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my story:闇の中学生から世界へ飛び出す高校生へ

中学生活は私の中でちょっと闇の中に居るような暗い時代だったように今振り返ると思います。思春期になり、ほんとに毎日泣いていない日はないんじゃないかと思うくらい何かを思っては涙し、寝れない日も何日も続き、情緒不安定な時期で毎晩ベッド横の窓から外を見てはここから出たい。自分はここには属しないと思っていた記憶があります。涙目で顔が腫れてたり、寝ていないのでボーッとしてたり、闇の中にいました。
家庭内が荒れていた訳では全くないし、でも両親は仕事が忙しく(父は小学校の教師、母は塾を経営していました)夜ご飯は母が夜のクラスを教える前にきちんとテーブルセッティングしたものを料亭のように用意し(どうやってたんだと同じ母目線で今は思う)夕食は父と妹と食べる事が多く、TVのニュースを見て難しいニュースがあると父が丁寧に教えてくれたり、夕食後は妹達も揃って食卓で宿題、勉強の時間があって父が教えてくれたりする時間がありました。
しかし学校が校則の厳しい学校で意味がわからない校則が多く、大人になりたくない、教師という圧力をかける存在がものすごく嫌になるようになりました。私は癖毛で何もせずにいるとパーマをかけたような髪質で、パーマが禁止な校則だったので地毛なのにきちんとストレートにしてない日は決まってパーマか、と責められ、それでなくても自分の癖毛を嫌っていたので余計にコンプレックスに拍車をかけられ、あんな大人になりたくない、色んな髪質の人がいるのに、私達なりに考えている事があるのに。と全くわかろうとせず押さえつけるような大人をものすごく嫌うようになりました。そして一人唯一担任であった男勝りな飾り気のない言う事がとてもリアルな女の先生は唯一私達側に立ってくれている先生だと思い救いでもありました。地元の学校だったので私の両親や祖父母の事を知る先生も多く、私にはあの先生宅の娘さん。という変なプレッシャーやレッテルを貼られてそれに対しての反発もあり、思春期ということもあり、家に居る事も家族旅行もものすごく嫌な時期でした。
学校へいかず公園で「不良」と呼ばれる人たちと一緒に過ごした日もたくさんあったのがこの時期でした。友情が全てで不良の子たちを見ながら中身はすごく純粋ででも社会には不器用で仲間意識が強いんだろうな。。と自分もその子たちと居るくせに思ったりしてました。
唯一この闇の中で良かったことは今でも親友である心の友達のYちゃんに会えたことです。私達は何か繋がるものがあり、お互いしんどい闇の時期をそれぞれの場所で過ごし分かち合い、自由を求めていた友達だった気がします。私達は尾崎豊の曲を愛し、銀色夏生の詩を愛読しました。闇といっても楽しいこともたくさんあったのですが人生振り返ると他に比べて闇が多い時期でした。
そんなで成績がとんでもなく悪かったのはいうまでもなく、私が唯一信頼していた担任の先生の推薦もあって私立の高校に行くことになりました。とにかく私の事、先生家族という家の事情を誰も知らない遠いところへ行きたく、電車で1時間半もかけていく学校へ行くことになりました。
初めての私立の女子校。地元の学校に比べて家柄がいいというか上品な友達が多いなあと思いました。気が合う友達が次々に出来、今まで2人や3人で集まるのが好きだったのが結構な人数グループで集まるようになりました。皆それぞれ本当に愛おしくて毎日何やってもお腹を抱えて笑う、涙流して笑うという日々で学校も友達と駅で話したり、どこかへ寄ったりする事が楽しくてしょうがない時期でした。今思うと皆それぞれの色を皆わかり合って認めていた仲だったなぁとあの年齢でそれが出来ていた仲間達に感動します。そこでイギリス出身の女性の英語の先生に会ったのですが、初めて私は日本で暮らす外国人に会いました。プライベートでも仲良くなって自分軸のスタイルを持っている所や、外国で暮らしているインディペンデントなところ全てに憧れました。彼女は都会の外国人専用アパートに住んでいてびっくりするくらい小さいスペースだったけれど遊びにおいでっと私と友達を呼んでくれました。ものすごく小さいスペースをおしゃれな空間にしてるそのインテリアを今でも鮮明に覚えています。私は一つ一つどこで買ったの?これはイギリスから持ってきたの?と聞きまくりました。驚くことにもらったものや捨ててあったものを拾ってきたというのが多くてそういう事をさらっと言っているところにも素敵だなと思い、お付き合いしている日本人の彼氏の話やイギリスに居る家族の話もしてくれて、自分の国を出てでこんな風に暮らしている人もいるんだとそしてそれを飾り気なく話したりする所がものすごく新鮮に感じました。いつも良い匂いをしていたので何の香水を使っているのかと聞いて同じ香水を買ったり、ある意味私のほんとに初めて憧れるアイドルみたいな人で、今は付けなくなったけれど売っているその香水の匂いを嗅ぐとその頃の思い出が鮮明に蘇ります。
