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91歳の看板嬢とカウントダウン ~すずらんの70年繁盛物語Vol.1

コロナ禍で看板を下ろす店が相次ぐ中、鹿児島市では、創業70年の婦人服店「エスポワール すずらん」が、閉店へのカウントダウンを刻んでいる。創業以来、店の看板を背負ってきたのは、会長の大脇敏子さん。今なおおしゃれで美しい奇跡の91歳だ。カウントダウンを終える前に、70年の商売物語をぜひ聞きたい、と店を訪ねた。

いきなりハートをわし掴みにしたのは

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「閉店セール」が掲げられたすずらんで、大脇敏子さんと初めて会った。しかしその瞬間、わたしはすっかり心を掴まれてしまう。91歳とは思えない容姿や物腰、声掛けはともかく、こぼれんばかりの親しい笑顔に。ショップに、こんな笑顔で迎えられた経験は、わたしには多分ない。

今は亡き夫と共に始めた敏子さんの商売は、戦後すぐに遡る。
「これまでも、これからもあんなに素晴らしい人には出会うことがないと思う。誰にでも愛される人だった」
最愛の夫・俊則さんは、敏子さんの2歳上で、18歳で軍人として終戦を迎えた。満州にいた家族は鹿児島へ引き揚げたが、俊則さんは家を失った友人の母親を助けようと友人の故郷・和歌山へ。木を切って売り捌いたり、さつま芋を大阪に運んで売るなどして金を稼ぐ中で商売を覚えたらしい。大阪の鰹節屋からは、ぜひうちで働いて欲しいと声がかかるほどだったという。

友人の母親のためにバラックの家を建てることができると鹿児島へ戻り、自分も家を手に入れた。敏子さんとの出会いはその頃だ。実は、敏子さんの友人が俊則さんを好きになった縁で知り合ったのだが、敏子さんも惚れ込んだ。
「気に入られたくて、夫が手に入れたばかりの家で一生懸命障子貼りをしたり、ズボンの裾上げをしたりしたもの」
と、はにかむ様子は、まるで少女のようだ。気が付けば、敏子さんは俊則さんだけでなく、俊則さんの母親からも気に入られ、ふたりは結婚することになったのだ。


夫婦の歴史は、リンゴ売りから始まった

果物市場で働くおばちゃんたちにも可愛がられていた俊則さんが「リンゴ100玉をどこかで売れないだろうか?」と声をかけられた昭和22年が、20歳そこそこのふたりの事業起点になる。

俊則さんは、現在の天文館・有馬明治堂の目の前の路上に目を付けた。戦争で焼けた街は、まだまだ砂利道が続く焼け野が原状態。リンゴを地べたに直接並べての商売だった。
「鉢巻をして、鈴をチリンチリンと鳴らし、『おいしいリンゴ、いらっしゃいませ~』と一生懸命声を張り上げた」
これが、売れに売れた。

リンゴの前には人だかりができ、お客さんは服の前を広げた中にリンゴを抱えて持ち帰る。あまりに盛況とあって、そのうちに5、6軒、真似して売る人が出てきたが、売上は敏子さんらの5分の1ほどだったというから、その手腕はすばらしい。
10箱の仕入れを50箱に増やすとさすがに残ったが、翌日に売り残すのが嫌な敏子さんは、草履履きで、飲み屋や食堂を一軒一軒回り、買ってもらった。すると「昨日のリンゴおいしかったよ。また頂戴」と、言った具合に、ファンが増えていった。

その売れ行きを支えたのは、私も心を掴まれた笑顔だった。
「主人が、鏡を一日300回見なさい。商売は笑顔だよと。ほんとうにいろんなことを教えてくれた人です」
あの笑顔は、1日300回、70年の積み重ねで身に付けたものだったのだ。


食べるものの次は着るものだ!

2年ほどが経過し、下着や靴下が売れ始めたと聞きつけた俊則さんは、「これからは、衣類だ」と、リンゴ売りを止め、荷車を手に入れ、下着・靴下・カッターシャツなどを載せて販売を始めた。川島屋という屋号も付けた。現在の天文館納屋通りの入り口・マツモトキヨシの場所だ。当時の納屋通りは、地元の百貨店である山形屋と丸屋を結ぶ位置にあり、一番の繁華街だった。チリンチリンと鈴を鳴らし、売り子が歌を歌いながら売ると、これがまた売れに売れた。

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やがて荷車から、戸板をはめたバラックの店が増えはじめ、街並みはどんどん変わっていく。その経済成長ぶりに目を付けた俊則さんは、今度は県庁や市役所の指定店となり、休み時間に、紳士服をハンガーに下げて売りに行くようになった。

敏子さんは事務担当。この紳士服もよく売れ、鹿児島市内だけでなく川内市や、種子島・屋久島・奄美大島といった離島へも販路を広げた。派手に彩った販売車を8台所有し、離島へはフェリーに載せて移動。華々しく時代の最先端を行く売り方は、衆目を集めていく。

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鹿児島の婦人服店を牽引する敏子さんの活躍は次の記事に続きます⇒


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