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ろう者にも健常者にもなれない"難聴者コンプレックス"

手話が第一言語になっているろう者、健聴者。
そのどちらにも属さない聴覚障害者(難聴者)は一度はこの「どちらにも属せない自分」との壁にぶち当たるのではないだろうか。  

逆にどちらにも寄れるとも言えるのだけれど、なんとなく自分の立ち位置がしっくり来ない人はいると思う。  

難聴者独特の悩みとも言える。  

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私はいわゆる中途失聴で、長い間難聴者でした。
ろう者の友人もいろんな人に出会ってきました。
もちろん良い友人となった人もいます。
でも、必ずしも自分がろう者に受け入れてもらえるわけではない事を知りました。  

私は日本語が第一言語で、両親や兄は健聴者なので声でのコミュニケーションという環境で育ちました。
日本語と日本手話は文法が異なるので、日本手話を勉強したけれどやはり生まれつきのろう者の方には「難聴?」とバレてしまいます。  

全てのろう者がそうとは言わないけれど、難聴と分かると微妙に距離を置かれたりもよくありました。  

個人的に「手話で育った人には難聴者差別される」シーンは多々あって、そこに憤りというかやるせなさはものすごくありました。  

あれは何故なんでしょうか?  

まるでろう者はエリートで、難聴者は出来損ないみたい。
「ろうヒエラルキー」というものが確かにあると個人的に感じています。
だから初めてのろう者の方と会う時は難聴である事を知られたくないなとビクビクしていた時もありました。  

健常者の世界で差別を感じ、ろう者にもまた差別をされるのは辛かった。  

だから、長いあいだろう者になろうとしていた自分がいました。  

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自分の人生を考えた時に、家族や主人やその家族…自分が関わる人たちが健常者で、基本的には健常者の中に身を置く事は自然な事でした。  

学校では先生の話が聞こえなくて困った事はもちろんありましたが周りの人は助けてくれたし(本当に嫌な人なんて、そうそういないですよね)、周りの人に助けてもらうためには自分がどうあるべきか、考えて身につける事も大事な経験だったと今は思います。  

社会にでたら健常者の世界なのですから。  

高校三年生の時にはじめてろう学校に入ったのですが、当時はその違いに衝撃を受けたものでした。  

「ろう者は常識がない」という話は聞いたこはあって、でもそれって偏見では?実際は人によるでしょと思っていて。
だけど実際、そう言われてしまっても仕方ないなぁという現実がそこにはありました。  

声が大き過ぎるとか、足音がうるさいとか、物音立てすぎだとか、食べる時に音を出してはいけないとか、そういう「常識」を教えて貰えなくて知らない人が多かったんです。  

だから社会に出る年頃になっても身についていない。
あとこれは仕方ないのですが、呼ぶ時に肩などをトントンと触って呼ぶ方法も健常者にとっては滅多にない事なので物凄くびっくりされたり変な目で見られたり。
"ろう者の常識は外では通用しない"シーンもあります。  

そしてそんな小さい事が重なって「ろう者は常識がない」と言われる。  

本人より周りが迷惑する事もあるのでやんわりと伝えても「難聴の意見だねー聴こえるっていう自慢?」と言われてしまったりします。
その一方で一緒に出かけて店員さんとのやりとりは難聴者任せ。  

なんだかな……  

ろう者と居れば「会話についていけない」という寂しさは感じないで済むし、会話は楽しめる。  

だけれど。
時折感じる、ろう者との違い…それはおそらく「ろう文化」なのだけど自分はろう文化で育った訳ではないので、頭では分かっていても自覚しない部分で疲れてしまうところもありました。  

