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『ふゆのいずみにつげる』シナリオ・サンプル(第二章)

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■第二章ダイジェスト

■第二章 The easiest way to open minds is that be kind with a tender heart.

(1/3)

 それから特に何事もなくあれよあれよと5月を迎えた。それもそのはず、
新入社員は4月いっぱい社外で広告業界における基礎知識や技能、それからビジネスマナーなんかを
みっちり学んで適性テストを受けてから各部署に配属されるので、その間は『例のあの男』と
顔を突き合わせる機会が一切なかった。まあ、視界の隅にちらっと映り込むことはあったかも知れない。
だけどその程度であったので、正直俺は彼のことを忘れかけていた。
あの日帰宅する頃には熱はすっかり冷め切っていて、でかい犬に飛びつかれてこけたぐらいの
些細なことのように思えたので自然と大量の仕事がその記憶を脳の奥の方へと追いやってくれた。
 ――もちろんしっかり存在はしているので、それもまた些細なことでいとも簡単に
引き出されるものなのだけど。

「営業部に配属されました、青葉答慈と申します!」

 まばらな拍手が響く中、彼は見事な最敬礼を披露した。あの日と違って、
真新しいぱりっとした紺色のスーツにストライプのネクタイを着こなしている様は、
いかにも爽やかなニューカマーという感じがした。場の空気がそこはかとなく新鮮さと明るさに
満ちあふれる中、俺はひとり陰鬱とした気持ちでさりげなく奴から顔を背けていた。
 あれから冷静になった頭でよくよく考えたのだが、いくら性根が良さそうだからって
表に出てくる言動が『あれ』では一緒に仕事をするこちらまでそういう風に見られるだろうし、
使い物になるまでに一般的な新人より余計な手間と時間が増えそうだ。恥や恐れをものともしない
というのは一見良いことのように思えるが、裏を返せば何をしでかすかわからないという危険性がある。
それに俺の醜態をさらしてしまったし、ああいう『善意と無邪気の塊』みたいなのと一緒にいるのは
どうにも居心地が悪い。しかも出会いがしら(厳密には二度目)に口説いてくる
(厳密にはあの発言にどういう意図があったのかは定かではない)ような奴なんて、
ろくでもないやつに決まっている。つまり、もう出来るだけ関わりを持ちたくなかった。
同じ部署に配属された以上、それなりの付き合いをしなければならないのは諦めるしかないが、
新人教育の類いが俺に任されるということはまずないと思うので、しばらくはある程度の安寧を
得られるであろうと踏んでいた。

「あっ! あなたは!」

 不意に彼が歓呼した。俺がうつむいているので定かではないが、おそらく俺のことを認識したと見える。
そうであると感づいてしまうほどに、俺の顔めがけていろんな人の視線が刺さっていた。
彼が大きな体躯を揺らしながら駆け寄ってくるのを、そこで硬直したまま今踏みしめている
床の振動で感じている。

「あなたも同じ部署だったんですねえ! ご一緒出来て嬉しいです! あ、その後お体は大丈夫ですか?」
「……あ、ああ……」
「なに桜庭くん、青葉くんともう親交があるの? いつから?」
「いえ、部長。親交と言うほどでは……」
「はい! 桜庭さんには大変お世話になりまして!」

 ものすごく嫌な予感した。こいつが次に口を開く前に俺が正確にいきさつを説明しなければ
まずいことになると俺の勘が告げている。俺はあいつを脇に押しやって部長のセンターを盗ろうとした。
が、その努力もむなしく逆に押しのけられて弁明大会から退場させられた。
このときほど自分の体幹の軟弱さを恨めしく思ったことはない。

「僕のために着ているものをわざわざ脱いでくださったんです!」
「……へえ?」
「いえ! 正しくは! たまたま入社一日目に出会った青葉さんが入社式に不適切な格好で
行こうとするものですから見かねて私が着ていたセーターを脱いで貸しただけです! 正しくは!」

 想像以上に説明不足な説明に思わず間髪入れずにすさまじい勢いで否定してしまったため
逆に嘘くさくなってしまった。場が凍り付いて寒くて仕方ない。……本当に、あまりにも
必要な情報が欠落しすぎていて、意図的に別の解釈をされるような言い方をしている気さえしてくる。
むしろ意図的であったならば悪質ではあるが自らできちんと説明できる能力はあるはずなので
まだましだが、今のがきちんと説明しようとした結果だったのなら、本当にもうどうしようもない。
俺は頭を抱えた。

「ま、とにかくすでに面識あるなら、青葉くんの教育担当は桜庭くんが良さそうだね」
「い、いえ、私では力不足かと」
「僕、教えていただけるなら桜庭さんがいいです!」
(お前はちょっと黙っていてほしい)
「青葉くんもこう言ってることだし。そもそも二人とも新事業部に配属されるんだから、
桜庭くんが面倒見るのが一番効率いいでしょ」
「……え? 新事業部とは……何でしょうか」
「あれ、社内チャットまだ見てない? 人事出てるよ。そういうわけだから、よろしく。
……ああ、そうそう」

