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【エビスト】 アモル様の夢見る「音のない世界」についての妄想

アプリゲーム「8 beat Story ♪」に関する記事です。

概要
エビスト作中にてアモル様が「夢」としてみた「音のない世界」の光景は、アンドロイドの音楽を押し付けたり人間の音楽を排除するといった敵対的な姿勢に基づいて成立したものではなく、むしろ音楽に対する理解の手助けを人間に対し図った結果である。しかし、その際に人間の音楽の一部理論や「音楽」という定義そのものを突き詰めすぎた結果として実質上排他的な姿勢を伴い「音のない世界」の実現を理想とするようになってしまった。


0.はじめに

アモル様の想起する「音のない世界」の形とそれを実現するためのB.A.C の姿勢、そしてそれらに他キャラクターがどう反応するかまでを、乏しい知識と取り上げた事例に対する浅い理解、それら材料を繋ぎ合わせるほぼ100%の妄想にてお送りしていきます。既出情報との乖離や酷い誤解があった場合も、優しく指摘していただいたり、あたたかい目で見守っていただければ幸いです…

1.「音のない世界」の描写についてのおさらいと捏造

アモル「この世界の人々は誰も歌わない、話さない、笑わない…だけどどこか幸せそうだ」 - サイドストーリーB.A.C 編第1章第1話

アモルが夢の中で見た、Mother の理想とする「音のない世界」。ただ実際にはこの世界には音がないのではなく、人間の発する音を極力抑制した上で「鑑賞されるべき音」をMother やB.A.Cの側で絞り込んで人間に提供するシステムが整っている世界なのではないでしょうか。

立ち絵とセリフ、わずかな背景のみが表示されるストーリー描写上の制約をいいことに、この記事中では「音のない世界」について以上のように都合の良い解釈を前提として話を進めていくこととします。


2. 現代音楽での「沈黙」の捉え方について

実際、鑑賞される音を音符以外に求めたり、極端に減らす方向で音楽の形を問いかける試みは現代音楽においてもいくつも現れています。用語として「サイレンス(沈黙)」という語が存在し、しばしば論じられるほどです。


最も有名だと思われるのは、無響室での経験から「あえて音を出さなくても世界には音がある」ことを〈4分33秒〉(1952)にて示したジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.、1912 - 1992)の例。


また時代は下り、長大な演奏時間の中で、音が立ち現れてから消えるまで過程を鑑賞者に印象付けるべく、コンサートという手法に拘りつつ沈黙の時間を長くとる作品を輩出したヴァンデルヴァイザー楽派(The Wandelweiser Group)所属の一部アーティスト達。

(英語版Wikipedia より「Wandelweiser」および、本項目で扱う意味としても極端な「沈黙」を湛える作品といえるRaku Sugifatti のHitotsu(2005)。71分の演奏時間のうち、15回ほどしか音は鳴っていないのではないでしょうか…?)


これらは、「沈黙で埋める」という、およそポピュラーミュージックとはかけ離れた形態をとることで、それぞれ違う道筋ではあるものの「音を鑑賞する」という行為を聴衆にあらためて意識させる音楽を作り出す試み、ということになると思います。


3. 芸術を鑑賞する体験は「どこ」に存在するか? 〜アンドロイドの感覚と一致する?〜

もちろん、音楽に限らず、いわゆる「現代芸術」には「芸術とは何か、◯◯とはなにか」を問いかけたり、鑑賞者へのより具体的なテーマにおいて問題提起を図る姿勢の強いものが多く存在します。

例えば、コンセプチュアル・アートの源流と言われている、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)の『泉』(Fontaine、1917)。乱暴に言えば既製品の便器にサインをしただけの物体を「展示品」として出品したことに端を発する議論、この議論を通じてデュシャンが問いかけた「普段見ているものに対して新たな思考の創出を行うことで芸術になる」という姿勢。また、美術品が完成するタイミングが作品それ自体ではなく、鑑賞者が「意味」を作品に見出してそのことを記述することによってである、という提起は特に有名でしょう。


私が好きなのでもう一つ挙げておきたいのが、ソーシャル・プラクティス(公共の目につく場を用いて社会に関わり提起する芸術の実践)の先駆けとも言われるゴードン・マッタクラーク(Gordon Matta-Clark、1943 – 1978)の、ビルディング・カットに代表される「都市空間と人間の関わり方」について意識の転換を迫る作品を発表する姿勢。これも鑑賞者に新たな思考と想像とを促すという意味で、作品は受け取り手各々の中でようやく完成することになります。

(英語版Wikipedia 記事及び、2018年に東京にて行われた回顧展の告知記事)


ここでエビストに話を戻して考えたいのは、リレー放送でしきりに強調された、作中のアンドロイドの独特な「ある感覚」です。つまり、感覚はモノそれ自体から受け取るのではなく、自分の現在の感情や持ちうる知識、視点といったモノ以外の要素から生じてくるという設定で、アンドロイドの感覚と現代芸術の鑑賞という行為はどこかしら繋がっているのかもしれない…という認識です。

ここまで取り上げてきた具体例はそれ自体が最新の理論や問題提起ではありませんが、少なくとも芸術の鑑賞が作品そのものではなくそれらに触れた際にどのように考えるか、あるいは触れるためにどういった場を用意するべきかという作品自体を離れた要素の中に立ち現れてくるという点では乱暴に括れば一致しているのではないでしょうか。

つまり、エビストの作中において時折描写されているアンドロイドの感覚についての人間との差異は、アンドロイドの特質というよりはそれらがインプットしている芸術に対する理解(現代芸術の延長線上にある?)を暗に示しているものなのではないか…と私は考えています。

