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キセキ謎について考える



どうも、キセキ謎を量産してバズりまくりたいまっきーです。



最近、Twitterでは謎の投稿が急増し、タイムラインは一枚謎で溢れかえっています。

そんな中よく目にする感想が「これは奇跡だ!」みたいなヤツ。

とても良くできた謎につけられる感想ですが、そんなに「奇跡」って起こるものなんでしょうか。ポンポン起きるようなことを「奇跡」とは言えないのでは?

ということで、今回はそんな「キセキ」について考えてみます。

筆を執り始めた現時点で既に長くなる気がしているので、暇な人だけお付き合いください。



まずは奇跡の言葉的な意味から


そもそも「奇跡」の持つ意味から知らなければこの先の議論も意味をなしませんから、まずは国語辞典を開きましょう。


1 常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。

2 キリスト教など、宗教で、神の超自然的な働きによって起こる不思議な現象。


(出典:デジタル大辞泉)


2の意味に関しては、僕は残念ながらまだ人間ですし、できれば新世界の神になって僕より面白い謎を作る人間を全員消していくなんて手荒な真似は最終手段にとっておきたいので、一旦1の意味について考えましょう。

謎解き風に言い換えると、「普通に考えていては作れない、どこから作ったのかわからないような超スゴい謎」といったところでしょうか。

こう定義してみると、謎解きが「解き手」にとって「奇跡」に見えやすいことがわかります。

完成品だけが見える「解き手」にとっては制作過程なんかわかりませんから、どこから生まれてきたのか見当がつかないような謎は「奇跡」に見えるわけです。

これでタイムラインが「奇跡だ!」という感想で溢れる理由がわかりました。

では、続いて「作り手」にとっての「奇跡」についてもう少し詳しく考えてみましょう。



実際「奇跡」ってそんなに起きるのか


「奇跡」と形容される謎は数あれど、「作り手」がそれを「奇跡的に作れた」とは限りません。

「作り手」は謎を作ろうとして考え始めますから、「なんで作れたのかわからない」という状況は当然減ります。

つまり、「解き手」が「奇跡だ!」と感じるような謎でも、「作り手」にとっては「奇跡」でもなんでもない、なんていう状況は往々にしてあるわけです。

さて、「解き手」と「作り手」で感じる「奇跡」には大きな差があるという困った状況になってしまいました。

このギャップを少しでも解消するには、謎解きにおける「キセキ」を再定義する他なさそうです。

ここからは、「解き手」が「奇跡」だと感じるような面白い謎解きの成り立ちには、「作り手」にとっての「キセキ」が大きく分けて3種類存在すると考えられるのではないかという提案です。



1.「奇跡」謎


「作り手」にとっても「なんでこの謎が作れたのかわからない」、まさに「奇跡」が起きたとしか言いようのないようなものは「奇跡謎」と呼んで差し支えないでしょう。

例えるなら、道を歩いていたら目の前に美しい隕石が落ちてきたような感じです。

俗に言う「突然スゴいアイデアが降ってきた」とか「降りてきた」時はこれに近いと思います。

こんなシチュエーションは滅多に起こらないということは簡単にわかるでしょう。

そもそも、「奇跡」という言葉のニュアンスには、多分に「偶然」という要素が絡んできます。

「絶望的な状況の中、奇跡が……!」みたいな状況は、「様々な偶然が重なった結果、それらが上手く噛み合って本来起き得ないようなことが起きた」のだと言い換えることができます。

つまり、「奇跡謎」は「ものすごい偶然によって発見された謎」と言えるでしょう。



2.「貴石」謎


しかし、謎を作るに当たっていつまでも偶然に頼っているわけにはいきませんから、我々「作り手」はピッケル片手に謎解きのアイデアが眠る「ナゾトキ鉱山」にエッチラオッチラ赴くことになります。

そこで見つけた輝かしいダイアモンドのような謎を「貴石謎」と呼ぶことにしましょう。

ところが、この「貴石謎」も決して数は多くありません。

何故なら、例えば「ゴジュウオン鉱山」などの主要で坑道まで引かれているような鉱山はあらかた掘り尽くされ、また最近の謎解きのカジュアル化によって探鉱者(「作り手」)が増えていることもあり、目につく場所に「貴石」はほとんど残っておらず、「貴石謎」を見つけるためには相当深く、そして広く掘り進める必要があるからです。

