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オートフィクション(2014)

はじめて彼女に会ったのは大学の入学式でのことだった。視線が彼女を追いかけていくのを止めることができなかった。斜めに歪んだ針金のような体、襟足を刈り込んだショートカットから伸びる首、化粧っけのない白い顔。女子の出席番号に並んでいるにもかかわらず、彼女はどう見ても少年だった。式後のオリエンテーションで自己紹介をした彼女が自分のことを「ぼく」と呼んでいるのを聞いた。

学生生活がはじまりみんなが群れを組んでいく中、彼女はひとり先生の目の前の席を陣取って熱心に授業を聞き、休み時間が来るとどこかへ消えてしまった。
私はそんな彼女のことが気になって仕方がなかった。

ある日の放課後、クラスの女子数人で飲みに行こうということになった。誰かが彼女にも声をかけた。新歓の時に先輩がレクチャーしてくれた、居酒屋、カラオケ、ラーメンの定番コースを辿りながら(田舎の大学なのでそれしかない)、わたしたちはよく話し、よく笑い、夜が深まる頃にはかなり打ち解けていて、なんとなく帰り難くなった友人たちがわたしのアパートに来ることになった。その中に彼女も混じっていた。

盛り上がった話しに一段階がつき、夜が更けていく。ひとりまたひとりと寝息をたてはじめ、いつの間にか起きているのはお酒が飲めない私と彼女だけになった。取り残された私たちは唯一空席だったベットの上に並び、壁にもたれて座った。
彼女にはお見通しだったのかもしれない。
「僕がどうしてこうなのか、君は不思議に思っているだと思うんだけど」と、静かに話しはじめた。

体の性別と、認識している自分の性別が一致していないと彼女が気づいたのは物心がついた頃だったそうだ。お母さんが買ってきた真っ赤なスカートに激しい違和感を覚えたことが彼女の最初の記憶だった。彼女の一人称が「ぼく」なのも、少年のような口ぶりで話すのも、単純に彼女の心が男性だからだった。男装趣味じゃなかったんだ、そう思った。
マイノリティである彼女の物語りへの驚きはなかった。それよりもわたしが心を揺さぶられたのは「男性でも女性でもないわたし」という曖昧な性別を背負っている彼女が、その身を切るような思いとどうやって向き合ってきたのかということだった。
夜明け前、寝ぼけ眼の友人たちが帰って行くのを見送ってから、わたしたちは過去のことや友人のこと、授業のこと、19歳の目線から見えていた世界について何時間も話した。彼女はひとつひとつの言葉を肯定するようにゆっくり話す。自分と良く似た言葉を使う人だと思った。
気づけば薄暗かった部屋が灰色の輪郭を帯びていた。不意に彼女の顔が近づいてくる。興味の赴くまま、わたしは目を閉じた。彼女の手が私のほっぺたをさわる。つめたい。彼女のくちびるはうすっぺらくて、端っこがきゅっと上がっていて、ひんやりしていた。こうやって話しをするまで、君になんの興味もなかった、だって君、頭からっぽそうなんだもん。額をくっつけたまま彼女が笑った。笑うと意地悪そうになる彼女の顔の凹凸が目の前にあった。女性でも男性でもない彼女は彼女いがいの誰でもなかった。そんなふうに誰かを認識しするのはあの瞬間が始めてのことだったように思う。
その日、彼女は帰らなかった。夕方すぎに起き出してスーパーへ行き、彼女が作ったカレーを食べ、手を繋いで映画をみてからまた一緒に眠った。朝方に目が覚めると彼女のかわりに手紙が残されていた。その日から永遠に繋がることができないわたしたちの関係がはじまった。

関係の仕掛けを明確に知るのは何年も後なのに、はじめて彼女を見た瞬間に何かを理解したような気持ちになった。あんなにも近づいたのに遠くなっていくことがわたしには不思議でならないかった。

