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親子といえども同じ常識を共有できないこともある。でも落ち込まないぞ😐

無機質な分娩室の緑色の床。母も胎児も疲れ果て、もう陣痛が遠くなってしまった朝。私は看護師たちから忘れ去られてしまっているのではないかと、朝日が差し始めたほぼ無音の空間でぼんやりと考えていました。しばらくすると、十分な睡眠をとったであろう元気な顔の老医師がようやく現れ、陣痛が始まってから27時間にしてやっと、我が子の産声を聞くことが出来ました。


はい。あれから17年。

私の中から出てきた、もとは私の体の一部に過ぎなかったその生命体は、全くの別人格を持つ一人の人間になっています。

それは、至極当然のことだと理解はしていますが、彼の世界観、人生観に私とは大きく異なる部分が見え隠れする度、ものすごく衝撃を受けてしまいます。


私はショッピングモールなどで迷子を見つけると、どうしても放っておけないので反射的に駆け寄ってしまうのですが、子ども達が一緒にいる時にはとても嫌がられます。そのうち親が見つけるだろうから関わらなくていいと言われてしまう。それが私を悲しい気持ちにさせます。


子ども達も同じ意見だろうと思い込んで話し始めた結果、そうではなかったことが発覚し落ち込むこともしばしばです。時に、親子といえども違う常識に生きている。そんなことを思い知らされます。少し前までは、私の考えを理解して欲しくて長い説教に入ってしまうこともありました。でも最近は潔く諦めるよう努めています。話して、考えを改めてくれたらもうけもの、それくらいの軽い気持ちでいることにしました。


彼らが生きる時代は私が生きてきたそれとは違います。常識だって時代や場所で変わりますから、もしも私が自分の考えを絶対に正しいものと押し付けてしまったら、それは「老害の始まり」になってしまうかもしれません。

この世界には何が正解なのか分からないものが多すぎます。それぞれが「自分が正しい」と思い込むことで、毎日を生きられているのだと思います。我が子だから自分と同じ色に染めたいと考えるのはきっと親のエゴですよね。

こんなふうに文字にすることで、自分に言い聞かせているのです。無駄な期待で悲しむなと。子ども達に任せておけと。

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