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『坂の上の思い出』

久保田ひかる


 今から大体2年ほど前の話だ。私は当時、関東の北の方に住んでいた。北関東は一部の中心地を除いて、暮らすのに便利な場所とは言い難い。しかしながら、大人にとっては不便というほどでもない。車にさえ乗れればそれで生きていける程度の地域だ。勿論私も大学を卒業し、地元に帰ってすぐに免許を取得した。車を乗り回して、無職同然のフリーター生活を満喫していた頃だった。

 そんな日々の中である。山代先生から電話があった。「自宅の蔵書を整理したいから手伝ってくれないか」私は二つ返事で引き受けた。この時から、週末のたびに長距離ドライブをするイベントがフリーター生活に加わった。


「おう、ひかるくん。よく来てくれた。」山代先生は昔と変わらない顔で出迎えてくれた。

 先生は神奈川県の南西の方に住んでいる。下道で4時間近くかかるから、私が早朝に車で群馬を出発しても到着するのは10時か11時にはなる。大抵の場合、先生は一人で作業を始めていた。だから出迎える時には決まって首から下げたタオルで額を拭いながらだ。秋めいてきた頃とは言え、動けばまだ暑かった。

 何故、山代先生が私に手伝いを頼むかと言えば、理由は二つあった。一つには、この好々爺じみた老人が、その本質に於いてはかなり難しい人間であり、孤独であるという事。山代先生のことを私は先生と呼ぶが、彼が先生だったのは過去の話だ。現在の先生は在野の研究者兼蒐集家であり、元は国文学を専門にしていたが、現在では民俗学に寄った研究を一人きりで行っている。先生が、大学での仕事も人生を捧げてきた研究も捨ててしまった理由には、最大の理解者の喪失があった。私が大学3回生だった春に、先生は奥さんを亡くしている。先生が現在行っている民俗学的研究は、奥さんの忘形見だった。

 そしてもう一つには、これは学生時代偶然に発覚したことだが、私と先生とはごく遠縁で親戚にあたる関係にあった。なんだかんだと先生から私的な頼み事をされるようになったのは多分その関係もあっただろうと私は見ている。


 黙々と書籍を運び、先生の屋敷の広々した和室と濡れ縁に虫干しに出し、ある程度時間の経った本を回収して系統ごとに分類する。こうして見ていると、自分の知らない領域の本が増え続けていることを感じる。横浜、鎌倉、大和、藤倉、茅ヶ崎、神奈川の地名が書かれた郷土史がいくつもいくつも出てくる。巻数が揃っているかきちんと確認しなければならない。それから、建築や住居に関する専門書に、地質学的な方面の書籍までいくつも出てくる。先生の研究は神奈川地域の土着の風俗なのだろうか、そんなことを考えた。

「じゃあ、ひかるくん。そろそろ休憩しようか」

山代先生が腰を叩きながら私を呼んだ。気がつけば、空は既に薄暗くなっている。今日もまた昼食を食べ損ねたことに気がついた。私も先生も、あまり昼食を摂る習慣がないのだが、やはり高齢の先生にはきちんと食べさせたい、と朝には思っているのだが。


「ひかるくんは、いつもここまで下道で来てるのかい?」先生は夕食を食べながら不意に尋ねた。

「そうですね。これを直接先生に言うのもどうかと思いますが、頂いている交通費から少しでも浮かそうと思って、ほら私フリーターの身ですし」

「いやいや、私が渡している金なんて君を呼びつけて働かせるには少ないくらいだ。気にしないでいい。下道でというと、どんなルートになるんだろうか」先生から渡されている報酬は、土日の丸二日で3万円。私の中古の軽自動車で往復するとガソリン代で約4千円程度経費で消えるので(ガソリンの価格が余りにも高すぎる)、日当で1万3千円程度といったところ。私の身には十分に割のいいバイトだ。

「そうですね。私もスマホのナビだよりであんまり正確には地名が分かりませんが、帰り道で言うと246に沿って東京方面に登って行って、311を通過して東京抜けて、それからは17号で埼玉県を突っ切って、って感じですかね。」私はスマホを片手に地図アプリをなぞって答えた。