 部長はにやにや笑いながら、俺の右耳に口元を寄せた。

「くれぐれも、『やさしく』ね。……やさしくって言っても、『悪いこと』は教えないように」

 意味ありげな一瞥をくれた後部長は俺の肩をぽんぽんと叩き、さっさと自分のデスクに戻っていった。

「……そんなこと、別に……」

**

 部長の言っていたとおり、俺と青葉はこの春から新設される事業部で仕事をしろとのお達しが届いていた。所属する部署はそのままに、各部署から数名が集まって構成するようだ。事業内容はまだわからないけれど、何か新しいプロジェクトでも始めるのだろうか。わざわざ新たな部署を作るくらいだから、きっと大きな企画に違いない。こいつと一緒にやらなければならないというのは不安だが、新しくて大きな仕事を任されることには胸が高鳴った。

「新しく出来たお仕事が出来るの嬉しいですねえ! 僕、頼りにされているんでしょうね!」
「新プロジェクトを担えるのが嬉しいのは同意だが、お前が頼りにされているかどうかは知らん」
「はい、ですので、きちんと頑張れるように……えーっと、むち打ちをお願いします!」
「……は?」
「ですから、教育のために、僕を鞭で打ってください!」
「……俺は一体何を要求されているの?」
「え? こういうとき言いますよね、ご指導ご……何とかって」
「……ああ、『鞭撻』ね。何でお前は言い回しがちょいちょいいかがわしくなるの? 
お前の頭はえっちなことでいっぱいなの?」
「そんなわけないじゃないですか! 一生懸命良く見えるように話しているのに
変な言いがかりはよしてください!」
「悪かったな、冗談だ。しかしお前は中身がバカなんだから外面を過剰に取り繕おうとしても逆効果だぞ」
「僕バカじゃないです。……先輩。何だか冷たくないですか? この間はあんなに優しかったのに……」
「お前に優しくすると損をするということがわかったからな。
俺に優しくされたくば、まともなことが話せる人間になることだ」
「はい! 承知しました!」
「……。まあ、あれだ。お前は言葉遣いが綺麗だから、恣意的な発言を控えて無理になじみのない表現を
使おうとしなければ印象は十分いいと思うけど」
「僕、言葉遣いが綺麗ですか?」
「ああ、新人にしては」
「……そうですか! それは、良かったです!」

 総合してバカにしている比率が高いというのにちょっと褒めただけで青葉は目に見えて
嬉しそうな様子だった。建物が揺れるからそのでかい図体で跳ねないでほしい。
これだけ単純ならある意味では扱いやすいかも知れなかった。
 さて、これからここ第三会議室で新事業部について、メンバーの顔合わせも兼ねた説明会が行われる。
もちろん事業内容も気になるが、構成人員も重要だ。せめて接しやすく仕事熱心な人であってくれれば、
と願った。
 程なくしてドアをノックする音とともに誰かが入室してきた。

「失礼します。……あ、桜庭くんだー。こんにちは」
「……小林さん。お疲れ様です。……もしや小林さんも新事業部の……」
「うん、そうそう。新しい部署作るから行けって言われたんだよねー。
いやあ、桜庭くんと仕事できるなんて嬉しいなあ」
「光栄です……」

 俺は小林さんの顔をこの場で見ることで、今後の雲行きが怪しそうだということをそこはかとなく
感じていた。なぜなら小林さんは――。

「で、そっちの君は新人さん?」
「はい! 営業部の青葉答慈です! よろしくお願いいたします!」
「元気でいいねえ。僕は媒体部の小林瑞希。よろしくねー」
「ばいたい……って何でしたっけ」
「テレビとか雑誌とかの情報を発信する手段……『メディア』って言う方がなじみがあるかもな。
それが媒体だ。媒体部はメディアを運営する放送局や出版社なんかの会社が持っている広告枠を
買い付けるのが主な仕事。例えばテレビなら番組の間に挟まれるCMが広告枠の一つだな。
まあウチは電波系のマスとはほとんど取引しないけれども……。少なくともこの間の研修で教わっただろう」
「僕、必要ないことはすぐ忘れてしまうんですよね」
「バカ野郎、必要だ。営業部だから営業のことだけわかってりゃいいってもんじゃないんだよ。
営業は広告主と他の部署との橋渡し役なんだから、むしろどこの部署よりも会社全体の役割を
把握していないとだめだ」
「はあ……大変なんですねえ」
「他人事みたいに言うんじゃない」
「まあまあ。仕組みだけ説明されてもなかなかわかんないからねー。現場に出たら自ずと
わかってくるでしょ。桜庭くんも頑張らなきゃねー」
「そ、そうですね……。ところで、他はどんな方がこの事業部に参入するんでしょう」
「マーケが1人と、あとは部長って聞いてるよー」

 するとタイミング良くまた何者かがドアをノックし、静かに扉が開かれた。
つかつかと入ってくる人物を見るなり俺は、にらまれていなくても勝手に縮み上がる蛙のようになった。
その人物はこちらに目をやることもなく一直線に出入り口から一番遠い、周囲が見渡せる中央の席に座った。

