今夜は薔薇を買って

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先週今井家の食事会に使ったテーブルクロスを広げ、花瓶に赤と白の薔薇を半分づつ活け今夜招かれたお客の為に作られたローストビーフを冷蔵庫から取り出す。瞳は綺麗に切り分けながらソファに座って居る直樹に向かって「駅にお迎え行かなくてもいいんですの?」と声を掛ける。朝から胃が痛み機嫌の悪い直樹は「住所教えたんだし今時GPS機能付いてない携帯持ってないヤツなんか居ないんだし来れるだろ」と邪険に言った。先週の紗江子との失敗ディナーの続きがまさか自宅にまで及んでくるとは思いもしなかった直樹の憂鬱は瞳に向けられていた。始まりは石上の余計な一言からだった。

「今井夫妻が媒酌人かあ。そのうち瞳ちゃんとも一度顔合わせしておかないとな」と石上は喫煙所に入ってくるなり良く通る声で言い、直樹は吸っていた煙草にむせこんだ。周りに誰も居なかった事だけが救いだ。石上よ、それは紗江子の仕組んだ罠なんだよ、と言いそうになった。昨日初めて聞いた話がもう石上に伝わっている事に心底驚き紗江子の口の緩さと周りを固める行動力に恐れを抱いた。

出社後朝一番、坂下に「野村君と結婚するんだってな。おめでとう。」と先輩らしく余裕を見せた祝福なのに坂下からは「はっ?結婚しませんよ?」と即答されてしまった。「今井先輩、まさか媒酌人頼まれてませんよね?」と返され「頼まれた」と言うと「えええ?」と坂下が露骨に嫌そうな顔をした。もう業務に入る時間だったので「お前昼休みにちょっと喫煙所に付き合え、な?」とだけ言い残しその場を離れた。

坂下を待つ間石上の話を顔を引き攣らせながら聞いた。紗江子は今週中に私の家を訪問し、瞳にも媒酌人を頼みたい旨を伝え式の段取りや打ち合わせを協力して頂きたいと給湯室で女子社員達と花を咲かせてはしゃいで居たそうだ。珈琲を入れに行った石上はたまたまそこで耳に入れたらしく含み笑いをしながら直樹をからかいに喫煙所までやってきたのだ。そこにやってきた坂下は喫煙所のドアを開くと同時に説明されなくても直樹と石上の間でどんな会話をされていたのか大よそ察した。そして会社全体、掃除のおじさんおばさんにまで広まるのは時間の問題だと確信したのである。直樹は坂下の物言いたげな表情を無視して「おう坂下。とりあえず今週の日曜日、野村さんと一緒にうちに来いよな。色々話して置きたいこともあるだろうしな。」と明るく言ってその場から離れた。正確に言うと逃げた。廊下を歩きながら震える携帯を手に取り、受信メールは紗江子からのものであり「今週の日曜日お邪魔でなければ今井先輩の自宅に招いてもらえませんか?奥様とお逢いしたいですし」まで読んでエレベーターを使わず階段で1Fまで急いで駆け下りて外に出た。

チャイムが鳴った。瞳がテレビドアフォンに向かって「こんにちは。坂下さんと野村さんですね?今ドア開けますからお待ちくださいね」と答えていた。テーブルにはきちんとアイロンの掛かったテーブルクロスとその上に飾られた薔薇の花と4人分の席がセットされてあった。まてよ、と直樹は思った。「紗江子と坂下が別れる日になるかもしれない。そうすれば紗江子と付き合えるかもしれない。勿論皆に内緒にして。」と思考回路を180度転換し、妄想し始めると朝から続いていた胃痛が消え、小躍りしたくなる気持ちを抑え玄関へ二人を出迎えに行くのであった。




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