「そうか、246号沿いに、途中でマナダという地名を見ないか?」

「マナダですか?どうでしょう、どう書きますか?」私は手元のスマホを叩きながら尋ねた。

「それがねえ、よく分からないんだ。——」


 先生の家に通い始めて、もう3ヶ月ほどが経っていた。この夜、私は始めて先生の研究の話を聞かされた。本人は世迷いごとだと言っていたが。


 翌日は、珍しく昼過ぎに作業を切り上げた。なんだかその日は、いつにも増して先生の顔色が悪いように見えた。疲れているのだろうか。

「じゃあ、ひかるくん。これいつも通り給料だ。多くはないが」青白い顔をした先生は居間の椅子に腰掛けたまま財布を広げて、裸のままの3万円を寄越した。

「ありがたく頂戴します」

「あとね、君にちょっと渡しておきたいものがあって、そこのファイルの束からマナダ史研究ってついてるのを抜き出してくれ」先生が指さしたのは、書籍整理には含まれていない最新の研究資料の山だった。私は言われるままにファイルを探す。

「ああ、これですか。マナダ史研究、クルンダボ?」表紙をはらりと捲ると副題が見えた。どうやら既にある程度成文化されているらしい。目を引いたのはその文字である。打ち出しではなく手書きであった。

「中身はやや複雑だからね。今読まずともいい。まあ、持っておいてくれ」

「これ、インクの様子的にコピーじゃなくて原本みたいですが私持っていってしまって大丈夫ですか?」

「ああ、とにかくそれを引き受けてくれ」先生の顔は朗らかに見えた。いつ返してくれと言われるか分からないが、まあその時にまた持ってくればいいかと、私は気軽に引き受けることにしてその日は先生の家を辞した。


***


 いつも帰り道は真っ暗だった。それが今日に限っては快晴の真っ昼間である。同じ道を走っているはずが、まるで違った景色に見える。

 大型のトラックと自分以外には殆ど車のいないような時間に帰宅することも多かったが、今日に限っては周囲を高級車や家族連れの乗ったSUVやミニバンが所狭しと固めている。神奈川から東京というルートを取っているのだ。混んでいて当たり前なのだが。

 昨晩先生から聞かされたマナダという地名について考えながら、流れに任せて車を転がす。

——「ウチの妻は死んだ事になっているが、実際には死んだんじゃないんだ。…失踪してね。ある日、『マナダかもしれない場所を見つけたから行ってくる』と言ったきりさ。家を空けることはね、たまにあったんだよ。妻はずっと探していたんだ。神奈川の各種文献に名前だけ登場する『マナダ』を。まあ、元々不安定なところのある人でもあったがね。もう彼女が消えてから4年が経つ。恐らくだが、これは私の願いとは違うんだが、彼女が戻って来ることはないと…思うんだ。

妻への愛、と呼べるほど純粋なものではないんだが、私は興味があってね。あの人が探し求めて消えてしまった場所に。」——

悪くないストーリーだ、私の正直な感想はそれだった。映画のCMだったら、多分劇場へ行くだろうと思う。加えて言えば、そんなに面白い映画にはならない気もする。

 先生の青白い顔を思い出していた頃、私は谷間を走っていた。神奈川には無数に坂がある。さらには小さな丘のような地形も無数にある。だから偶にはこんな風に、人間によって開発され尽くした谷間に遭遇する事もある。それは知っていたが、明るい中で見るその景色は圧巻だった。真っ直ぐに伸びたパステルカラーの道路に対して、両脇が少しずつ坂になって上がっていく。坂には階段を作るようにしてみっちりと新しく綺麗な家々が並んでいる。

「行ってみるか」そんな気分になって、右にウィンカーを出したのはやっぱり天気が良くて気分が良かったせいだろう。


 坂の上の目的地は、錯視のようだと感じる事がある。谷間の道を走っている間には、両脇の丘ないし坂はそそり立って迫り来るように近くにある。しかし、いざ坂の上へ向けて動き出すと、案外と距離がある。

 僕は真っ直ぐに10分ほど車を走らせ、積み木で出来た階段のような色合いの、住宅群の麓へと辿り着いた。住宅地は横一線に引かれた柵に覆われており、どうやら外界と切り離されているようだ。Uターンして下るには細い道だったので、柵に沿って左折することにした。どこかで下に降りる道があるだろうと思ったのだ。住宅地付近では、車はそうスピードを出せない。いつ自転車や歩行者、特に子供や老人が現れるかわかったものではないからだ。ゆるゆると車を転がしていると、柵にかかった大きな看板が目に入った。軽く塗装の剥げた白地の看板には、ポップで華美な装飾文字で「愛夛」と書かれていた。アイの後の文字を読めなかったが、私は人名と地名に関しては読めないものがあったとしても恥じない事にしている。例えば舎人なんて初見で読める方が異常じゃないかと思う。

