融ける蛹
『愛してます』
深夜2時の長電話。
友達だったはずの貴方の言葉が、私の世界を静かに照らした。
そして一瞬の戸惑い。
「愛」とはかくも気まぐれに、自力の及び難きところから、不意を突いて浴びせらる恣意の光であろうとは。
愛、それは原点回帰。
迷子の私の手を引いて、私自身へと立ち還らせる。
愛、それは彷徨える気持ちごと抱擁。
私という「み」を照らす暖かな陽の光。
み、身、実、ミ、命。
私の行為ではなく私という"場所"を愛していると。
私が"在ること"それ自体を愛していると。
『‥どうもありがとう、よろしくお願いします。』
私は彼の愛に、その光に頭を垂れた。
結局のところ、他者に受け入れてもらうことでしか、ひとは自分を受け入れられぬのだ。
しかし愛されるとは私の魅力ではなく、全く以て貴方自身の能力である。
予期せぬ貴方の愛に偶然見つけられ、ついに私は掬われただけ。
愛とは純粋な恣意。みずからの努力とは真反対の方角から、かくも気まぐれに訪い、いつか気まぐれに立ち去るもの。
愛される者はそれをただ待つことしか出来ない。寂しさをじっと堪えるしかない。もし愛に与ることなき孤独が生涯続くのならば、やはりそれを生き抜くしかない。安寧に生きる唯一の術は、起こる全ての出来事に遍く頭を垂れること。
生きるとは即ち受け入れること。
ここに象徴的な仏教説話がある。
江戸時代、とある浄土真宗徒の家屋から火事が起きた。果たして全焼。慌てふためく周囲をよそに、しかし家主は穏やかな様子でこう云ったという。
「火事にしてくれてどうもありがとう。お陰で後生が楽になりました。」
私には誰一人として話相手のいない時期があった。その3年間、自助会や相談サイトやカウンセリングや様々な支援センターを辿り、何とかして他者と繋がる方法を模索していた。居場所を求めて彷徨い、見つけたと思えば取り残される。そうして沈む夕陽を何度見送ったことか。
けれど愛されてしまった今は云える。
あの時の私は、どう足掻いても独りきりだったということ。
あの時のあらゆる努力は即ち無力で、私はただそのように在ることしか出来なかったということ。
ひとはみずからの人生をただ立ち尽くすことしか出来ない。
そんな自分の無力に気付きたくないから皆必死で頑張るのだろう。「空」の自覚を怖れている。強がりや悪あがきや空々しい演技をその「み」に纏う。そうしてサナギのように我が「み」を肉で覆い隠し、真理から眠りこけている。「必ずや何かを獲得せん」、と自我を頑なに育むのだ。
「み」とは即ち「空」。わたしという場は本然空虚であり、そこを訪う出来事ひとつひとつを、感情がいちいち意味付けしていくに過ぎない。ゆえに感情は「み」を揺さぶる刹那の嵐。記憶の花、舞い散る思い出。その掌を握れども遂に何も掴めない。あらゆる物事は過ぎ去るばかり。
行為や出来事それ自体には、本来善も悪も悲も喜も無いのだ。
とはいえ、感情の彩りがあればこそ日々の出来事は愛おしいのだけれど。
ひとは「自分がそのようである」ことに対して何処までも無力だ。
努力では埋まらない欠陥を感じながら、ただその傷みをじっと生きていくしかない。愚かであるなら愚かなままを。愛されないなら愛されないそのままを—。
ひとには本来、それしか出来ない。
けれど抗いたくなる。希望とは斯くもしぶといのだ。
今、孤独に苦しむ何処かのあなたへ。
願わくば、あなたが"そこ"に置かれたことに光が差しますように。
如何なるものが訪れようとも、穏やかな気持ちで受け入れられますよう。