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僕の#建築をスキになった話

ロンロさんがきっかけで#建築をスキになった話を書こうと思った。僕だけじゃなく他の方も感化され#建築をスキになった話を書いてる人の記事も読ませてもらい、僕も書いてみることに。ただ#建築をスキになった話というよりかはどうして建築の世界に進もうと思ったのかという話にもなるかもしれないがそこは了承願いたい。

ターニングポイント
・サグラダファミリア
・建築家との出会い
・海の博物館
・長屋空き家の改修

きっかけ

ターニングポイントは幼少期の頃まで遡るが建築をやろうと思ったのは高校2年生の時である。元々サッカー選手になりたくて小学校、中学校の頃、大阪にあるクラブチームにも所属していた。途中で辞めて中学校のサッカー部に入った。でも実力のなさから高校に進学する時にはサッカーを辞めていた。正しい選択だと今でも思う。そして建築をやろうと思った高校2年に何があったかというと家でたまたまテレビを見ているとサグラダ・ファミリア(設計:アントニオ・ガウディ)が映った。心の底から衝動に駆られた。何故そこまで衝動に駆られたのかは不思議ではあるがバルセロナを象徴する建築に惹かれたのだと思う。建築の規模ももちろんそうだが、国・地域に建つ1つの建築の影響力に圧倒され、その時僕はこう思った「日本でそんな建築を作りたい」と。かなりざっくりしていてそんな建築ってなんやねんって今でも思う。でもそんな事を思って今まで建築をしてきた。

日本を象徴する建築

僕はいつしかそんな建築を作りたいと思っていた。日本を代表する建築と云えばこの記事をご覧になった方なら何を連想するだろうか。僕は丹下健三氏が設計した東京都庁だと思っている。しかし建築として捉えるのかエリアとして捉えるのかではまた意味あいが異なってくる。建築としては象徴的なシンボルとして君臨しているにも関わらず、東京都庁周辺の計画や現状を見てみると気持ちのいいものではない。地盤が断面的にも平面的にも分裂してしまい移動が困難である。エリア的にも商業というよりかは行政区域なだけに少し固いイメージがエリア全体から伝わってくる。果たしてそんなエリアに建つ建築が日本を象徴していると云えるのだろうか。と最近は思っている。


もう1つのターニングポイント

見出しの通り、もう1つのターニングポイントがある。大学に入って1回生の冬(関西では1〜4回生と呼ぶ、関東では1〜4年生と呼ぶ)にイベントのスタッフをしていた時、ある建築事務所の所員さんと飲みの席が近く話しをしていた。おそらくそこで僕は建築家になると熱く語っているとその所員さんが事務所に呼んでくれた。そして所長さんともお話をさせて頂き1週間ほどインターンすることになった。所員さんから後から聞いた話だが所長さんは1回生の僕に何も期待しておらず、むしろいらないと思われていたみたいだったらしい。しかし1週間の僕の行動を評価してくださり継続してインターンに行かせてもらえるようになった。そこから僕は気付けば1年間も行っていた。頻度や時間は正直に云うとイメージを悪くしてしまうのでやめておこうと思う。
大学に入ったばかりの僕には模型を作ることしか出来ず、いつもスタディ模型を作ったりコンペをしたりと常に大変だった。コンペにしてもIllustratorやPhotoshopなんて使えるわけもないと思っていたがぶっと通しで24時間ずつ触っていると簡単に使いこなせた。
それにしてもいつも怒られていた。本当に自分を責めた。それでも楽しかった。建築をスキになった場所。1年間行っている間に1つのプロジェクトを携わらせて下さり良い経験でしかないと思う。少し周りと違う事をしている自分は優越感に駆られている時もあり今思えば若気の至りだと思う。ただ所長さん、声を掛けて下さった所員さんには感謝しかない。でも僕は大切な2人を裏切ってしまった。月に1度、社長との面談がある。いつも尋ねてくる。大学の方はどうかと。そんな事聞かれても皆の前で行ってませんなんて言えなかった。嘘を付いた。大学なんてさぼってばっかだった。というより行ける状況にさえならなかった。友達に学生証を渡して授業に出席してもらっていた。1年経った頃、事務所ばっかり行って生活的にも狂い始め苦しくなった。正直に辞めると云うと煽てられて辞めれなくなってしまうから置き手紙を置いて事務所を去った。手紙を書き終え事務所を出たのは朝方の4時だった。早くしないと所長さんが出社してしまうから慌てて書いた。そしてそこから途方に暮れながら歩き彷徨った。勝手に自分を苦しめ、開放された時には心がすっーと落ち着いた。そして出勤しているサラリーマンの満員電車に揺られながら帰路に着いた。朝は誰よりも早く家を出て、誰よりも遅くに帰っていたから長い間、家族とも会ってなかった。一緒に住んでいるのに。そして朝、母と会って驚いていた。なんでおるん?って聞かれたから辞めたって応えて眠りについた。確か休日だった気がする。目覚めると勝手に辞めた事を悔やんでしまった。僕は自分に誓った。建築をスキになって建築家になりたいと思えた場所に出会えた事に感謝している。だから建築家になって所長さんと所員さんにお礼と謝りにいこうと。

幼少期から大学生までを繋ぐ記憶

少し幼少期にまで遡ってみる。小学生になってからかなる前なのか覚えていないが家族で三重にある海の博物館(設計:内藤廣)に行ったことも少し影響していると思っている。子供だからか船が集まるだけで興奮しているのに空間自体にも興奮した。その感覚が大学生になってからも覚えていた。ふんわりとしたイメージしか残っておらず思い出すにも何かが欠けている気がして卒業後に確かめに行った。大学院に進学した先輩の修士研究で伊勢神宮に行くのに便乗して海の博物館まで行こうと提案。一番記憶に残っていたのが船の収蔵庫(重要文化財)だと思う。実際に入ってみると過去に来た記憶が蘇り足りなかったピースを集めれた気がする。初めて来た感動というよりもまたここに来れたという感動の方が大きかった。

建築の好みは変わるもの?!

大学で建築を学び始めると少しずつ趣味が変わってきたのである。それまでは町単位、国単位で象徴出来る建築に憧れを持っていたわけなのだが少しずつ建築の規模が小さくなってきた気がする。それにしても思いは同じで象徴的な事に違いはない。小さな建築があるエリアに集まれば大きな建築になる得るからだ。それは作りたい建築に属していることであって好きな建築とはまた区別しておく必要があるかもしれない。好きな建築を問われるとブルータリズムの建築も好きだしモダニズムの建築も好き。綺麗なものよりもかなり使い古されたレンガ造だったり石造だったり、さらにそういった建築に手を施した新旧のコンテクストを所有する建築も好きだったりする。だけれど作りたいと思う建築となると全くそういったものは当てはまらない。自分でもどうしてなのか考えるが応えに辿り着かない。

もう1つの建築をスキになったきっかけ

僕が建築をスキになったもう1つのターニングポイントは長屋空き家の改修プロジェクトである。建築を作るということは人々の繋がりを作ることでもあり、町の景観を作ることでもあると僕は思います。このプロジェクトで学んだ事は必ず今後にも活かされるべきだしむしろ活かしていかないと意味がない。ただかっこいい建築というよりかはそこを利用してくれる人がいて初めて建築は"建築"と呼べるのかもしれません。人々の触れ合いが感じれる場所を作りたいと思ったのが建築をスキになったことにも繋がってると思います。


そして今

僕は人と話しをするのがスキで色んな人と関わりながら建築を作りたい。
今はやっている事、これからやりたいことはまたの機会にしようと思う。

以上が僕の建築をスキになった話でした。



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