 あとで調べてみるかと思いつつ、私は車外へ出て看板の「愛夛」をスマホのカメラに収めた。上を眺めると、やはり積み木階段の住宅群は壮観だった。しかし、なんだか下から見る印象と違うのが引っかかる。

谷間を走行しながら眺めた時には、ある種の童話世界のように見えたのだ。パステルカラーの家々がそれぞれに快晴の太陽に照らされてファンタジックな可愛らしさがあった。今こうして見上げてみると、黄色っぽい光の中で寂しい印象を受ける。少しの間観察して、それからやっと私は気づいた。違和感の原因は光でもスケールでもない。この住宅群の細部には人の気配がしなかった。

 まるで森か川の近くにでもいるような清潔な匂いがする。見える範囲の家々は全て薄暗く、住宅には何一つとして家以外のものがないのだ。洗濯物が干されている家もないし、庭に植木がある家もなければ自転車が停まっている家もなく、車なんか一台も停まっていない。無論、歩いている人間など見当たらない。


——ズズズ、と地鳴りがする——


驚いて音のした方へ目をやると、一軒の家が揺れていた。隣の家の壁にぶつからないギリギリのところまで傾いで、今度は反対に向かって身を揺する。揺れに従って、家は少しずつ浮き上がってくるのだ。前に立った家の屋根の高さを超えて浮き上がる家の玄関が見えた時、ずるりと勢いよく家が持ち上がった。家の下には、何本もの根のような物が生えている。いや、根というよりむしろ脚だ。泥汚れに塗れた青黒い殻を纏った多関節の脚。今や全体像を表したそれは、まるで家を殻の如く背負った巨大なヤドカリか蜘蛛のようにも見える。それは大きく脚を伸ばし、それから坐禅を組み直すようにして再び沈んでいった。

 最後にズズズと音を立てて、また世界には静寂が帰ってきた。


 私は再び看板に目をやった。『愛夛』、マナ…タ?マナダ?と読めるのだろうか。


——キイイ、と金属音がする——


音のした方へ目をやると、柵の一部がこちらに向けて開かれていた。私はしばらく悩んだ後、車に戻りエンジンをかけた。

私の運転する車は、開かれた入り口から「愛夛」へと入って行った。狭い道である。この道も切り返しが出来るかは怪しいが、車を置いていくには元いた道は狭すぎる。そう頻繁に車が通るような道にも見えないが、いつ来るか分からない車にクラクションを鳴らされることを心配し続けるのは嫌だった。それに、車中にいるということは少しだけ心強くもあった。動く鉄塊は私の移動要塞のように思えた。

一軒一軒の家をじっくりと観察するようにして徐行で進んでいく。やはりどの家も真っ暗で人の気配がしなかった。家の外観は相応に汚れ、時の流れを思わせる。だからこそ遠目には何も違和感がなかった。しかし、よくよく観察してみればこの町は異常と言わざるを得なかった。

とろとろと動いていた私の移動要塞は、ついに例の立ち上がった家がはっきりと見える位置まで進んできた。私はドアポケットに置いてあったハイライトとジッポライターを取り出して、一本のタバコに火をつける。いつもなら窓を開けるが、今はそれが躊躇われた。車内はすぐに白い煙でもうもうとする。眼前の化け物館を睨むようにしながら、主流煙だか副流煙だか分からない煙を吸い込んで咳き込んだ。普段は気づいたら根元近くまで燃え尽きるタバコが今はじりじりと焦れったく感じた。一本吸いきってからのつもりでいたが、半分ほど吸ったところで私はハンドルに手をかけた。

柔らかくアクセルに足を乗せると、車はゆるゆると動き出し、そして例の家の横まで前進した。私は最後に強めに煙を吸い込んで、それからドリンクホルダーに挿してある灰皿を開けてタバコを消した。車内から出る覚悟を固めた私は、その前に煙を外に出そうと窓を一気に開いた。白い煙は開く窓から外へとスルスル抜けていく。


