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no.1

2018.8.9.am0:58

目を覚まして、一階に降りてソファに座る。
20時過ぎに息子を二階の寝室に寝かしつけると、自分もそのまま寝落ちてしまうこともしばしばだ。

最近、ずっと片付けに追われていた。
正確に言うと、引っ越してきてから3ヶ月が経つというのに仕事が休みの日があっても、片付けることができないでいた部屋の隅に積まれた段ボール3箱分の圧力が、わたしの右半身を圧迫し続けていた。
それが一昨日、突然に片付いたので今とても安心してソファに腰をかけたところ。

それでもまだ片付け切らない作業机(=散らかるもの=片付けるべき場所)に散乱しているのは、〆切の迫る事務的な書類、好きで集めている作家のグッズ、どこに置くか考えあぐねている未読のZINEやそこそこ厚みのある本、前の住まいで神棚のようなものに置かれていたものたち(棚を新設しないといけない)、そしてよく使う文房具と諸々の充電器たち。
片付けられないでいた段ボールの内の一箱分、箱から出しただけだった。
それでも箱に入れられている内は、その中身が大体なにかわかってはいても「得体の知れない何か」になりすましていて、その存在は妙な居心地の悪さをわたしの右半身に与え続けていた。
3ヶ月ぶりにその箱(蓋の左上に「宝物」と書いていた。引越し屋はその文字を確認した上で|これはどこに置くか|尋ねた。いい引越し屋だった)を開けた。
箱から出してみれば、なんてことはない。
よく見知った ものたち との再会。それらはやはり前の住まいでもどこに置くかわたしを悩ませ、長い時間をかけて定位置に収まっていったものたちだった。
彼らはそうして得た 自分の置き場所 をまた失ってしまった。また長い時間をかけながら、あちこちに置かれながら、その内収まってゆくのだろう。
箱の中で3ヶ月は長かったかもしれない。
ごめん、と思った。

わたしはこれまでに、3回は もの に対して謝った記憶がある。

1回目は、小学生の頃亡くなった祖母の形見分けのときにもらったお守りのようなものをなくしたとき。お守りではなかったのかもしれないけど、自分から欲しいと言ったお守りのようなものをもらったその日から、わたしはそれをおばあちゃんの代わりのように思って話しかけたりした。肌身離さず首からかけていたのに、ある日、なくしてしまった。泣きながら、死んだおばあちゃんに謝った。

2回目は、20歳になる頃。高校生の頃から4年間付き合っていた彼と別れたとき。生まれ変わるような気持ちで部屋の片付けに明け暮れた。その中で大切にしているつもりだったものが埃を被っていたり、しまい込まれて忘れていたのを目にしたとき、取っておくこと=大切にしているつもりだったことに気づいて、捨てた。そのときに謝りながら捨てた。捨てたものの記憶は、もうない。

そして3回目が今回だと思う。
細かいものをあげれば、もっとあるとは思う。
思い出として残るのは、きっとこれが3回目だろう。
大人になった今、散らかり溜まり積まれてはいても、もの にこもった思いはだいぶ濃縮されているように思う。
好きなもの、興味のあるものこと が明確になって、もしかするとこの机の上にあるものだけでわたしの人生、しばらく事足りるのかもしれない。
それでもわたしは物持ちなので、至る所に無駄なものがある。
ミニマリストに憧れた時期はわりと早くに過ぎて、断捨離なんていうものは格好だけならやらないでもいい(どうせ繰り返す)と思っているし、でも〈ほんとうに必要なものは手元に残る〉。
そのことだけは、わかった。

記憶の中で、思い出す匂いがある。
その匂いはある特定の事柄を思い出させる。
ひとりの部屋にいても。ここにはない筈の匂いが漂う日がある。
匂いは、記憶をつかさどる。捨て去ることもできない。
罪深さに苦笑する。


最後に。今日、ツイッターに入れた下書きをここに記します。
こんな感じで、元々ざっくばらんな雑記の中で自由を求めて綴り続けます。
マガジン〈窓は開けておくんだよ〉。

2018.8.8.pm20:31/Twitterの下書き
「自分の言葉や気持ちを出したり引っ込めたり見直したりすることに必死で、誰にも知られることのない時間をひたすらひたすら重ねて、結局なにも産み出せないのかもな、なんて思う。
でもどんな時間も重ねてきて今があるから、認めるしかないいつだって今を。これまでを、これからを。」
「だから、今の時代を共に生きてる誰かを認める(知る)ということ。世の中を回すものはそれだけだと思う。産まれるとか産めなかったとか産まれ得ないとか、言ってないで。生きてる人間って苦しくても悲しくても辛くても、そのときマストなものを産み出す力を持っている」

生産性の有無や是非は、自分自身によってのみ課せられるし証明される。
想像力は、人を介さない限り、得り得ない。

人はつづいてゆくもの。更新されてゆくもの。

人を知るということをやめたなら、それ以上誰かについて語ることもできない。
そして人を知っているならば、簡単に誰かについて語ることはできなくなる。

たくさんの言葉を、あらゆる引き出しにしまってみたり、掻い摘んだり、小出しにするつもりがばら撒いたり、やっぱり片付けたり、端を揃えて目につくところに置いてみたり。
納得できることなんて、ほんとうはなにひとつないから、せめて自分の身体で感じたことを信じて、納得してるよってたまに誰かに伝える。
嘘を本当にしてゆく作業。その繰り返し。


今日と明日(昨日と今日?昨日と明日?)の狭間の夜更かしが、我ながら長い。
サザンも夢も見れなかったし、こんな投稿もしているけれど1ヶ月の間ずっと手をつけたかったとびきり分厚い本(読書不精のわたし基準で)に手をつけられたのが今宵の収穫。はじめのページで、表紙の絵の女性と、同じ顔になった。その話も追々。

おやすみなさい。朝はすぐそこ。