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7ポンドくれたら、最高の夜にしてあげるわよ

カート・ヴォネガットが一番おしゃれだと思う。
この世の中にはいろいろなデザイナーやアーティストが絶倒するようなおしゃれな絵やおしゃれな空間やおしゃれな体験を提供してくれるが、私はこの世の中でカート・ヴォネガットが一番おしゃれだと思う。
カート・ヴォネガットが生きていてくれて、もっとおしゃれな世界を見せ続けてくれたらどんなにすばらしいだろう。
哀しいかな、私はこれ以上増えないカート・ヴォネガットの全集を抱えて生きていくしかない。

だれか、カート・ヴォネガットが好きなら、この作家さんはどう?と私に薦めてくれないだろうか。
でもきっとダメなんだろう。
カート・ヴォネガットでなくっちゃ。

つぎに引用するのは、ヴォネガットが『デッドアイ・ディック』のプロモーションのため、イギリスを講演してまわったときのインタビュー記事の一節です。

「本の書き出しの必要条件は、誘惑的であることです。利口な作家なら、ちょっぴりいたずらっぽく、ちょっぴり気のきいた、ちょっぴり新しい書き出しを考えるでしょう。なにしろ、その本を開いて、それを読むためにこれからの2、3時間を割くかどうかを決めるのは、まったく知らない人たちなんですからね。もし、わたしの小説の書き出しが、ちょっぴりカッコよかったり、はったりがきいているとしたら、それは相手の気をひくためなのです。こっちが誘惑しなければ、むこうはそんな本なんか読んでくれやしません。まあ、早い話が…売春みたいなもんです。『7ポンドくれたら、生涯最高の夜にしてあげるわよ』というような…。
さて、結末ですが、わたしの小説の結末には、よく苦情をいわれます。しかし、結末は重要じゃない。どうでもいいんです。わたしは『猫のゆりかご』を、世界の終りで終わらせました。人によっては、それをわたしのコメントの一種と受けとりましたが、実はあの本を終わらせるためのたんなる便法だったんです。結末とは、作者が一冊をかけて積みあげてきたものの仕上げだろうと、読者は想像します。ところが、ちがう。作者が積みあげてきたものの仕上げは、全体の3分の2あたりのところで、もう終わっているんです。いいたいことはそれまでにいいつくされ、すべての場面は演じつくされた。本の最後の部分は、ちょうどこういっているようなものです。『おいでいただいて、ほんとにありがとう。おもてなしはこれで全部です。料理は品切れ、角氷もなくなりました。もうこんな時間ですよ。さあ、コートをどうぞ。また近いうちにお会いしましょう…』」

デットアイ・ディック カート・ヴォネガット 浅倉久志訳 訳者あとがき

おしゃれですね。
おしゃれすぎてため息が出ます。
いつか人望が出来たら、カート・ヴォネガット読書クラブを立ち上げたいです。

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