことを知ることが
できるのではないか、そう思っています。

なんとも自分にとっては難しいことです。

はい、じゃあまた鍵かけます。
ひと息ついて、今日はもう寝ましょう。

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