過去と現在を今癒す
目の前にいる人が病気や怪我などさまざまな要因で苦しんでいる姿を目にする時、
尚更、それが家族や友人など自分にとって大切な人だった場合は特に、
どうしたらいいだろう、
自分に何かできないだろうか、
いてもたってもいられずに自分の無力さを嘆きながら、
なんとか助かってほしい、
助けてあげたい!
神さまがいるならばなんとかしてください
と祈らずにはいられない時が誰でも少なからずあります。我が子を見つめる親の立場ならば「この状態をなんとかできるならばこの身を投げ打っても構わない」そう思うこともあるでしょう。
その時、目の前の人が
呼吸ができない
痛み
痒み
パニック
恐れ
などに陥っている状態を確認できますし、また、
本人からは自覚がないものの外部から指摘できる明らかな不調、
というものもあります。
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さて、この世界において『知覚・体験できるもの、こと』というものは"自分が知っていること、知ろうとしていること"だけです。
逆に言えば自分が知らないこと、興味が向かないものについては見たり聞いたり感じたりするような出来事は生じません。
知らないー知らない
知らないー知ろうとする
知ろうとするー知った
こんな流れがあります。まず知ろうとすることがなければ一生わからないままです。
知った、の積み重ねが記憶となり、認識となり、感情を生み出します。個人個人の経験により差異があるために、見て触れて感じたことから導き出される結果(=感情)はひとりひとり違うものになります。
目の前にいる人、あるいは景色さえ、過去の経験からの認識を積み重ねたフィルターを通した自分自身を見ている、と言える構造があります。鏡に写った自分と考えても良いでしょう。
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話を始めに戻します。
目の前に苦しんでいる人を目にしている時、それを見て驚き恐怖している自分がそこにいました。
相手が苦しんでいる状態があることは事実としてそこにありますが、
・このままでは死んでしまうかもしれない
・かわいそうだ、なんとかしなければ
など思い浮かんでいるそんな時、急を要するならば専門医に診てもらうことが最優先ですが、それ以外にできることがあるとすれば、
●目の前の人と同等に傷ついたまま忘れ去られている自分自身の傷の存在の可能性
を探すことは自分にできることのひとつです。なぜならば先に述べたように、世界において知覚できることは自分の認識の中にあることのみだからです。
同じ病気や怪我を経験しているかどうかではなく、かつてそのような
息苦しさ
痛み
痒み
パニック
恐れ
このようなものを過去に経験していなかったか、経験を避けてなかったことにしなかったかを振り返ってみるということです。
ストレス、対人関係の中での喜怒哀楽からも
息苦しさ
胸の痛み
重苦しいお腹
肝を冷やす思い
身の気がよだつ
身を切るような思い
などあるものです。その中に、今目の前の人を見つめながら感じているのと同様の体感覚を得た体験はなかったでしょうか。
乗り越えたことなら平気でいられるので気にも留めなくなり、目の前のことにも対処できるため平気でいられますが、乗り越えられなかったことはまるで過去をドラッグ&ドロップしたように今、目の前に現れ続け、同じ体感覚を呼び起こし、まさに今、困っている人を前にして自分自身もフリーズしたり、恐れたままになってしまうのです。
この状況を打破するためには意識を過去と現在に向け、体感を今にして、現在目の前にある恐れを感じきることが必要です。
感じ切る中で、その体験の始まりと終わり、自分の認識を見つめ続け、どうしてそれが起こったかについて説明ができるようになれば再びドラッグ&ドロップが起こることはないでしょう。
この時同時に
●大きく強く優しい意志を持っている自分自身の存在
にも気づくことができます。
自分を助けるというと大抵ピンとこないものですが、他人を助けるという時には俄然力が湧き、絶対になんとかしてみせるという意志を持った強い自分がいることに気づきます。その出会いは、かつて痛みに負けた自分を救い出すための第一歩となります。
その命がけの力で自分を支え、恐れを見つめた結果、何も失うことはなかった自分に気づき、安心し、
その結果鏡の向こう側にいる大切な人の傷も癒えるでしょう。
自分にも大切な人にも、優しさとあたたかさが流れ込むでしょう。