この高校は入ってすぐ将来に向けての個人的な将来プランを立てる時間があり、私は大学は海外に行きたいと思っていたので準備をしようと国際センターへ行って資料を集めたり、そこで留学システムのある書類を書いたり、留学するにはTOEFLのテストスコアがいる事を知り、(インターネットのない時代です・・涙)相談するために留学センターへ一人で足を運びました。するとあなたまだ15歳だったら高校留学という留学システムがあるけれどそれには興味はあるのか聞かれました。
何が違うのか聞いたところ1年留学というビザで行くため何か非常時でない限り1年内には帰ってこれない事。みっちり1年海外に居れる事。現地の高校に行ける事。高校ならではのイベントに参加できる事。言葉の上達が高校で行くのと大学で行くのと差が出るところ。ホストファミリー宅に住める事。私は1年帰って来れないと言う過酷な感じが気に入ったのと(マゾかっ)みっちり住む暮らすという事で文化を肌で感じれる、絶対話せるようになると思い即行きたいと思いました。そんなで決めてからはTOEFLの勉強に専念しました。練習模擬テストを受けて受けて受けまくった。(一回分終わらすのに3時間かかる)やりたい事への行動力の早さは誰にも負けません(笑)
決めたらそれに向けて全力をかける性格もあって他の教科のことなど覚えてないくらいこの頃はTOEFLの勉強しかしてなかったように思う。
そして高校留学に行けるスコアを取得し、両親に伝え、快く許可をしてくれ資金も出してくれました。今考えると私がしたい事には全てサポートし、大丈夫、頑張っておいでと勇気づけ励ましてくれる両親でした。それは今でも変わらずいつも褒めてくれたり、励ましてくれる両親で離れていてもサポートを感じるのはそのお陰様だと心から思います。国の選択は第一希望:イギリス 第二希望:カナダ 第三希望:アメリカで私は希望する時期が遅かったせいで第三希望まで埋まってしまい元々ヨーロッパの方が興味があったのに(しかもイギリス英語好きなのに)ほぼ全然興味のないアメリカへ(笑)そんな国へ人生の半分以上住むことになるなんて、人生はほんまにわからない!気がつけばネイティブ並みのアメリカ英語とバリバリの泉州弁を話す人生に(笑)
そして大好きな大好きなお友達がたくさんいて毎日お腹を抱えて笑える友達を置いてまで高校交換留学をなぜしようと思ったのか、ちょっと不思議な反面、皆が頑張れとサポートしてくれてることに頑張ってくるわーー!と行ける事がとても嬉しかった。外国で寂しくなっても私には日本で応援してくれてるみんなが居る。といつも思っていたし本当に実際それは大きな自信になったしサポートになった。
今でもずっと仲良くしてくれているこの頃のお友達は一生のお友達で感謝しても感謝しきれない。本当に心の支えになって留学中お手紙や写真を送ってくれ、今でも思い出すだけで目頭が熱くなるのがほぼ毎日郵便ポストに誰かのお手紙が入っていた(インターネットが普及してない時代です)恋愛情報もお返事のお手紙が着く頃には変わっていたり、なんせ書いて一週間で日本に届き、向こうが速攻書いてもまた一週間かかってこちらに情報が届くからやりとりに二週間もかかるのだ。高校生の二週間はドラマチックに色んな事が起こっているのでそれはついていくのが大変だった。でも皆懲りずに書いてくれて送ってくれて留学が終わる頃、大きな段ボールパンパン3つ分お手紙でいっぱいになった(号泣)今は便利な世の中になって今留学してる人は家族とも友達とも気軽に繋がれる事をとても羨ましく思う。でも逆に私は色んなお手紙のデザインや紙質やペンの色、その人の字そういう物の愛おしさを知っているからやっぱりsnail mail(郵便で送るお手紙の事をカタツムリメールと言う)の素晴らしさはこれからも無くなっていって欲しくない物の一つであるなぁと強く思う。

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