——ゴホゴホと誰かが咳き込む音がする。——


驚いて音のした方に目を向けると、家と目が合った。私は思わずひいと情けない悲鳴をあげてしまった。

「ちょっと、マナダは路上喫煙禁止ですよ?」家が言った。私に向かって巨大な顔が注意してきた。家の外壁に、人の顔が浮き上がっていた。その顔は私の背丈ほどもあり、まるで巨大なお面を壁に貼り付けたようだ。しかし、顔は咳き込むに合わせて揺れ動き、壁と顔の関係は丁度背泳ぎをしている人間の顔と水面のそれのように見えた。

「聞いてます?」家は尚も私に語りかける。

「あ、ごめんなさい」

「謝罪をするのに車内で座ったままなんて失礼だとおもいません?」

「あ、はい、すみません」私はおろおろしながら車外へと出た。足腰の力が抜けていたらしく、一歩目を踏み出す時に転びかけた。

「まあいいわ。こっち来なさい」

 私はおずおずと家に近寄った。巨大な顔は、叱りすぎたと感じている母親のように柔和な顔を見せている。

「もう少しこっち寄って」

奇怪な顔に言われるままに、私は敷居を跨いだ。顔を真正面から見直して、初めて私はそれがどうやら女性らしいという事に気がついた。キツネのような目をした、細面だった。

 途端に、顔が突然大きく裂けた。


 私が顔に飲み込まれたのだと理解するのは、家の中へと吐き出されてからだった。

 スイッチ操作のように切り替わった視界には、やや古臭い部屋が広がっていた。壁は黄ばみ、手前の板張りの床はところどころ禿げ、開け放たれた襖の奥の和室の畳もやはり禿げ散らかしている。しかしやはり部屋の内にも家具と呼べるようなものはなかった。家のガワだけがあって、人の気配はしなかった。

「よいしょ」背後から顔の声がした。振り返ると、家の内側の壁に例の巨大な顔が移動していた。そのまま壁の表面を泳ぐようにして、私の真正面へと移動する。顔は私の足元へに向けて、プッと何かを吐き出した。それは先まで履いていたVansのスニーカーである。見れば私は裸足だった。

「土足厳禁だから、脱いでもらいましたよ」私は「はあ」と間の抜けた返事をした。

「あの、あなたは、一体何者なのでしょう?」

「相手に名前を聞くときはまず、と言いませんか?」顔の言うことは常に最もである。

「私は久保田ひかると言います。フリーターで、…それから人間です。」

「ひかるさんね。私たちはクルンダボです。人間ではありませんが、あなたたちの言葉には私たちを表す語がありません。強いて言えば館、或いは怪異」

「クルンダボ…クルンダボですね。“私たち”と言うのはどう言うことでしょう?」

「そのままです。クルンダボとは種の名前であり、私たちはあなたたちのように個体を識別する名を持ちません。」

「種、と言うことはやはりこの住宅街は全て、あなたのような存在ということでしょうか?」

「それだけではありませんよ。ほら、足元をご覧なさい。」


——カサカサと何かが蠢いている音がする——


 足元を、無数の小さな家が這い回っていた。妙な表現だと思う。しかし、ミニチュアのような可愛らしい家が無数に歩き回っていたのだ。それらには勿論、あの蟹か海老のような足が生えている。複数の足で器用に細かく動き回る様子に、私は鳥肌を立てた。

「あの、クルンダボさん。申し訳ありませんでした。路上喫煙のこと。申し訳ありません、許していただけないでしょうか、急いで帰らねばいけないんです」慌てて頭を下げながら言った。会話の成り立ちそうな顔に謝罪して、さっさと帰りたかった。目をきゅっと瞑って頭を下げたままの姿勢でいると、クルンダボの笑い声が聞こえてきた。アハハハハ、と始まったところにキャハハハハと被さったと思ったら、ギャハギャハとケタケタとゲラゲラと、いくつも幾つも無数の笑い声が重なって、そして私はあのカサカサという不快な音の静まっていることに気がついた。

 ごくりと生唾を飲んで目を開けると、眼下の小さなクルンダボたちは全て静止していた。

 ゆっくりと顔を上げると、壁一面に顔が張り付いていた。大きな女性の顔を中心に、無数の幼い顔がいくつも幾つも並び、その全てが大口を開けて笑っていた。鳥肌と言うにはあまりに悍ましい何かが背筋を走り抜けるのが分かった。

 ふっと、この全てが真顔に変わる。

「一度怪物に飲み込まれて無事に帰れるとでも?」女の顔が言う。私は最早答えることすら出来ない。喉が張り付いていた。黙り込む私を、無数の目がしなさだめするように舐め回す。

