今夜は薔薇を買って

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「憂鬱だ。」口に出してしまった瞬間はっと我に返った。紗江子との待ち合わせ場所に選んだ駅の改札は人がまばらだったが、2人程坂下のほうをちらりと見てまた視線の行き先を元に移した。紗江子が仕組んだ罠に自分がまんまと引っかかったとしか思えなかった。四年前会社の忘年会で記憶を失くすまで呑んでしまい目覚めたら紗江子のアパートだった。当時の坂下は恋人に二股をかけられ別れたばかりの辛い時期だった。仕事で愛した彼女の事を断ち切るように毎日遅くまで残業、休日返上ゴルフの接待とプライベートの時間は全くと言っていいほど無かった。だが会社への貢献度と信頼度は高まり坂下はあれよあれよと言う間に営業部のエース候補となった。そんな将来有望株を女性社員たちは放っておく訳が無い。仕事熱心で且つ逞しい肉体と申し分の無い整った顔を持つ男は先に手をつけた方が勝ちなのだ。忘年会の二次会で坂下の席の隣に座っていた同期の女性社員に「社内不倫はダメよ~ダメダメ!」とメールを送りつけ即刻退席させその席をまんまと勝ち取り、坂下のグラスに大学時代のやんちゃサークル御用達で使っていた謎の液体をこっそり混ぜて呑ませ、潰れた所をタクシーに押し込み連れて帰ったのが紗江子である。無論謎の液体を呑まされたという事は坂下は知らない。紗江子に強制退席させられた同期の女性社員に随分経ってから「あの子には気をつけたほうがいい。大学時代逮捕されたサークルにはいってたんだって。呑んで潰してってほらニュースにもなったあの大学の。これ本人は隠してるけど茶髪ガングロミニスカサエコって検索したら紗江子が出てきたよ。」と酔い潰れた忘年会から2年経ってから教えてもらった。

「お待たせ。」紗江子が横に立って笑っていた。10センチ以上はあるヒールを履きピンクの上下のスーツを着ている。「ねえねえこの格好変?変かな?どう思う?」と何度も聞いてくるので「うん変だよ。」と紗江子を見ずに坂下は言った。むっとした紗江子は「ねえここから歩いていく気なの?今井さんちはここから15分もあるんだよ?タクシーで行こうよ。」後ろから金切り声が聞こえる。スマフォの地図を見ながら足早に坂下は歩く。

思えば四年付き合ったと仮定しても紗江子とあの時関係を本当に持ったのか怪しくさえ感じている。泥酔した次の日の朝、目を醒ました瞬間に「私、初めてだったの。初めての人とは結婚するまで取って置いたの。坂下さんだからあげたんだよ?」と紗江子が隣で全裸のままそう言ったのを鵜呑みにし、呪縛となって今の自分に降りかかってくるとは。悪いが紗江子とは結婚するつもりは全くない。本人にもそう言ったのに「それでも良いからこのまま付き合って」と懇願されずるずると関係が切れないままこんな事になってしまった。その責任を今日は取るつもりでいる。

今井先輩の前でもはっきり別れを言う為にわざわざ一緒に行って話をつけるんだよ。そして近いうち会社を辞めて友人と会社を立ち上げるんだよ。だから結婚なんかしないし、理想とする女性は俺の中でちゃんといるんだよ、その人と逢えるまで俺は誰とも「ねえねえさっきから何ぶつくさ言ってるのぉ?コワーイ」後ろからケラケラ笑う紗江子の声がする。死ねよブス。一昔前のお笑い芸人のような格好に履きなれないピンヒールで歩き方がロボットのような女を横に歩けるかっつーの。頭の中で紗江子に対する罵詈雑言を並べ立てていたらあっと言う間に今井家の家の前に着いた。インターフォンを押す。紗江子がさっと横に並んだ瞬間、テレビドアフォンの画面から「こんにちは坂下さん」と美しい女性が笑いかけた。今開いたばかりのピンクの薔薇のような微笑。一瞬で坂下は理想の女性と出会ってしまったのである。



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