日記 5月23日

 途中から飲み会に呼ばれる、というやつが本当に本当に嬉しくて、多少無理(前日の睡眠時間が三時間だったり、非常に忙しい用事の後だったり)をしてでも行ってしまう。最近までは自分って結構断れない人間なのかな、と思ったりもしていたのだけど、別に話したいわけでもない人間がいる飲み会に途中から誘われたときには普通に断ったので、たぶん嬉しくて行っているんだと思う。
 無論、最初から誘われるに越したことはないのかもしれない。でも別にそこまでは望んでいない。というか飲みの予定を立てて、その日の待ち合わせ時間に行く、というのがめちゃくちゃ苦手で、なんとなく直前になるとめんどくさくなってしまうタイプの人間だから、途中から誘われるくらいがちょうどいい。性質的に。

 たとえば中学二年生のときにもらった手紙に書かれていた「親友だよ」という言葉や、前の前の前のジャンルで二次創作をやっていたときにもらった「どのジャンルにいっても追いかけます」という言葉や、何気ない大好きや愛してるやずっと友達でいようねをいつまでもいつまでも信じていたり、逆に言葉になっていないことはいつまでも信じていなかったり、そういうタイプの人間関係の下手くそさがあって、そういうのを信じているのが私だけで、相手はもうとっくにそんなことを忘れているんじゃないかなという不安に打ちのめされることがあって、そういうときに飲み会に呼ばれると安心する。たぶん誘った側はそんなことはあんまり考えていなくて、ただ単にお酒が入って思い出話や噂話に興が乗って、そういえばあいつ呼んでみるかみたいになっただけかもしれない、というか、たぶんそうなんだけど、それでも忘れられていないことに安心する。人間が本当に死ぬのは人に忘れられたときというけれど、それは別に生きている人間にとっても同じことだと思っているから、生きていようが死んでいようが、忘れられたら死んでいるのと同じことで、だから自分が作った同人誌が人の部屋の中にあると安心する。プレゼント、でもいいけど、形に残るものを人にあげることはなかなかに勇気がいることだから、勝手に私から買ってくれるもののほうが都合がいい。ズルですね。思考の。

 日記。コミティアは生のイベントで、文学フリマは死のイベントだな、と思った。別にイベントの運営がどうとかではなく、コミティアは「生きるため」の創作をやっている人が多くて、文フリは「死なないため」の創作をやっている人が多かった。「覚えてもらうため」と「忘れられないため」と言い換えても良い。この二つはよく似ていて全然違う気がする。おもしれ~。
 おしまい。

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