「ゆ、譲香……」

 俺が思わず漏らしてしまったつぶやきに反応し、彼女はようやくこちらの方に顔を向けた。

「……桜庭くん。勤務中に不適切な呼び方は控えてください」
「あ、す、すみません……」
「このたび新設される『プライベートブランドチーム』の部長に就任いたします、梅野譲香です」
「お初にお目にかかります! 私は営業部の青葉――」
「いえ、皆さんの自己紹介は結構。いただいた名簿で存じています。当事業部の説明を簡単にいたします」
「あれ? ちょっと待って。マーケの子がまだ来てないみたいだよー」
「……マーケティング部の人員は現在海外留学中で、入社は9月になるそうです」
「てことは中途かー」

 もうこの時点でこの部署の頭上には暗雲が埋め尽くして雨がぱらつき出している。
せめて事業内容がやりやすいものであれば良いが……とおずおずと挙手をする。

「……それで、当部署の事業内容はどういったものなのでしょうか」
「……事業内容。そんなものはないわ」
「……はい?」
「強いて明言化するなら『弊社に新しい価値をつくる』ということになります」
「ずいぶんざっくりとしてるねえ。でも、若くて優秀な営業が2人もいれば何かいい案考えて
どうにかしてくれるよねー」
「ちょっと待ってください、小林さんたちは一緒に考えてくださらないんですか!?」
「アイデアを出すのは営業の仕事でしょう。私はその案が適切かどうかを判断して指揮を執るだけ」
「そうそう、具体的に媒体部として何かやらなきゃいけなくなったらやるけど、
アイデアなんて出せないよ。僕の仕事じゃないもん」

 ……やはりこの人員では、無理がある。譲香はもともとプロモーション部所属であるが、
口ばかり達者でたいした仕事をしていないらしいし、小林さんは小林さんで一日中お菓子を食べながら
誰かとチャットしているだけらしい。すなわち譲香と小林さんは、それぞれに『非協力的』な人材として
有名だった。加えてマーケの人員は9月までやってこない、そして新人の青葉は『ああ』である。
こんな調子ではまともに仕事など出来そうもない。
 ――ふと、別の見方が浮かんだ。もしかしたら、端からまともに仕事をさせる気などないのでは
ないのだろうか。ここは『厄介者』が体よく押し込まれる『隔離場所』なのではないか。
……そうであるならば、自分がここにいるのも納得できる。

「――青葉くんに仕事を覚えていただかなくてはなりませんし、5月中は通常の業務に専念していただいて、
6月から本格的に始動してほしいとのことです。ですからそれまでに企画案を考えて提出してくださいね、
桜庭くん」
「……はい、承知しました」
 
 たとえ厄介者だと思われていたとしても、頼れる者がいなくても、「要らない」と言われるまでは
俺は粉骨砕身して会社のために働く。――だってここだけが、俺の居場所なのだから。

「……それで桜庭くん、ちょっといいかしら」

 譲香が部屋の外に出るよう促すので小さく返事をして席を立つ。……十中八九、いつもの
『お願い』だろうな。

「……小林さん、あのお二人、仲が悪いのですか?」
「え? そんなことはないと思うけど。どうして?」
「お互いに顔を見ないようにしているから……」
「そう? 勤務中だから弁えているんじゃない?」
「弁えている、とは」
「あー……青葉くんは知らないか。あの二人、婚約してるんだよ」
「そうなんですね。そういえば桜庭さん、婚約者がいるっておっしゃっていました」
「そうそう、あの二人は小学生の頃からの付き合いだし、婚約したのもつい最近だから仲が悪いってことは
ないんじゃないかな。僕らが知らないだけで」
「お詳しいんですね」
「譲香さんは社長の娘さんだから。僕は社長とずいぶん付き合いが長いし、周辺の事情も自然と
精通しちゃうんだな。でも、あの二人がオウバイのトップに立ってくれるなら安心だねえ。
真面目で優秀だから。廃れることはないさ」
「……僕にはまだ、何とも言いがたいですが」
「さーて! 会議も終わったから休憩休憩! 青葉くんは甘いの大丈夫? お菓子あげるよー」
「あ、はい。甘いものは好きです。ありがとうございます」
「それは良かった! 今日はねえ、東北の銘菓を取り寄せてみたんだよねー」
「……。……弁えている、とは違う感じがしたんですけどねえ……。あれはまるで……」

 扉をしっかりと閉め、部屋を出てすぐの通路で、譲香はすぐに俺に向き直った。
一応対面はしているけれど、おそらくお互いに顔なんか見ていないと思う。

「告意」
「……はい」
「くれぐれも、あの駄犬を私に近づけないでね」
「……『あの駄犬』って、青葉のこと?」
「わかっているでしょ」
「……わかってるよ」
「じゃ、頼んだわよ。いろいろと」

 そう言うなり譲香は俺を置いてさっさと立ち去ってしまった。彼女の背中が完全に見えなくなったのを
確認してから、ふうとため息を吐いた。

「……息が詰まる……」

(2/3)

 絶望告知会の翌日から、青葉を引き連れて実際の業務に励むことになった。憂鬱な俺とは裏腹に、
青葉は『わくわく』や『そわそわ』などといった擬音が実際に身体から出ているんじゃないかと
思うほどにこれからの仕事に期待して思いを馳せているらしい。つまり、特に何か口に出して
しゃべっているわけではないけど存在がうるさかった。

