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my story:稲妻体験をした小学生時代

小学校では2年生から学級委員という役をすることになり、クラスをまとめたりするちょっとした優等生的な存在になっていました。高学年までそれは続き、「もう学級委員てゆーたらOOや。」と言われるくらいでした。今思うと誰もやりたくないから都合よく私がやった感じもせんでもないが(苦笑)
成績もずっとトップで学校という場所が大好きでした。入学してから担任の先生にも恵まれていて、落語や漫才を愛する先生がしているクラブがあって私と幼馴染で仲良くしていた今でも仲良しのKちゃんと一緒に入ってオリジナル漫才を作って披露したり落語の楽しさを学んだりもしました。その先生は留学した時も連絡をとっていて、日本語を聞く機会もお笑いもないだろうとカセットテープ(!)そんな時代(笑)に落語を録音したものを送ってくれてものすごく嬉しかった記憶があります。(今でも元気にしてはるのかな、植田先生)ですが高学年で担任になった女の先生から悪い意味で目をつけられ、とりわけ何か私がしたという記憶は全くなく(未だに何が原因だったか全くわからずしかも自分の子供がまたこの先生にお世話になる日が来るとは!)成績も下がり、小学校最後の方は番長的存在の女の子が転校してきて今まで仲良く交換日記などしていたお友達がその子と仲良くなったために無視をされたり、軽いイジメみたいな嫌な気分を味わいました。でもその番長的な子は私立の中学校へ行き、私は地元の公立中学校へ行くことになり、中学校へ入ったらまた新しい生活が待っているし新しいお友達もできるし、とあまり気にせず中学校へ進学しました。たまたまタイミング的にもう卒業間近だったので嫌な思いは長続きしなかったのですが、あの時期が長く続いていたらトラウマにもなっていただろうし、学校にも行きたくないって思ってたりするのかもなぁと時々思ったりもします。ただ未だになぜそういう扱いを受けたのかがわからずにいる事が引っかかったりしていてたくさん楽しい事があった小学校生活なのに嫌な思いをした事って強烈に記憶に残るんだなぁと今実感しています。他に仲良しのお友達が居たのが救いでした。
そしてその頃私の家族は外国人の生徒を受け入れるホストファミリーを短期間だけすることになり、オーストラリアから中学生をステイさせるプログラムに参加したのです。英語は私はその時全く話せなく会話ができないもどかしさを初めて経験しました。そして自分とほぼ同い年の子がものすごく大人っぽく見え、持ってるものや着てるもの全てが宝箱の中のもののように見え、歯磨き粉でさえもこんな物があるんだ、自分の今まで見ていた世界が全てじゃないんだと稲妻のように感じた事を思い出します。もっといろんな物や人がこの世にはあるんだと。言葉は話せないけれど彼女とお別れする日は悲しくて悲しくてこうやって知らない人と繋がれる喜びを初めて感じました。そしていずれ自分もそういう体験をしに他の国へ行ってみたいと強くこの時に思いました。


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