たまたま仕事が忙しくなり、数年健常者としか関わらない期間があって気づきました。  

「ろうマウントとられないし、会話についていけないのは分かりきってるし、割り切れてラクだな」と。  

これからはろう者として生きていかなきゃいけないとずっと思っていた私には、この事実はけっこうなショックでした。  

聴力を失うとわかってから30年近くもがいてきて、「ろう者としてのアイデンティティ」を作らなきゃと必死だった。
難聴者に人権はないと感じていたから。  

でも、それは必要ない事だったのだなと分かりました。  

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聴覚障害となった時、なぜか人生の選択肢は「ろう者」と「健常者」に偏りがち。
「難聴者」ってあまり出会った事がないので数的には少ないのかもしれません。  

それと日本の福祉はやはり遅れているところがあるので声を上げる人が居て改善されていきますよね。
その時に前面に出るのはやはり「ろう者」。
難聴者でそういうのはあまり見た事がない。  

これは何故なのか?と考えていたのですが、単純に「数が少ない」のと「難聴者はなるべく健常者の社会に適応しようとするため、よっぽどの困難でない限り本人が努力で埋めがち」だからだと思いました。  

逆側に「ろう者の世界に適応しよとするため」というパターンも然り。  

実際私自身もそういう所があって「これはできないので改善してください」と言うより
「どうしたら出来るかな?」という思考になりがちです。  

それ自体は自立心があって向上心もある姿勢で、周りの目にもそういう人間という(どちらかというと)良いイメージを持ってもらえます。
だけど、実際難聴者は自分の持っている能力以上の事を努力でカバーしようとしている訳です。  

だから必然的に過集中となるし、気付いたらストレスも疲労も溜まってしまう。  

これは難聴者のパターンかもしれないですね。
ろう者は「健常者に寄る事はそもそも出来ない」という認識に置いては強いです。そこはわりとはっきりしている。
対して難聴者は「寄れないのに無理矢理寄りに行く」。ここが弱いんだと思います。  

だから難聴者は表立って「あれを改善してほしい」とか「難聴者はこうだからこうして欲しい」という事があまり無い。  

生きづらさは感じるものの、それを自分の中の問題で済ませてしまった方が早い、なんて思ってしまったり。  

健常者であっても誰でも人生に於いてはそういう自分が我慢すれば良いシーンはありますが、「障害」はそういう問題と同じにしてしまうのはだめなんだなと最近は思います。  

なぜなら「障害」は一生付き合っていくものだからです。
自分が我慢すれば…が一生続くとなると誰だってしんどいです。  

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難聴者は声をあげる事は少ないかもしれないけれど、最近はツイッターで難聴者の意見をちらほら見ます。
健常者ともうまく付き合ってる人が多いんだなと知りました。  

これまで私は自分の事を「健常者側のろう者」(もちろん悪い意味で、ろう者にそう揶揄された事もある)というマイノリティだと思っていてそれに悩んだ事もありました。  

でも、難聴者ってそれで間違ってはいない。
その立ち位置でも別に良い。
音を知らない訳でもなく、周りに健常者がいる、でも聞こえないならばそういう立ち位置になるのもごく自然な流れだ。  

難聴者っていう事で、ろう者にも健常者にもなれない中途半端者なのか…と悩んだりしたけれど、「難聴者」っていうカテゴリで良いじゃないか。  

最近やっとそう思えました。  

正直ツイッターは見たくない意見も多い。
それこそ手話口話論争とか。
だけれどたまたま目にした「ほかの難聴者のつぶやき」にものすごく救われたという事は本当に自分にとっては大きな心の支えとなりました。  

ろう者の世界の方が落ち着けるとか、健常者といた方が自分らしいとか、どっちだっていいんです。
みんな環境も送ってきた人生も違って、この問題に答えなんてないのですから。  

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私はやっと、"ろうの世界にも健常の世界にも居場所がない。"という難聴コンプレックスから解放された気分。  

ろう者になろうとしなくてもいい。
私は難聴者。
少数派でも難聴者っていうカテゴリはたしかに存在している。  

これからは自分を偽らないで生きていける。

サポートしていただけると嬉しいです。現在病気や怪我により思うように働けないので生きてゆくためのサポートとして大切に使わせていただきます