「まずは挨拶回りだな」
「挨拶回り……。どちらで行うんですか?」
「どちらって、取引先のところに決まってるだろ。まあ、せいぜい近郊までだけど」
「あ、僕たちが行くんですね」
「そりゃあそうだろう。『新人の青葉答慈をよろしくお願いします』っていうこっちの都合で
挨拶するんだから」
「いえ、てっきりネット上で行うものかと」
「あー、確かに最初から最後まで取引はオンラインのみで行うって会社も多いけど、
ウチは『できる限り対面で』っていうのがこだわりだから」
「メリットは何でしょうね? 対面の方がいろいろとコストがかかる気がします」
「俺が思う利点は、『共感を作りやすい』ってところかな」
「共感を作るのですか?」
「例えば……そうだな」

 俺は自分の携帯端末を操作して、今日の全国の天気図を表示した。

「関東は晴れだろ? でも、九州は雨。気温も各地で全然違う。だから、『今日はいい天気ですね』とか
『今日は暖かいですね』とか、いる場所によってはそういう気候による感覚の共有はしにくいわけ」
「そういう雑談って、お仕事に必要なんですか?」
「雑談を舐めちゃいけない。『今日は暖かいですね』っていう話が出たら『やっと暖かくなってきたから
ビアガーデンで飲みたいですね』って話題になるだろ?」
「なるんですか?」
「なるんだよ。そうしたら『次回の展示イベントはガーデンパーティ形式なんていいかも知れないですね』
とか、仕事につながるアイデアが生まれたりするんだ」
「なるほど」
「いくら技術が進化したって通信の遅延はゼロにはならないし、視覚や聴覚は共有できても
それ以外はなかなかそうはいかない。感覚を共有するって点では実際に会うのが一番いいんだよ。
感覚を共有して共感するっていう積み重ねが好感につながるし、それで信頼してもらえたらその分
先方の意見や要望を引き出しやすくなる。だからどんな些細で陳腐な話題でも――」

 そこまで話してはっと我に返った。おとなしく謹聴されるものだから話しているうちに
気持ちよくなってついべらべらと持論を展開してしまって、いつの間にか目の前の青葉が
目をぱちくりさせてぽかんとしている。――しまった。感情にまかせてしゃべった結果要領を
得ない話になってしまったか。

「わ、悪い。わかりにくかったな。つまりは」
「いえ、よくわかりましたよ。お互いを好きになって気持ちがわかるチャンスがもっと増えるから
直接会って話す方が良くて、それが相手の考えを引き出すためってことなら、つまりお仕事で大事なのは
『相手の話をよく聞く』――ってことですかね?」

 今度は俺がぽかんとしてしまった。先ほどの散漫で回りくどい説明から一番言いたかったことを
ずばりと言い当てられたからだ。青葉は嬉しそうににこにこしている。

「――そう。営業の仕事で一番大事なのは聞くこと。広告主の希望と弊社の提供できる力をすり合わせて
繋げてひとつの『広告』を世に送り出すまで導くのが仕事の大部分で醍醐味だからね」
「はい、覚えました! ……それにしてもびっくりしました。先輩、僕がまともに話せるようになるまで
優しくしないっておっしゃってたのにとっても優しいから」
「……これまでのやりとりのどこに優しさがあった?」
「たくさんご自分の考えをお話ししてくださいましたので! 教えることは優しいことです」
「そうかあ? ……よくわからんが」

 確かに青葉の話すことも考えていることもよくわからないのだが、愛想はいいし礼儀正しいし、
何より『聞く力』がすでに高い水準で備わっているようなのだ。良い点だけ取り上げればまさしく
営業としてやっていくのに適性があると言えるだろう。俺はどうにかこうにかしてこいつの面倒を
見てやろうという気になった。素直に彼の『才能』に敬服して伸ばしてやりたいと思うし、
そもそも彼の教育を任されたのは俺なのだ。もちろん一筋縄ではいかないだろうが……彼が人一倍
『個性的』であることを差し引いても、まだ社会人になりたてなのだから一人前になるまでに
それなりの時間と経験が必要だ。未熟故にときには人に迷惑をかけたり大きな損失を生んでしまったり
することもある。俺だってそうだった。そこから反省して、次に失敗しないための案を練って、実行する。
トライアンドエラーを繰り返して、人は成長するのだ。ある程度一人で仕事が出来るようになると、
そういうこと、忘れてしまうなあ。
 ――今一度勉強し直すつもりで、こいつと向き合ってみよう。そう決心してきっと青葉の瞳を見つめると、
彼は不思議そうに首をかしげ少しの間制止した後、唐突に合点がいったような顔をして姿勢を正し
大きな声で「頑張ります!」と俺に投げかけた。少々それに気圧されつつ、俺は「いい返事だ」と
返して彼を引き連れて会社から出かけていった。

