人間性の追求 → 超自然的存在になる
人間性の追求 ここらへんの分野は、女性は極マレ。
人間性の追求とは、心象風景的に、どういうことかというと、
目の前においしそうな食べ物があります。
「それをあげる代わりに、魂と交換しないか?」
というささやかれるのです。
その誘いを断りつづけることが、人間性の追求という行為なのです。
「みなさん、できますか?」
わたしは、できた。
そうする必要のある役職だったから。
決して、神の審判は「魂と交換」というお題目できません。
それほど仲良くないけれど、クラスメートが泣かされていて、
自分にふりかかるのを恐れて、
本当は何かできることをしないで、見てみぬふりするとか?
それも魂売ったことになります。
(本当に余裕がなくてできないときは、しなくてもよい。
でも、代わりに誰かにやらされないという決意が大切)
そういう小さなことから魂販売がスタートするのです。
多くの人は、子ども時代に魂を売っている。
本人たちは、気づいていません。
あれが魂を売る契約だったとは。。。というできごと。
神様がいつもすること。
わたしの場合は
魂を大人になってももってるというのが因果律です。
山姫伝説および山うば民話から、
人間性を追求するということは、
超自然の存在に意図せず、
神秩序でそうなってしまうのです。
人間性追求 → 必ずさせられる遊女設定 →
人間性を保つ →
山姫および山うば ≒ 超自然的存在 ≒ 神の相似形
多くの場合、遊女設定までは、人間性をもっても、
肉体消滅か魂の消滅のいずれかに偏ることが多いので、
女王の役は、生存確率は、成人ほぼ0% 現在地点
わたしだけかもしれない。
(肉体と霊体をちゃんと両方もってという意味です。
どちらかだけではクリアできていません。
霊体消失だと人間もどき。肉体消失だと天空お帰りコース。)
人間性追求さえすれば、人間らしくあるのだろうと、
人間は自分ができなかった選択を素晴らしくとらえるようである。
ところが、私それを見事に破天荒をやってのけたけれど、
人間性追求は、神様(超自然的存在)になっちゃうと報告です。
信じようや信じまいが、そうですもの・・・
敢えていうと
「人間という生き物は、存在しません!」
Σ(゚∀゚ノ)ノキャー
なにそれ(。´・ω・)?
だよね。
民間伝承で私のような存在を(山うば・山姫・山女郎)と
呼ばれるそうですが、
これは超自然的存在であり、神様なんだってば。
逆側から見ると、
山のふもとに生きる者は、
魂を捨てたイキモノであり、人間ではありません。
どちらも人間ではないという幻想物語です。
人間という存在は、本当は、いなかったというエンディングです。
これらは、民俗学の論文からヒントを得たので、
民俗学や携わった方に感謝します。
日本国というマトリックスである、蠢いている生き物があるとする。
女王が絶対安全圏にいなければいけないという理論は、
霊体である魂は、必ず必要だという、
または、神様が、日本の命綱をわたしに預けたというような、
奇妙な説得力になり得る。
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