ハッピーバースデー(2014)

ずっと頑なに手を離せずにいたファントムに私が別れを告げたのは、あなたに出会う少し前のことでした。
彼は古くからの友人でした。私は彼のことを心から愛していました。
ファントムは私にいつも温かい幻想を見せてくれました。
彼が作り出す幻の中で、私は無条件に愛されて満たされていました。
私はその幻想が唯一無二の真実だと信じていました。
人生を捧げても何の後悔もないと思えるほど、幻は甘ったるく真実味がありました。
長い年月が流れてゆきました。
遠い昔に失ったものに焦がれ続けるその日々は、絶望の底の底には温かさが潜んでいるのだと錯覚させられるような、不思議と甘い日々でした。
私たちは遊び続けました。くるくると輪になって永遠に追いかけっこを終われない子供たちのように。
彼は私の寝床に忍び込み、何度も何度もおとぎ話しを聞かせてくれました。
世界で一番甘美な響きで語られる物語り、それはもしかしたら子供の頃に誰もが平等に与えられ、享受し、成長と共に奪い去られる種類の幻想と同質のものだったのかもしれません。
ある日、ひゅーひゅーと鳴る隙間風のようにしゃがれた声で、あいしているよと彼が言いました。もちろん同じ気持ちよ、と私は迷いなく返事をしましたが、ふと横を見ると、そこにはぼろぼろに擦り切れて変わり果てたファントムの姿がありました。いつの間にか時間が過ぎ去ってしまったのです。
私は立ち尽くし、呆然としました。
光り輝く安心の王国はどこにも見当たりませんでした。
ただ茫漠たる野原が目の前日広がっているのを私はこの目で確かに見ました。
そしてようやく、あんなにも追いかけずにはいられなかったものが幻影だったことに私は気づいたのです。
走り続けた日々は、幻影を真実だと思おうとする己への執着と化していました。それは心の中に悪魔を住まわせていることと同じことでした。
私は何日も悩み続け、ある日決意しました
最後の夜私は泣きました。彼は笑っていました。
そして彼が静かに頷いたので、私はその体にナイフを突き立てました。
雪深い冬の夜に鮮血が飛び散りました。彼は声を漏らしながらぶるぶる震えていましたが、やがて静かになりました。何度も名前を呼び、優しく撫でた彼の体がそこにぐったりと横たわっていました。
私は彼を庭に運び、桜の木の下に埋め、手を合わせました。
それから家の中で私はファントムの事を考えました。ずっとずっと考えていました。涙が枯れるまで何日も泣き、ほんとうに、何度も何度も繰り返し泣き、そうして私は少しづつ彼のことを思い出さなくなっていきました。
いつの間にか春がやって来ようとしていました。私はようやく外に出る気分になり、長く閉ざしていた玄関の扉を開けました。
その時に見た光景を私はいつまでも忘れないでしょう。
私の目にはなにもかもが真新しく、本当に美しく見えたのです。
駅までの道のりの中に、新鮮な風景をいくつも見つけました。それはいつもの見慣れた風景ではありませんでした。同じはずなのに、ずっと輝きに満ちていました。
人が幾度も生まれ変わりながら生を辿る生き物ならば、あの時の私は生まれたばかりの赤ん坊でした。
赤ん坊の私は大きな声で泣いていました。生を授かり突然放り出された世界の手触りのあまりの鮮やかさに、笑いたいのに泣いてしまうのです。
私はファントムに別れを告げた代わりに、幻影の打ち砕かれた真実の世界を見ることを許されたのでした。
人に会えば、今までちらりとも見えなかったその人の素晴らしさを発見して目眩がするような思いになり、はじめて恋に落ちたかのような高揚を感じました。
街を歩く見知らぬ人たちに突如堪えられないほどの愛情を覚えて、片っ端から抱きしめて回りたい衝動にかられましたが実行には移しませんでした。
そんな季節に私はあなたに出会いました。
私は新しく授かった目を見開きあなたを見つめました。鮮やかに音を受け取る鋭敏な耳であなたの声を聞きました。言葉にならない生まれたての言葉であなたに語りかけました。
そうするとあなたがあなただと理解できました。
聡明な思考回路で世界を解こうとする清らかな好奇心が見えました。
深い考察とともに人を思いやる真剣な眼差しがおどけた態度に隠れていることを見つけました。
途切れた優しさの尻尾を求めて泣き続けている幼いあなたが見えました。
そして、何度打ちひしがれても正しく背筋を伸ばすあなたの美しい立ち姿と、そうせざるを得なかったあなたの寂寞が見えました。
それは恋などではありませんでした。もっと強い感情、鋭い衝撃のような感動でした。
こんな風に形容することを許してもらえるのなら、私はついに同じ生き物に出会えたのです。
遥か遠い過去から定められていたのだと思いました。
それから夢中であなたとふたり、季節を渡ってここまで来ました。
ここにあるのは東京の夏です。街のあちこちに夏の因子が溶け込んでいます。
きっとその中にはあなたが過ごしてきた二十数回の夏も含まれているのでしょう。今年の夏がよりいっそう愛しく感じられるのはそういった理由が含まれているのかもしれません。
生まれた街の夕暮れがまぶたに焼き付いて離れないのはどうしてでしょうか。あの穏やかな海は幻だったのでしょうか。
繋がらない二人分の記憶の断片が頭の中でちかちかしています。
あなたにはじめて会った日、私は途方に暮れていました。 あまりにも美しく透き通ったあなたの目を、なんの用意もなくうっかり見つめてしまったから。
ハッピーバースデイ。
世界と出会ったあなたに心からのおめでとうを。

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