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91歳の看板嬢とカウントダウン ~すずらんの70年繁盛物語Vol.2

鹿児島市では、創業70年の婦人服店「エスポワール すずらん」が、閉店へのカウントダウンを刻んでいる。創業以来、店の看板を背負ってきたのは、会長の大脇敏子さん。今なおおしゃれで美しい奇跡の91歳だ。カウントダウンを終える前に、70年の商売物語をぜひ聞きたい、と店を訪ねた。ここからは、敏子さんがいよいよ婦人服販売に乗り出す物語だ。

敏子さん、婦人服販売に立つ英断

商売がどれも当たり、20代にして鉄筋2階建ての家も建てた大脇夫婦。順風満帆に思える道のりだが、
「70年の歴史の中には、血の涙がにじんだこともあります」
と、涙ぐむ。
紳士服販売を始め、事務をしていた敏子さんは、あるとき、種子島の役場からのお金の入りが悪いことに気が付いた。客に尋ねるときちんと支払いはしているという。大きなお腹を抱えながらも電車賃を惜しんで、下荒田から中央郵便局まで歩き、調べてもらうと、数百万あるはずの預金が、なんと5万円しかなかった。

原因は使い込み。事務を預かりながら長年気づかなかったことを後悔、懺悔するとともに、自分の目の届く商売をしなければならない。そう心に沁みた敏子さんは、一大決心をし、夫に進言する。これまで夫の主導で紳士服を扱ってきたが、「紳士服をやめ、婦人服でいちからやり直そう。わたしにやらせてほしい」と腹をくくったのだ。

負債を清算するために、鉄筋2階建ての自宅を売り、信用してお金を出してくれた債権者を集めて事情を説明し、返済した。すると、「握り倒産で一銭も払わない人もいる中、家まで売って返済する人はいない。これは僕たちの気持ちだ」と代表が40万円を差し出したのだ。涙がポロポロこぼれた。

この40万円を元手に、お詫びと感謝の気持ちを込めて、婦人服販売への道がスタート。鹿児島を1歩も出たことのない敏子さんが、東京・大阪・名古屋の問屋街へ単身で出かけ、仕入れ品を自分の身体より大きな風呂敷に包み、恥ずかしい想いをしながらも背負わせてもらって列車に乗り、鹿児島へ持ち帰って売るという商売が始まったのだった。

センスに自信を重ねて事業を拡大

問屋街に行き、「鹿児島でこういう商売をしているすずらんです」と顔を売って歩く。ムシロの上に並べられた洋服の中から、この店から2点、あの店から3点、と現金払いでピックアップしながら仕入れをする。現在のセレクトショップのハシリだ。この婦人服も売れに売れた。東京から仕入れて売ると、すぐになくなるので、とんぼ返りで今度は大阪に仕入れに行くといった具合だった。

次第に信用がつき、現金がなくても持っていってくれと言われるようになる。心がけてきたのは、迷惑をかけない商売。支払いが悪いとなったら、いいものを見せてくれない。
「信用の大切さも夫に学んだ。自分だけの商いではない」
「喜べば喜びが喜んで喜び集め喜びに来る」と言う言葉も俊則さんが教えてくれた大好きな言葉だ。喜びが回る商売が、70年の歴史を作ったのだろう。

10坪ほどの店舗を借りて始めた婦人服店は、どんどん成長を続けた。仕入れに行くと、宿で知り合った全国から来る同業者と情報交換することも多かった。敏子さんの仕入れセンスを見込んで、教えを乞う同業者も出てきたほどだ。
「自分にどんどん自信がつき、婦人服と子供服で成長していこうと思った」
敏子さんは、すずらんを鹿児島の婦人服店を代表する存在に作り上げていく。ターゲットを変えて次々と店舗や事業を増やし、全盛期には、宮崎県都城を含む8店舗にまで広げたのだ。

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周囲に支えられた愛される力

大脇夫婦は、5人の子にも恵まれた。12人兄弟だった俊則さんの5人の姉たちやお手伝いさんなど、あらゆる人からの協力の協力を得て、商売とともに子どもたちも育っていった。
「事業の成功には、家族や周囲と仲良くすることが必要だが、私には人を呼び寄せる術がありました。愛されるコツは、まずは愛することなんです」
天国の人は人に食べさせることで自分もふくよかであり、地獄では自分だけが食べて痩せていく。人に与えることが幸せになるコツだと教えてくれたのも俊則さんだった。
「大好きだったから、嫌われたくなかったから、いつも機嫌よくするように努めた。夫と結婚したことでどれほど成長させてもらったことか」
と、今も心からの感謝を忘れない。