「こんなにいいお天気の日に外に出られるなんて嬉しいですねえ! お日様がぴかぴかです!」
「遊びに行くんじゃないんだからな……」

 俺が運転する社用車に乗って、都内の特にお得意様のところへ向かう。十カ所程度にご挨拶に伺う予定だ。

「いいか、今日のお前の仕事は『元気よく自分の名前を言う』、それだけだ。当たり障りのない挨拶をして、間違っても張り切って自己紹介しようとするんじゃねえぞ」
「承知しました! 僕がまだまともなことを話せないからですね!」
「そうだ。会社の人間と比べたらクライアントとやりとりする機会は限られるからな。
悪いイメージがつくと良くない」
「そうですよね。やっぱり、第一印象って大事ですよね……」

 青葉は言いつけ通り、先方に元気よく当たり障りのない自己紹介をした。「オウバイに気持ちのいい
好青年がやってきた」と大変好感触だったように思う。なるほど、こちらがしっかり手綱を握っておけば、
暴走することはない。俺は満足した。
 帰路の車中で気分良くアクセルを踏む俺とは裏腹に、青葉は何だか浮かない顔をしていた。道中はやれ
「見たことのないケーキ屋さんがある」だの「綺麗なお花がたくさん咲いている」だの目に入った景色を
いちいち口にするので騒々しく、俺が「黙れ」と言うまで黙らなかったのに、今は自発的に沈黙している。
一体どうしたことか。

「……青葉、疲れたか?」
「あ、いえ。大丈夫です。少し考え事をしていました。――どうしたらきちんと話せるようになるのかなって」
「ほお」
「やっぱり僕だってしゃべりたいですよ」
「お前はしゃべってないと息が出来ない人種っぽいからなあ。ずっと泳いでいないと死ぬマグロみたいに」
「マグロさん?」
(魚にまで敬称をつけるのかお前は)
「マグロさんを食べれば、話が上手くなりますか? 先輩はマグロさんを食べたから話が上手に
なったんですか?」
「マグロさんマグロさんうっせえな。マグロは話の上手さに関係しない、っていうか、俺そんな
話上手くないだろ」
「でも! 今日の先輩は向こうの会社の方々と何やら難しい話をしていてかっこよかったですよ。
メガ……何とかがどうで『さすが桜庭くんは目の付け所が違うね』とか褒められていたじゃないですか!」
「ああ、メガエージェンシーの話ね。そんな応用編みたいな知識は、基礎も満足に出来ていないお前は
まだ知らんでいいし、ああいう褒めは単なるリップサービスだ。そんなことより、お前の話にはもっと
シンプルで重要な情報が欠落しがちだから、まずはそれをどうにかすべきだ。その前に質問なんだが」
「はい。……あの、これは大事な話ですよね」
「ん、まあそうだな」
「それならちゃんと落ち着いてお話が聞きたいです」
「ああ、いい心がけじゃないか。じゃあちょっとどこかで休憩……あ、そうだ、今日まだ昼休憩取って
なかったか。悪い、俺いつもあんま休憩取らないから忘れてたわ」
「いえ、僕は大丈夫ですけど……先輩は大丈夫なんですか」

 いきなり青葉の声に切実な心配の色が帯びるものだから、俺は思わず一瞬だけ彼の顔を見やってしまった。
本当にちらりとしか見ていないけれど明らかに深刻そうな顔をしていて、それを真に受けた俺は正直戸惑いを
覚え、両の手のひらが汗ばんでいく。今後の自身の境遇を案じてのことなのか、それとも純粋に俺を心配して
のことなのかは定かではないが、突き刺さる視線に心の内を見抜かれていて心臓を不躾になでられているか
如くの気味の悪さを覚えた。

「……仕方ないんだ。昼飯も満足に食えないほど忙しいことも多々あるから。お前も覚悟しとけよ」
「……そうですか」

 明らかにもっと何か言いたげな声音だったが、青葉は俺から視線を外した。ひとまず解放されたので、
多少気持ちが和らいだ。

「――で、飯はどうする? どこか店でも入るか」
「あ、いえ、お弁当がありますので」
「そうか。じゃ、公園とかでもいい?」
「はい」

 それならばと、もう少しだけ車を走らせてコインパーキングに停めて俺御用達の自然公園に行くことに
した。ここまで来たなら会社に戻ってもいいのだけれど、確実に部長に「新人をこんな時間まで
休ませないとは何事だ」とどやされる。……事実は事実だが、回避可能な叱責なら出来るだけ避けたいのが
人の心というものだ。
 この公園は入園料がかかるものの、「ゆったりと過ごす」と言う点においては他の行楽施設や
飲食店などに比べたらずいぶんと安上がりだし何でもない平日で今ぐらいの閉園も近い時間帯なら
園内にいる人も少ない。それだけでも十分俺が足繁く通う理由になるのだが、広大で多種多様な庭園が
更にここを気に入る要因になっていた。
 西洋庭園と日本庭園が組み合わされた緑あふれる敷地をぼんやり歩くだけで頭の中にたくさんある
重荷を一時的にその場に置いておけるような感じがして脳みそと気分が軽くなる。その重荷を
どうにも出来ないからそういう時間が俺には必要で、それが出来るのは唯一ここを歩くときだけだった。
 園内は春も後半戦ということで花が咲き乱れている。昔はここにも愛でる花の代表格とも言える
桜の木がたくさんあって花見客が押し寄せていたらしいけれど、それも遠い過去の話。
 桜、特にメジャーで数も最も多かった品種のソメイヨシノというのは挿し木で増やす方法がほとんどで、
すなわち存在していた木々は同じ遺伝子を持っていた。そういうわけで同じ条件下であれば一斉に
花開くらしい。隆盛のタイミングが一緒なら、衰退のタイミングも一緒であった。疫病のせいとか
土壌の性質変化のせいとか単なる寿命とかいろいろ言われているが、存在していた樹木があるときから
一斉に花をつけなくなり、やがて枯れ果ててしまった。ソメイヨシノはもとより他の品種でも新たに
木を育てようにも上手くいかないらしく、一部の限られた品種と場所を残して桜の木は人々の前から
姿を消した。他にも絶滅危機にある植物がいくつもあるから何も桜だけというわけではないけど、
日本人にとって古来よりなじみのある桜が気軽に見られなくなってしまったことに人々は
悲しみに暮れた……のは最初のうちで、例えば「桜を愛でるイベント」であった花見は今や花だったら
何でも良くて特に春でなくてはならないという縛りもない、大変緩いものになってしまった。
まあ、桜が鑑賞の名物になる前は梅の花が花見の対象だったらしいし、結局どんちゃん騒ぎが出来るなら
別に何だっていいのだ。この世に替えの利かないものなど何一つ存在しない。

