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no.3

このところ。
ひとりのとき、友だちといるとき、たまに息子といるときも。
カメラを持ち歩くようになった。
ちょいちょい自動巻のアナログカメラと写ルンですを持ち歩いていたけれど、4年前に店員に勧められるがままに買ったレンズ一体型カメラ。
LUMIX DMC-FZ1000という型番のもの。
いかつさ故に、持ってるだけで肩は凝るし子連れが大半だったこの4年程では持ち歩くのが億劫になって引き出しの奥に、その言葉のごとく眠っていた。

最近、「遠く」を撮ってみたいという欲求を満たす為にそういえば、と引越しのタイミングで見える位置にずっと置いていた。
そうして、撮れるタイミングを見計らっては持ち出すようにしている。

そんなだから、撮った写真になにも目的がない。
普段カメラを持たずに生活をしているときの方がよっぽど「あ、今の瞬間撮りたかった」「今度カメラ持ってこの街歩こう」なんて思ったりするのだけれど、それは永遠に叶わない。

ただそれでも、特段撮りたかったわけでもなくとも、そのときわたしが見ていた景色が確実に残る写真。
それはわたしが写っていなくても、そこにわたしがいたという確かな証拠だと思うと、自己承認欲求が満たされてしまう。

記憶の断片が人にも見ること(ときには触れること)のできるものとして残せるのはなんてすごいことなんだろう!と思う。

正直、いいカメラ(たぶん)で撮ると、大概のものがドラマチックに見えたり、する。
でも、自分の目に見えてる世界と近いものが取れているとうれしい。
それは、きっとわたし以外に感じ取れる人はいないように思う。
わたしのそのときの感情を思い出すような、そんなことだ。

最近、
理解されない側にいることに気づいて、すこし安心している。というよりし始めている。
理解や共感されることが当たり前、ではない状態。
マイノリティってやつなのかもしれない。
別に、「ぶり」たいわけじゃないけれど、ふと、ここで話しても理解されないなあっていう思いを持ち合わせる機会が増えた。
それはわたし自身が作り出したことでもあるし、その場にいる人の先入観や価値観の違いでもある。
明らかに、わたしはズレを感じて生きていて、そのズレを誰かと共有すること自体にも諦めを感じている。
と同時に、会えば明るくたのしく、そして健全な精神で向き合って話をしてくれる友だちがいたので、だから、理解されない側にいることに気づいたとき、安心した。
それでも理解してくれる人、もしくは理解できなくても関係の変わらない人、遊んだり飲んだりできる人がいる。

ふと思ったのは、
わたしの周りにはきっと冷たい人が多い。
冷たい、というのはある温度からしたときの(或いは一般的な)温度より冷たいだけであって、
わたしにはその温度がちょうどよい。

だから冷たい人、というのは語弊があるし正確ではないけれど。

だれも、他人の言うことなんてほんとうには聞いちゃいないのだから。
いつだって、自分の正しさの為に生きている。納得のために。
自分の食べているものを自分がおいしいと感じていれば、誰かが不味いと言ってもおいしいと感じたことはたしかなように、自分が正しいと思えていればいい。
不味いと言われたり、それは違うと言われたときに、ふむ、と思うことはあって、
そのときにじゃあ次はどこのお店に行こう、とか何食べたい?とか、その理由はなぜかとかそういう話をしたらいいのだ。
というより、そういう人となら話がしたい。
否定したいだけの人は、もうわたしには必要ないことがわかってしまった。

ゴードン・マッタ=クラーク展に行きたい。詳しいことは知らないけれど。知らないから、行きたい。
動機はいつもそんな単純なことだ。

散文的なまま、ノープランで打ち終える。
二度寝、開幕。おやすみなさい。