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惜しみなく。

惜しみなく乗せていっていいんだなぁと思う、今日この頃。
(いくら丼とかじゃなくてね。)

人よりも、もしかしたら、自分が持っている、気というか、こころというか、その総量が多いのかもしれない、とあらためて思っている。

気遣いとか、心配りとかいう、あの、気とか、こころ。

それが上手かとかいうことではなくて、きっと、たくさん持っているから、渡しても渡しても、気にならない、ということなのかな。

今の場所に来て、「自分はどちらかというと気とかこころとか盛り盛りで対応しちゃうんだな」と気づいた時、最初はそれでいいかなと思ってやっていた。
だけど途中で、「これだとほかの人との差が出ちゃうから、少し抑えたほうがいいのかもしれない」「私はやりすぎなのかもしれない」と思って、少し抑えるように意識した。
でもそうすると、なんだかむずがゆくて、いい感じじゃなくて。
なんでわざわざ抑えてるんだろうと思いながら。

よくよく考えたら、いいんだよね。わたしはわたしで、あなたはあなた。

いろんなやりとりをする中で、HAPPY!な内容だけじゃなくて、どちらかというと、ちょっと伝えにくいとか、ちょっと気になる、ちょっと困ってる、とか、センシティブな話も届く。

メッセージでやりとりすることも多くて、ただただ自然とやっていたのだけど、
「メッセージこれでいいかなぁ」って相談もらったり、
「すごくあたたかいメッセージありがとう」って言ってもらったり、
たまたまかなぁと思ったりもしたけれど、これは素直に受け取っていいのかな、と今は思えるようになった。

出し惜しみしなくていい、とも思えるようになった。

わたしがいくら乗せようとも、受け取ってもらえるかは相手次第。
ただ、無理に盛るのも、無理に減らすのもしなくていい。
もしかしたら、ちょっと盛り盛りかもしれないけど、それがわたしなんだなー、って思っている。
全部が全部うまくいくわけじゃない。笑
(人によっては胃もたれするかもなと思う)

出し惜しみしなくていいんだ、って思えてからの、開放感がはんぱない。
閉めていた蛇口、ひねって流れるようになった感じ。

きっと枯渇しそうになったら、自分で補給するから。無理はしないから。


余談ですが。
惜しみなく、から、惜しむらく、の音が連想されて、惜しむの意味を見ていたら、「愛おしむ」(いとおしむ)という言葉も出てきた。
イメージと行動がリンクしているようで、勝手に、守られているような気がしてる。

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