「……素敵なバラですね。桜庭さんがこんな綺麗な花が咲いている場所を知っているなんて意外です」
「失礼だな。俺だって花くらい愛でるわ」
「さっき『花なんてどこにでも咲いてる。どうでもいいだろ』って言ってたじゃないですか」
「……そうだっけ」
「どこにでも咲いていないんですよ、もう」

 青葉はまた奥歯に何か挟まったような感じを醸し出していたが、俺は無視をすることにした。
余計なことに時間を割くわけにはいかない。

「……ほら、さっさと座った座った」

 そばにあったベンチを指し示すと、青葉はおとなしく座り持参した弁当を広げ始めた。
人が食べるものをじろじろ眺めるのは卑しいのでそんなに見るつもりはなかったのに、
その弁当がやたら豪華だったせいでなかなか視線が外せなかった。まず二段重ねだし、
A5サイズの本ぐらいでかいし、中身も冷凍食品を温めて入れただけ、なんて手抜きなものではなくて
ハンバーグのトマト煮込みとかインゲンのごま和えとか、手の込んでいそうなものが彩りよく
7~8種類は入っているようだった。主食であるご飯も具のたっぷり入った炊き込みご飯か
おこわのようで……総合してシンプルに言えば、とてもおいしそうだった。

「桜庭さん? ……よろしければ、召し上がりますか?」

 結局かなりの時間凝視してしまったせいで彼の弁当を見ていたことがばれたし、どうやら食べたそうに
しているように見えたらしい。とっさに顔を勢いよく背けてしまったが時すでに遅しであるし
逆に後ろめたさを演出する有様である。とりあえず発言だけでも体裁は整えておこうと思って、
努めて落ち着いて弁明した。

「悪い、別に欲しくて見てたわけじゃないんだ。ただ、手作り弁当っていうのが珍しかったから……」

 嘘は言っていない。実際、お手製の弁当なんて代物を口にしたことなど、人生で一度でもあったか
どうかも疑わしい程度には俺にとって縁遠い存在だった。

「そうですか? でも、桜庭さん、そんなので足りるんですか?」

 知らず知らずのうちに握りしめていて少し潰れてしまった俺の右手のホイップあんパンを見て、
青葉が怪訝そうに言った。どういうつもりで言っているのかは知らないが、それを受けて少しだけ腹が立ち、
そして悲しくなった。