必死に働きながらも5人の子どもに恵まれ、事業は成功し、幸せをかみしめる敏子さんだが、長男を4歳で亡くす哀しみも味わっている。社員の結納のため、夫らとともに川内方面へ出かけた長男が、大型バスと正面衝突をする交通事故で亡くなったのだ。息子に靴下を履かせ、ハンチング帽子をかぶらせて送り出した様子が、昨日のことのように蘇ると目を潤ませる。しばらくはご飯粒ものどを通らず、母が卵を飲ませるなどして、なんとか凌いだ。
「今日と言う日が幸せなのに、それに気が付いていない人がいる。どうぞ、今日一日を感謝して大事に過ごして欲しい。今のわたしは、自分のことが自分でできる有難さをかみしめている。子どもたちに迷惑をかけずに主人のところに行けたらな」
と言いながらも、筋肉を鍛える体操を欠かさず、本を読み、商売の計算や記録をとり、最後の日まで店に立ち続けているのだ。

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(一緒にすずらんの店に立つ長女・麗子さん、次女・加代子さんの他、次男の唯眞さんは代表取締役として、孫の智美さんや次男妻の晃子さんはロペ鹿児島店のフランチャイズ経営に当たるなど、敏子さんに導かれ、一家で店を支えてきた)

幕引きは自分の手で

すずらんの70年間は世の中の変化とともにあり、あるときは波に乗り、あるときは障害を乗り越えながらも前に進んできた。しかし、幕引きは、突然にやってきた。きっかけは新型コロナ感染症の流行だ。母を助けたいと、一緒に店に立ってきたふたりの娘らの努力もあって維持してきた店だが、ぴたりと客足が止まった。結婚式・旅行・同窓会などがキャンセルとなったあおりが押し寄せたのだ。

移動自粛要請が出ると、新商品を手に出張してくるメーカーの営業マンが鹿児島入りできなくなり、メーカーの倒産が始まった。先の見通しが立たず、鹿児島でも次々に倒産が聞かれるようになった。そして、「お母さんが元気なうちに店じまいした方がいいのではないか?」という娘や息子の意見を聞き入れ、閉店を決意。お得意様へ閉店のお知らせを出したという。

それ以来、来店はもちろん、電話や封書での連絡がひきもきらない。届く手紙には「これからどこで買い物をしたらいいのでしょう」という嘆きの言葉がつづられ、敏子さんが得ていた多くのファンとの想いに心を震わせる日々だ。

すずらん閉店後も、敏子さんには、残る1店舗と継続する他の事業もある。大好きな読書や古からの友人のとの食事会など予定は多く、「のんびりはしておれない。体が許す限り、元気で頑張りたいと意欲は衰えない。

コロナを経て、ファッション業界の地図もどんどん書き換えられつつあり、未来は見えづらい。個性的な商品を生み出すメーカーは減り、すずらんのような顧客それぞれの顔を思い浮かべながら仕入れをするスタイルや、店頭でのコーディネート販売は減っていくのかもしれない。ただ、客やスタッフから「先生」と慕われる敏子さんのファンを掴む店づくりは、今まさに求められている形だろう。

「おしゃれは、憧れと希望と勇気だと思う。時代に応じて、年齢を忘れて、時代にあったおしゃれで、生きていく道があるように、時代に即応した道を見つけていけばいい。
昔は70歳で本当におばあちゃんだった。90歳を過ぎた私がこんな服を着ているとは思いもしなかったはず。今の人は、20歳は若いわよね」
そんな人々や世の中の若々しさを支え続けた自負が言わせる言葉だろう。
「ただ、あんな成長期はもうないと思う。そういう意味ではいい時代を生きてきたのかな」
と、往時を偲ぶが、時代の先を読み、アグレッシブに変化を遂げて歩んできた敏子さんの生きざまには今こそ学ぶべきものがあるように思うのだ。

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