エウリュディケの画筆


「天から授かったものに従うことも、自然の命ずることです。私の授かったものは、夢にふけることでした。私は想像の跳梁に苦しめられ、それが鉛筆の下に描き出すものに驚かされました。けれどもはじめ驚かされたものを、逆に私の学んだ、また私の感じる芸術の生理に従わせて、見る人の眼に突然魅力あるものとし、思想の極限にある、言葉ではいい得ないものをそっくり呼び起こすように持っていったのです。」

オディロン・ルドン 『ルドン 私自身に』



 高層ビルの屋上では、強い風が吹いている。なびく髪を抑えて前方に目へやると、そこには一人の少年がいた。私は、その少年を良く知っている。彼はフェンスの前に立ち、無心で景色を眺めているようだった。風にかたどられた白いシャツが、華奢な骨格を浮き彫りにする。その背中は今にも消えてしまいそうで、私の心はかき乱される。いっそ心を取り出して、握り潰してしまえたら、どれだけ楽になれるだろうか。
 少年が私に気が付いて、こちらに大きく手を振った。その屈託のない笑顔を見るだけで、目頭が熱くなっていくのを感じる。私は少年の方へと駆け出そうとするが、足は鉛のように重く、思い通りに動かせない。まるで水の中にいるようだった。それでも一歩ずつ足を漕ぎ出し、少年のもとへ辿り着く。そのあたたかな胸に顔を埋めると、いつもと同じ匂いがした。涙が溢れて止まらなかった。
「ずっと待っていたんだよ」
 震えを抑えて絞りだした声は、少年を責めるように冷たく響いた。彼の手がそっと私の髪を撫でる。
「大丈夫だよ。僕は、これからもずっと君と一緒にいる」
 顔をあげて少年を見上げる。いつもと変わらない、柔らかな白い肌、硝子のような髪。私は思わずその頬に手を伸ばす。
「ほんとうに?いつでも会える?」
「ああ、約束するよ」 
 少年はそういうと、もう一度優しく微笑みかけた。私は安心して目を閉じる。穏やかな鼓動の音を聞きながら、彼の温もりを感じている。羊水に抱かれた胎児のような浮遊感。目まぐるしく変わる世界から、まるで自分たちだけが取り残されたように時間がゆるやかに流れていく。波に揺蕩うような揺らぎに身を委ね、私は深い眠りに落ちていく。


 目が覚めた。時刻は午前四時。無機質な灰色の天井が、ゆるやかに私を現実へと引き戻す。窓の外を覗くと、鈍色の分厚い雲が空を覆い、静かに雨が降り落ちていた。ひやりとした硝子に触れて、思わず身を震わせる。この冷たい部屋にいるのは私ひとりで、隣に彼はいない。
 幾度となく繰り返す同じ夢から目覚めるたびに、身が裂かれるような喪失感と自己嫌悪に苛まれる。夢の中で彼が話す心地よい言葉も、交わした約束も、全ては私が作り出した都合の良い幻想に過ぎない。
 そもそも、彼とは二十年以上も会っていなかった。彼は本当に存在したのだろうか。それすらも朧げな記憶の中で、今に崩れ落ちてしまいそうなほどに脆い。時折見るこの夢だけが、彼と共にいた時間を繋ぎ止める唯一の細い糸だった。
 まどろみのなか、枕元に置かれた飲みかけのウイスキーのグラスを手に取り、少しだけ口にふくむ。チリチリとした刺激とピートの香りが、喉を伝ってじんわりと全身に沁み渡っていく。夢の中の出来事を、頭の中でもう一度反芻しようとしても、その情景は徐々に鮮明さを失い、ぼやけていく。もしかしたら、思い出は私の中で身勝手に歪み、夢に現れる彼の顔つきは、過去の少年の面影から程遠いものかもしれない。多くの人と出会い、年月を積み重ねる中で、新しい記憶は大切にしたい思い出にまで否応なく侵食し、別の色に塗り変えていく。
 それでも、夢の中でだけは、私はずっと十代の少女のまま、少年の隣にいることができる。彼は金色に輝く瞳で、真っ直ぐにこちらを見つめている。


 それは令和二十一年の、最高気温が四十度を越える暑い夏の日のことだった。ちょっと前まで「異常気象」なんて呼ばれていた気まぐれなお天気は、もはや日常茶飯事で、超大型ハリケーンは毎年やってくるし、夏でも大粒の雹が降ってくるし、夕方になると雷がたくさん落ちてくる。アメリカでも、ロンドンでも、中国でも、たくさんの人が熱中症や、土砂崩れに巻き込まれて死んだ。自然災害による死者の数は、毎年のように記録を更新し続けている。

 外になんて出るものではない、という考えは、ごく当たり前になっていた。人々がアウトドアに勤しんだ時代を懐かしむ懐古主義者は後を絶たなかったが、わざわざ危険を冒して外に出て、災害に巻き込まれても、莫迦だと笑われるのが関の山だ。だから人々は、よほどの用事がない限り、家から出ない。
 アウトドアのニーズが減退すれば、当然室内での娯楽産業は加速する。なかでも仮想空間における技術進歩は著しいものだった。仮想世界の再現度は数十年前の比にならない。視覚のみならず、触覚、嗅覚などの凡ゆる知覚情報を脳に直接送ることで、現実と寸分違わぬほどのリアリティを叶えていた。今では外に出なくとも、それ以上の体験を享受することができる。人々は、余暇の大半を、快適な仮想空間で過ごすようになっていた。

 月読ヨミは四歳のとき、両親に連れられて、はじめて「Amaterus」 にダイブした。ヨミにとってこの日の出来事は、もう一つの人生の、そして人生の全てのはじまりだった。
 Amaterusは、日本で開発された巨大な仮想空間で、過去・現在・未来が同軸上に積層されている。Amaterusの創設者たちが用意したのは、ユーザーが楽しむフィールドそのものではなく、仮想空間のパーツを作るための開発ツールと、それらを自由に組み合わせて新たなフィールドを構築するためのプラットフォームだけだった。
 通称 「開拓者(colonist)」と呼ばれる、仮想都市づくりを趣味とするエンジニアたちが、今日もせっせと新しい世界を構築している。彼等にインセンティヴはなかったが、新世界を創造するという夢を仮想空間上で実現し、そこでたくさんのユーザーが生活を営む様子を眺めることは、どうやら神になったような気分を味わえるらしい。
 その他のユーザーは、誰かが作ったプレイリストを聴くような感覚で、好みの街を見つけて自由な時間を過ごし、飽きたら別の街へと移り住む「遊牧民(Nomad)」と呼ばれている。Amaterusには百万人規模の巨大な都市もあれば、開拓者ひとりしか使えない秘密の空間もあった。それぞれの空間は、開拓者による公開、非公開の設定が可能だったが、ただ一つの制約は、一度創られた世界をデリートすることは絶対に出来ないことだ。世界は削除できない。たとえ世界がどのような方向へ向かおうとも、その未来を否定し取り消すことは許されない。だから、世界は常に拡張を続けている。

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