「いいんだよ、俺はこれで十分だ。そんなに食べる方じゃないんだよ。……そんなことより、
さっきの話の続きだな。お前に口頭で上手く説明できる一つの術を教えてやる」
「はい、是非」
「で、その前に質問。どうしてお前は部長が『青葉くんともう親交があるの?』と俺に聞いたときに
『自分のために着ているものをわざわざ脱いでくれた』って言ったんだ?」
「えっと……僕がいかに先輩にお世話になったかということを説明しようと思いまして」
「だけど別に俺がただ単に衣服を脱いだだけでお前が助かったわけではないだろ? 
『入社式の前に会社の休憩スペースで俺が青葉の不適切な格好を緩和するために自分のセーターを
脱いで貸した』からだよな? 何で『脱いでくれた』ってところにわざわざフォーカスした?」
「それは、僕のためにわざわざ脱いでくださったことで結果的に先輩の体調を悪くさせてしまって、
それで余計申し訳なさと感謝を感じていて、それはしっかり表現したいと思って……」
「つまりそれはお前の感情だよな。さっきお前は『お世話になったことを説明しようとした』って
言ったんだから部長が『意見』じゃなくて『情報』を求めていたってことはわかってるんだよな?」
「わ、わかってると思います」
「お前は『伝えたい』って気持ちが先行しすぎなんだよ。情報を聞かれているのであれば、
きっちり起きたことだけを説明する。意見はそのあと。というか、ぶっちゃけ必要ない。
でも、お前はおそらく意見と情報の区別がついていない」
「はい……」
「そこで、5W1Hだ」
「ごだぶりゅーいちえいちって、英語の授業で聞いたことありますね? え、英語で説明しろって
おっしゃるんですか……!? 余計無理ですよ!」
「確かに中学校の英語の授業とかでも関係副詞の説明をするときに使われることもあるな。
英語の関係副詞の頭文字から作られた用語ではあるけど、別にその英単語を使えなきゃいけない
わけじゃない。いやまあ一般教養だから単語それ自体は覚えておくべきだけど」
「か、かんけいふくし、とか、よくわからない専門用語使うの止めてくださいよ! 
僕本当に英語が出来ないんです」
「あー悪い悪い。つまり物事を説明するときに『いつ』『どこで』『誰が』『なぜ』『何を』『どのように』
の6つの要素を踏まえて話せば、きちんと相手に情報が伝わるってわけ」
「うーん……? 難しいですね」
「さっき俺が言った『入社式の前に、会社の休憩スペースで、俺が、青葉の不適切な格好を緩和するために、
自分のセーターを、脱いで貸した』っていうのが、5W1Hに基づいているんだけど」
「あ……あー、何となくわかりました。順番に組み立てていかないといけないんですね」
「いきなりは出来るようにならないから、練習だな。最低限これが出来れば、とんちんかんな発言で
場が凍り付くこともなくなるだろう」
「なるほど……覚えました! 先輩はやっぱり優しいしすごいですね! 僕の知らないことを教えて
くださるから」
「いや……別にすごくはない。ビジネスの基本中の基本なんだがなあ……」

 ――などと言いつつ、心中は相当に気分が良かった。俺の長ったらしい話も熱心に聞いてくれ、
手放しで喜んで褒め称えてくれる。社会人になって「そのようなこと」は多々あったけれど、今のように
「本当にそうである」と感じたことは今までになかった。――青葉になら、心を開いてもいい気さえしてくる。
さぞ肝を煎ることだろうと思っていたが、想像よりもこいつにものを教えるというのはやさしいこと
なのかも知れない。

(3/3)

「よう桜庭、手のかかる新人のお守りご苦労さん」

 帰社するなり、同期の社員が声をかけてきた。こいつは俺に話しかけるときいつも小馬鹿に
したような態度をしており、今のも純粋な嫌みであることはわかりきっている。

「新人教育も勉強になりますよ」

 いつもならいらだちを覚えて眉間にしわを寄せるところだが、今日の俺には余裕があるので
微笑みをたたえながら鼻で笑い返してやった。

「さ、青葉。業務報告書の書き方を教えてやるからこっちに来い」
「……はい!」

 俺とインゲン眼鏡(先ほどのくそったれの心の中でのあだ名である)がいがみ合っている間、
部署の入り口でおとなしくいたたまれない様子で『待て』をしていた青葉に声をかける。
忠犬よろしく嬉しそうな様子で駆け寄ってきた。

「これが書式フォーマット。テンプレートは部署のクラウドにあるからそこからダウンロードしといて。
今日は俺が書くから、それの内容確認して、次からの参考にして」
「毎日書かないといけないんですか?」
「社内での業務の場合は、特別なことがない場合は大体省略する。仕事で使ったデバイスに情報が
記録されてるからね。でも外に出た場合は何してたかなんてわかんないから自己申告すんの」
「なるほど、了解です。……どうしてテンプレートを印刷してるんですか?」
「これから書くから」
「……もしかして、手書きなんですか?」
「そうだよ。デジタルだとコピペできちゃうし、『一日の業務報告くらいは自分の頭と手を動かして
書いて説明しろ』ってね。面倒くさいけど会社の方針だからしょうがない」
「……そうですか……」

 ジャケットの内ポケットからボールペンを取り出し、手早く書いていく。さらさらと引っかかりなく
なめらかに書けるので、低粘度インクのペンを好んでよく使う。何かの景品でもらったような、
気を遣っていないものを使っている人もたくさんいるけど、数百円出せばいいのが買えるんだから
ボールペンくらいにはお金を出した方がいいと思う。デジタルデバイスで記述する機会が圧倒的に
多いとしても、さっとメモを取ったり書類にサインしたりなど、いざというときに何かとお世話に
なることが少なくないのだから。

「じゃ、書けたから、目を通したら一番下の欄にサインして。それしたら、今日は終わり」
「は、はい。サインも手書きですか」
「もちろん」
「はい……。あの、ペンを貸していただいてもよろしいですか」
「いいけど、持ってないの? ボールペンくらい最低限持っとけよ」

 ペンを貸し青葉を席に座らせ、その脇ですべて終えるのを見ていた。やがて記載事項を読み終えたようで、
ペンを握りペン先を指定のところへ持って行ったが、そこでなぜか首をかしげて紙を凝視したまま静止
していた。書いてある内容が理解出来ないのならわかるが、なぜサインの段階でそんな反応をしているのか
わからなくて俺も首をかしげた。
それからまもなくして青葉はおぼつかない様子で文字を書き始めた。