既知の鉱山から新しい「貴石」を見つけることも、「貴石」が眠るまだ手付かずの鉱山を見つけることも、もはや簡単なことではありません。

「貴石謎」はそんな茨の道の先にある、「根気強く探し続けた末に発見された謎」と言えるでしょう。


ここまで「奇跡謎」「貴石謎」について書きましたが、実はこの二つにはそれほどはっきりとした境界はありません。

というのも、「奇跡謎」は「隕石」に例えましたが、もちろん何も考えていない人のもとにこの隕石は落ちることはなく、常日頃からアンテナをはって謎のアイデアを探し続けている人のもとにしか落ちてこない(正確に言えば、落ちてきても気づかない)ものですし、「貴石」の発見も、やはり「偶然」による部分は大きいと言えるからです。

この二つをあえて区別するならば、「その偶然をかける時間や根気によって必然に近づけることができるかどうか」にあると思います。

もし記憶を消してもう一度考え直すとなったとき、「奇跡謎」は同じ発想ができる自信がない謎で、「貴石謎」は根気強く探していればもう一度見つけられる自信がある謎、という程度の違いです。



3.もう1つの「キセキ謎」


さて、ここまで2つの「キセキ謎」について説明してきましたが、この2つを合わせてもタイムラインにあふれる「奇跡だ!」と評される謎の数には遠く及ばないでしょう。

では、そんな謎の大部分を占める「キセキ謎」とは一体どんな謎なのでしょうか。

これまで折角「隕石」「貴石」と「石」で喩えてきたので、今回も「石」で考えてみましょう。

隕石や貴石以外で高い価値を持つ「石」。それは何だかわかりますか?


シンキングタイム。


シンキングタイム終わり。


様々あったかもしれませんが、僕の答えは「彫刻」です。

3つ目の「キセキ謎」は「彫刻」に喩えられるものであると思います。

ここでよく考えて欲しいのが、「隕石」や「貴石」と「彫刻」の価値基準の違いについてです。

「隕石」や「貴石」はたとえ砕いても一定の価値が残るのに対し、「彫刻」は砕けばただの石です。

逆に言えば、一見何の変哲もない石ころだったとしても、無駄な部分を削いだり、模様を彫り込んだり、時には別の石と組み合わせたりと、適切な加工を施すことで価値の高い「芸術」にまで昇華されます。

つまり、「彫刻」の価値は、石そのものではなく、そこに施された技術や制作者の手腕に見出だされているということになります。

「奇跡だ!」と評されるような美しい謎も、実は制作者が「奇跡的に見えるような技術」を施している場合がほとんどだと僕は思っています。

このような、アイデアそのものよりも、それを謎の中に美しく落とし込んだ制作者の手腕を評価すべき「キセキ謎」は、出発点よりもむしろ完成させる過程に価値があるという意味で、「軌跡謎」と言い換えることができるでしょう。



「奇跡」「貴石」そして「軌跡」


これで僕の提案する3つの「キセキ謎」についての説明は終わりです。

もちろん、「奇跡謎」「貴石謎」のようなアイデアそのものの凄さは謎解きを評価する上で重要なファクターですが、「軌跡謎」のような謎解きに落とし込む技術というものは、謎解きを作っている人にしか気づいてもらえない凄さだったりします。

また、「奇跡」や「貴石」と「軌跡」で価値基準が違うということは、組み合わせることも可能だということです。

アクセサリーのダイアモンドがより強く華やかに輝くのは、職人の施すブリリアントカットのおかげであることを忘れてはいけません。

何かとても面白いと思える謎に出会ったとき、その謎が何故面白いと思ったのか、何が面白いと思わせているのかを深く考えることは少ないと思います。

ですが、そんな謎に込められている制作者のこだわりやテクニックを知ろうという新しい視点で謎を眺めたとき、また違った面白さが顔を出すかもしれません。



長文にお付き合いいただきありがとうございました。

このnoteが新しい謎解きの面白さの発見に繋がれば幸いです。



僕は彫刻刀一本で「奇跡」を演出するミケランジェロになりたい。

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