最初に彼女と話した日から、わたしたちは同じような毎日を繰り返していた。同じ部屋から登校し、同じ部屋に帰ることがいつの間にか習慣になっていた。春から夏へと急速に季節が変わっていった。
彼女と過ごす時間は夢のように楽しかった。休みの日はふたりでどこへでもでかけた。映画に買い物、神社仏閣、南に下りて海。彼女がなにか気の利いた冗談を言い、わたしはそれを笑った。彼女と一緒に見る世界はなんだか完璧に見えた。わたしの言葉は彼女にしか通じないんだと思いはじめていた。
彼女の名前を呼ぶ音の微妙な響きでわたしの心の中が分かってしまうのかと思うほど、彼女の前にいるわたしは背骨や心臓まで透けて見える軟体動物みたいだった。わたしは何もかも見抜かれていることに安心して言葉を並べ立てた。返ってくる言葉はいつもわたしを楽にした。それが彼女のよく訓練された得意技のひとつだということが分かる頃には、彼女とわたしの関係は翳り始めていた。

彼女がいる生活に慣れきった夏の初めのある夜、なにかの会話の流れで彼女が自分のお母さんについて話し始めた。わたしたちはあんなにも沢山のことを語り合っていたのに、彼女がお母さんについて言葉にするのははじめてだった。わたしは彼女の言葉を一言も聞き逃さないように耳を傾けた。
彼女の実母は彼女が幼い頃に亡くなっていて、実母の妹にあたる人が彼女を育てることになった。彼女は叔母を、「お母さん」と呼び、二人で暮らしていた。お母さんは看護師をしながら彼女を育てていた。女手一つで働くお母さんのために彼女は一生懸命料理を作り、掃除洗濯をこなした。お母さんは孤独な人で、精神的に脆いところがあった。頻繁に不安定な気持ちになってはそれを彼女にぶつけた。彼女はそんなお母さんを宥め、話しに耳を傾けて、適切な言葉を用意し、お母さんの気持ちが楽になるように務めた。やがてお母さんは、あなたが居なければやっていけないよ、というような言葉を口にするようになった。
わたしは彼女の話しに相槌をうち続ける。
時が経つにつれてお母さんの彼女への依存は顕著になった。彼女に無理な我儘を言い、彼女の行動を拘束するようになったが、彼女はそれを必要とされているということだと理解し、快く従った。中学校に上がる頃、彼女はお母さんに重大な秘密を打ち明けた。それをきっかけに彼女とお母さんの関係は急変した。と、いうよりもそれまでにもそうだったものが表面に溢れ出てきてしまった。
二人の間にあったものは言葉では言い表せない性質のもので、彼女がにはじめて恋人ができた時、あまりにもその関係がお母さんとの間にあるものと似ていることに気づいて愕然とした。同時にお母さんに対する猛烈な感情がわいてきた。
彼女は遠くの大学に進学を決め、逃れるように実家を離れることにした。
「僕は僕が居なければ死んでしまうほどに誰かに必要とされて居なければ、自分なんて存在する意味がないと思っているんだ」
そう言ってうつむく彼女にかける言葉が見つからなかった。呪いだと思った。遠く離れた彼女を今でも縛り続ける強いのろい。
はじめて彼女の精神構造に触れた気がした。年齢のわりに不自然すぎる包容力や、色っぽさの理由が悲しくなるくらいに理解できた。
時間が目の前を浮遊して行く。わたしは彼女の家で彼女の帰りを待っていた時のことを思い出していた。早く顔を見たい気持ちとなんだかよくわからない不安な気持ちがとが入り混じって、誰かを待つ時間はこんなにも覚束ない不安定なものなのだと思った。彼女の部屋にあった本を読みながら、本当のところここはどこなんだろうと思っていた。よく知っている場所のはずなのにまったく知らない場所に迷い込んだような、部屋はまったく他人行儀な顔をしていた。チャイムが鳴りドアが開き彼女の顔が見えると、途端にわたしは安心して悪い妄想を反省した。
真実はどこにあったのだろう。彼女のことなんか、何一つ知ってはいなかったのだという事実を突きつけられていた。