「……ん? おい、ちょっと待て。お前は一体何を書いているんだ」
「え、サインですよ。名字を書けばいいんですよね」
「そうだけど……。……『青』の字、間違えてる」
「え? ……あ、あー……。……これは、ケアレスミスです!」
「自分の名字でケアレスミスするんじゃないよ。しかも小学一年生で習う漢字だし」
「だって、手書きで字を書くなんてこと、小学校の授業以外ではほとんどないじゃないですか!」

 確かに昨今の教育現場は利便性のために教科書も教材も文房具も……とにかくあるゆるものが
デジタルデバイスで提供されていて、アナログの筆記用具で文字を書くという行為を小学校の国語の
授業以外で経験しないまま成人する子どももいるということは聞いたことがあるが……。
まさかそのわかりやすい『見本』に出会うとは思わなかった。こんなの、明らかに現代の学校教育の
完全敗北じゃないか。あまりの衝撃に、
さっきまで心の中にあった青葉に対する好感みたいなものが、ため息とともにほとんど出て行ってしまった
ような感じがした。

「あ、でも僕、下の名前ならちゃんと書けますよ! 何か紙をいただけますか」
「ええ……」

 ファーストネームだけ書けても意味がないんだけど、とあきれながらも本当に書けるのか、それが
虚勢か否かを確かめてみたかったのでボールペンと一緒に持ち歩いているメモ帳のページを一枚ちぎって
渡した。書き上がったものを確かめると、なるほど正確に『答慈』と記されていた。
先ほどは気がつかなかったけれど、字をほとんど書いたことがないというわりには形がしっかり
整っていて大きくはっきりとした筆跡だなと感じた。

「この『慈しむ』っていう字の方が青より難しいと思うけど。よくわからんな」
「自分の名前は大事で大好きなので!」
「……そう」
「……あ! 僕、すごく大事なことに気がつきました!」
「自分がバカだってこと?」
「違いますよ。そういえば、まだ先輩のお名前を存じ上げていませんでした」
「桜庭」
「そっちは知ってます。下の方の」
「それは世界一必要のない情報だから、知らんでいい」
「どうしてですか。先輩、クライアントの方とのお話の方法として『感覚を共有して共感するっていう
積み重ねが好感につながるし、それで信頼してもらえたらその分先方の意見や要望を引き出しやすくなる』
っておっしゃってましたよね。その『感覚』って『情報』にも言えることなんじゃないですか? 
情報を分かち合って仲良くなったら、意見を引き出せることになりませんか?」
「まあ、確かにそれはそうかも知れないが、それと俺の名前を知ることと何の関係がある」

「先輩と仲良くなって、先輩の知識や考えをもっといただこうと思うので! そのためには先輩の基本的な
ことから知るのがいいと思ったんです。それに、名前で呼んだらそれだけで仲良しな感じするじゃない
ですか」
「え、俺のこと名前で呼ぶつもり? だったらなおさら嫌だ。断固断る」
「何でですか、教えてくださいよ」
「あーうるさいな。黙れ黙れ、もうこの話は終わりだ」
「嫌です! 僕は諦めませんよ!」
「大きい声を出すな、周りの人に迷惑だろう。何でそんな意味不明なところでだだをこねるんだよ……」

 俺の言葉通り、このフロアにいる俺たちを除く全員が「さっさとそいつを黙らせろ」と言わんばかりに
こちらを見ている。……仕方ない、教えるくらいは我慢してやるか。

「つぐいだよ。告意。字はこう」

ボールペンを奪い返して先ほどのメモの切れ端にやけくそで書き付けた。

「……告意さん」
「呼ぶな」
「もうちょっと仲良しになってからの方がいいですか?」
「仲良しになってもだめだ。次呼んだらしばくからな」
「そんな……。どうしてです」
「自分の名前が大嫌いだから」
「……素敵な名前だと思ってたくさん呼んでもらえたら、好きになるかも知れませんよ。僕は先輩のお名前、
とても素敵だと思います」
「……お前に何がわかるの」
「漢字の形は複雑なので書くのは難しいですけど、でも、意味はわかりますよ」
「……」

 たくさん呼んでもらえたら好きになるかも知れない、か。――好きとまでは行かなくても、
いい加減呼ばれても不機嫌になったり冷や汗をかいたり怯えたりしなくても済むようにはしなければ、とは
常々思っている。この『何も知らない』かつ『悪意を感じられない』青葉答慈という人間に日常的に
呼ばれるのが『減感作療法』としては適しているのではないだろうか。

「……まあ、いいや。名前で呼んでも。いくら断ってもずっとしつこく言ってきそうだし。でも、
クライアントと会社の上役の前では勘弁して」
「承知しました! じゃあ、僕のことも名前で呼んでくださいね!」
「は? それは無理」
「えー……。まあ、無理強いはしちゃだめですよね」
(さっきまで散々無理強いをしてきたくせに何を言っているんだこいつは)
「では、明日からもよろしくお願いしますね、告意さん!」

 こちらがいろいろなことで気をもんでいるというのにそれがくだらないとでも言うかのように
無邪気な顔で笑うなあ、と思った。本当に、不安なことは山ほどあるし明日からも更に積み重なって
いきそうだけど、それでも昨年度までよりは楽しくなるんじゃないか、なんて柄にもないことを考えながら
帰路についたのであった。

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