Mother の開発にどれだけの技術者が関わり、そして芸術家が関わっていたかは明かされていないので本当に憶測に過ぎがませんが、Mother の製作の際に当時の芸術に関わる理論が入力され「音楽の未来の姿」を演算するように組まれていたのだとしたら。意外なところでその情報が表出することになったのかもしれません。


4. 作中のB.A.Cの言動に関する妄想

一方で合わせて考えたのは、Mother やB.A.Cが音楽を文字通り「音を楽しむもの」として純粋に理解してしまった可能性です(舞台が日本中心だし漢字から理解していても無理はない…と思います)。そのためB.A.C は世界で演奏される音楽において、それらを構成する一つ一つの音がきちんと理解されない人間の状況を本当に哀れんでいるのではないでしょうか(打ち上げ花火全体を見て「綺麗だ」と思えても、火薬一つ一つがどのように燃焼しているかを人間の視力では追いきれない…といった例えでこの感覚は伝わるでしょうか)。そして「正しい」音楽の理解になかなか至れないのは、アンドロイドほどには一音一音を人間が正確に分析して楽しむということができないという人間の限界のためだと考えている…という憶測へとつながります。

そうした状態から人間が「音を楽しめる」ようになるためには、曲における音の数を極力減らし音の発生から消滅までを一つ一つ堪能できるレベルまで音楽の形を変えていく必要があります。現時点(2020/7/24)のB.A.C の曲にはそういった要素はありませんが、曲というより所信表明や教義についての説明に近いとまで評されるこれらは「人気取り」のための一手であり、本当に目指す音楽の形が提示された時にはそれこそ現代音楽におけるサイレンスへのアプローチの数々のようなものが出来上がっているのではないでしょうか。

それをいずれは踏襲すべき基本方針として据えたため、「余計な音」を出している音楽はなくすべきだと考えますし(ベル)、その手段として一度音楽はB.A.C の提供するものとして独占する必要があると信者の獲得のために振る舞います(アモル)。シェアを握った後、B.A.Cにより人間たちに対し与えられる愛の形をとって(クゥエル)、「正しい」音楽が代わりに供給されるべきなのだ…という道のりがそのままストーリーにおけるB.A.C 3人の言動に反映されているのではないでしょうか。

(また、上述のような音数の少ない…音一つ一つの持つ意味が大きい音楽に接する上で、振れ幅の小さい「抑制された感情」を持つCP2は「音のない世界」を「正しく」一様に理解するために最適なものであり、同様の姿勢を人間にも求めていくことになります。これが、話さない、笑わない世界で人々が幸せでいる理由につながるのでしょう。「信ずるB.A.C が提供する音楽を享受するのに最適な態度は、自分が音を立てずなるべく混じり気のない状態で接すること」であることが人間の理解としても徹底されていくのです。)〔説明ができていないので後で練る〕


5. B.A.C に対抗する要素として考えられるもの

以上のように砂上の楼閣を組み上げる形でB.A.C の行動がどういった思惑の下進んできたかを妄想してきましたが、それに対して他ユニットはどのような立場を取りうるでしょうか。現時点で思いついた要素を列挙してみたいと思います。

・ひなたが真っ直ぐに主張しハニプラを中心に強く擁護される、「音楽はすべてに等しく価値がある」という多様性を認める立場。この場合はこのままではB.A.C の「絶対的な音楽が存在する」という立場とは平行線を辿るしかないので、その状態を崩せる数段階が別途必要になります。

・ここまで妄想したB.A.C の「人間を導く」という姿勢の裏付けとなるのは、アンドロイドが人間より優れた識別能力や分析力を持つからこそ「正しい音楽」を理解して選び取ることができるという前提です。しかしメインストーリーでアンドロイドであるメイを凌駕する聴力・分析力を駆使することができると示唆されている鈴音がその能力を持っていてなお「人間の音楽の素晴らしさを認めている」という状況をB.A.C の面々が目の当たりとした場合、その優位と根拠が揺らぐのではないでしょうか。

・そして、2_wEi がストーリーと幾多のリアルライブを経て示した、「発する側の経験や感情に応じて音楽は形を変える一回性のものであり一つの形に定まるものではない」という姿勢です。受け取り手の感情を一律にコントロールして正しい音楽の鑑賞体験を与えよう、というB.A.C の姿勢にとって、同じ曲に対して同じ感情を込められないことに悩み、そしてそれを「生きて今を歌う」ことで乗り越えようと姉妹で話し決意した2_wEi の音楽は、「発信者自体の揺らぎ」を前提とする音楽としてB.A.C にとってはいずれ頭の痛い存在となるはずです。

挙げきれなかったその他のキャラクターも、音楽に取り組む理由や距離の取り方は様々です。B.A.C がそれらを「不要なもの」としてまとめて一蹴するにあたって果たしてどんなやりとりが用意され、そして各々がどんな受け止め方をしてどんなストーリー展開へと繋がっていくのか、非常に楽しみです。


◯最後に

以上、現時点で公開されているB.A.C のストーリーを基に、その時たまたま読んでいた書籍にあった記述を無理やり接続して妄想として書き殴ったものです。

まだまだエビストがどういうストーリー展開をするのか、それはシナリオを司る運営側にしかわかりませんし、上述の妄想が正しいとは思いません(というかこうあって欲しくはないです)。

アプリ内外問わずいつも予想外の動きを見せてくれているエビスト。その今後にこれからも期待の眼差しを向けつつ、今回はこの辺で。Ate logo!

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