「…あら、あなた面白そうなもの持ってるじゃない。」目は私の右手の辺りを見ていた。その時になって、私は自分がカバンを持っている事に気がついた。持って降りた記憶はなかったが助かったと思った。

「これ!…で良ければ差し上げます。」無理やり絞り出した声は一瞬ボリュームのつまみが壊れたようになってしまった。

「そのカバンの中に言葉があるわね。それ美味しそうね」

 顔の言っている意味が分からず、私はカバンを漁った。一瞬スマートフォンの事かと思い、取り出して見せたが、全ての顔が左右に振られた。違うらしい。

「そのカバンの中にある言葉よ。」もしかして、と思いながら取り出したのは山代先生の研究ファイルだった。

「そうよそれ、それ置いて行きなさい。」この時初めて顔たちの統率が崩れた。女の顔は嬉々としているが、小さな顔たちは女の顔を睨んだように見えた。私はしばしの逡巡の後、床に先生のファイルを置いた。

「それで良いわ。」そう言うと巨大な女の顔は小さな顔たちを睨み回した。途端に小さな顔たちは壁を滑り落ちてそれぞれの体へと帰り、文字通り蜘蛛の子を散らしたようにどこかへ消えてしまった。

 女の顔は再び滑るようにして私の背後へと回り、一息に私を飲み込んだ。


 気づけば私は家に背を向ける形で外へ出ていた。慌ててカバンから鍵を引っ張り出し、車へと駆け込んだ。

 なんとかUターンで切り返そうと狭い道で前進し始めた時、ズズズっと地鳴りのような音がした。情けない声を出しながら周囲を見回すと、再び巨大な蟹足を覗かせて起き上がっている家があった。私は、私の移動要塞ごと無力にも蟹足に掴まれて宙に浮いて、それから前後を180度反転させて下ろされた。

 震える手足を必死で抑えながら、私は車を発進させ、愛夛の外へと駆け抜けた。


——ガシャンッと柵の閉まる音がした——


***


 私はこの日それから、どのようにして帰ったかあまり覚えていない。けれど、余りにも興奮した神経のせいで途中で休憩することすら出来なかった事だけは記憶している。クルンダボも恐ろしかったが、今振り返ってみるとあんな精神状態で3時間以上も運転していた事もなかなかに恐ろしい事だと思う。

 あれからしばらくの間、私はトラウマによって車に乗ることが出来なくなった。しかし、大きく困ることはなかった。山代先生には帰宅から数日の間に経緯を記したメールを送ったのだが、呼び出されることもなかった。


 3ヶ月が過ぎた頃、私の元へと一本の連絡が届いた。山代先生が失踪したのだと言う。驚きはなかったように思う。それでも私は、電車を乗り継いで山代先生の家へ行ってみることにした。何が出来るでもないが、本当にいないのだと確かめておきたかった。

 電車は車より遥かに速かったが、駅から先生の家は20分ほど歩く事になった。勿論タクシーに乗るような金はなかった。季節は秋を経て冬に変わっている。コートの襟を掻き寄せて歩いた。

 外から見た山代先生の家からは人の気配はしなかった。家の裏手に回り、エアコンの室外機の下から錆びた茶筒に入れられた勝手口の鍵を引っ張り出す。この鍵の在処は昔に先生から教わった。

家の中は、真っさらだった。あんなに山のようにあった書籍も研究資料も、先生とその奥様が何十年か暮らしていた痕跡のようなものは全て消え去っていた。ただ一つを除いて。

玄関の備え付けの靴棚に一枚の写真が取り残されていた。

クルーザーの上で、ライフジャケットを着た男女が左手を掲げている写真だ。男は女の肩を抱いていて、二人の薬指に指輪が光っていることを見るに新婚旅行か何かだろうか。

男はまだ若いが山代先生の面影があった。隣の女はキツネのような目をした細面で、無邪気な笑顔が素敵に見えた。


***


 このエッセイを書いている今日の日、私は偶然に神奈川まで車で出かける用事があった。明るい時間に帰ってきたのだが、あの日見た愛夛の町は発見できなかった。

 果たして山代先生は、何をどこまで突き止めていたのだろうか。全てが偶然だったのか、計算尽くだったのか、或いは私の妄想か。仮に計算だとしたら何故私を仲介させたのだろうか。先生も研究資料も消えてしまった今、確かめる術が残っていない事が私には少し寂しい気がするのだ。







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