わたしたちはそれから何回も話したが、話し合って解決できる類いの問題ではないことをお互いが了承していた。空虚な話し合いだった。わたしは彼女がわたしに何を求めていたのかをはっきりと理解してしまった。彼女もきっとそうだっただろう。何もかもが変わってしまったように感じられた。それなのに何もなかったような顔をして一緒にいるのには、私たちは多分若すぎた。かけられた呪いを解かなければならない、しかしその方法がわからない。それでも流れるように過ぎて行く日々は嘘みたいに楽しくて、向き合うことも投げ出すこともできず私たちは毎日静かに傷つき続けた。

夏がピークを迎える頃、わたしは一人で旅行に行くことにした。彼女から距離を置いて考えをまとめたかった。彼女が送るというのでふたりで駅に向かうバスに乗り込んだ。まるで一緒に旅に出るみたいだといつもはクールな彼女がはしゃぐ。鼻歌を口ずさみながら大階段を散歩し、喫茶店でココアを飲んで、改札まで手を繋いで歩いた。彼女が背後でぶんぶんと大きく手を振っているのが分かったが、振り返らずにゼロ番線のホームへと逃げるように急いだ。電車に乗り込むと泥のような眠気が襲ってきた。夢は見なかった。六時間後に海辺の街に着くころ、意識は朦朧として、頭の中の彼女はセピア色になって静止していた。喪失感と開放感が交互にわたしを襲い、いっそのこと殺してくれた方が楽だと思った。
わたしはそれから数日の間、本を読んでは物語りを彼女に重ね、意味のない言葉の羅列をノートに書きなぐることだけに専念していた。彼女にメールを出せば最初の数日はぽつりぽつりと返信があったが、そのうち途絶えた。
ある時、たまらなくなってわたしは彼女に電話をかけた。はい、受話器から彼女の声が小さく聞こえる。呂律がまわらないあやふやな調子でなにかを話しているがよく聞き取れない。なにもわからないまま電話が切れた。急に心配になって、わたしは日程を変更してすぐに帰ることにした。帰りの電車の中で猛烈に腹が立ってきてわたしはぽろぽろ泣いた。やり場のない怒りをどうしようもできずに窓の外を見ていた。電車の窓を流れる景色がすきだ。汲み取るべきものは何ひとつないのに、永遠に映像を喚起させてくれる。次々に浮んでくるのは彼女の姿だった。悲しそうな彼女、頭を垂れて、伏目のまつげを揺らして、その様でわたしになにかを訴えている、白い彼女の顔。自分がなにを怒っているのか皆目見当つかなかった。もしかしたら自分自身へのそれなのかもしれなかった。

それからしばらくして、あっけなく終わりがやってきた。

突然彼女に恋人ができた。
その人はわたしが彼女に出来なかったことをあっさりやってのけたのだと思った。
文化祭のテントの中で、彼女のそばに居たその人を見たことがある。彼女と何歳も年が離れているその女の人は、気の強そうな目でわたしの方をじっと見て、彼女になにか耳打ちしていた。
それからわたしたちは同じ教室に居ても連絡事項以上の会話を交わさなくなったが、卒業式の当日、一度だけ彼女が部屋に来た。
ダンボールの山の中で、床に小さく座っている彼女の姿はどんな他人よりも遠かった。
なにを言葉にすればいいのかわからなかった。言葉にするべきことなんてなにひとつなかった。今居る場所が彼女と過ごしたあの部屋だなんて信じられなかった。
わたしたちの時間はもうとっくの昔に終わっていた。
それが彼女に会った最後だった。あれから六年、今でも彼女と彼女の恋人はあの町の近くで一緒に暮らしているそうだ。

盛夏に向けて空気が高揚していく季節には思い出す。あんなにも近づいたあなたのこと。とつぜん強く繋がる出会いが何度かやってきてわたしの本心を覆い隠して行く。シンプルな言葉を忘れてわたしたちの糸は複雑に絡まってしまった、それを丁寧に解いてみたかった。気持ちや意思とは関係なく終わりはやってくるけど、待っているものはなんらかの形で必ず帰ってくるのだとあなたは言った。何年かすれば気づくだろうか、時間を超えてあの頃のあなたに出会えるだろうか。その時ははじめましてを言うのであなたはあの頃の真っさらな姿で、はじめて出会ったあの場所で。

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