今夜は薔薇を買って

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会社に戻ると会議が始まりますよと野村紗江子が直樹に笑顔で駆け寄ってきた。153センチの小柄な紗江子はくるくると上目遣いで直樹を見上げ「お昼は何食べたんですか?もしかしてパスタですか?」と汚れた袖口を掴んで悪戯っ子のような含み笑いをした。ああ紗江子が本当に愛人だったら私の人生薔薇色で完璧なのに。可愛い黒目がちな大きな目、前髪をそろえたストレートの長い髪、Dカップはあるだろうと思われる胸、そして一番気に入ってる153センチという小柄な身長。今年紗江子は30歳になるのに入ってきた頃のままに見える。来月誕生日なので直樹は紗江子に何か特別な物を送ろうかと考えている。あまり高価なものをあげるとその後同じような品物を要求されやしないか、だが安物だとある程度目の肥えた30女を満足させることは到底出来ない。食事に誘いプレゼントを渡し、そのあと予約したホテルに行く前に「君に出会えたのは一生にあるかないかの奇跡なんだ。どうか付き合って欲しい。」と告白しようか、そこもタイミングの問題だ。あれこれ考えている直樹に向かって「先輩、俺先に行ってますよ」と坂下は既に10メートル先から声を掛けた。紗江子は坂下と一緒に先を歩いていた。

会議が終わると同時に紗江子は「今井さん今夜空いてますか?」と小さな声で話しかけてきた。直樹は会議中も妄想していた紗江子とのデートプランが見透かされたようで動揺していた。同時に後ろから石上に「今井は奥さんにバレないように上手くやらないとな」と右肩をバシッと叩きながら大きな声で笑いながら言われた。「お前じゃないんだから」と言いそうになり止めた。石上は二年前同じ会社の同僚との不倫が奥方にバレ、同僚へ奥方から慰謝料請求した事件があった。にも関わらず全く気にしていないのか直樹に対してそんな態度で接してくる。「ちょっと石上さんそんなんじゃないですから。今井さんに相談したい事があって」と紗江子が言う。浮かれた私は「いいよ。会社終わったら飯でも食べながら聞くよ」と即答してしまった。

「お前帰りは瞳ちゃんに薔薇でも買って帰れよな。機嫌取らないと後で大変だぞ」とニヤニヤしながら石上は言う。何が瞳ちゃんだ。他所の家庭を心配するより自分の家庭を心配しろと思う。まあいい、今日はラッキーデイなのだ。棚から牡丹餅と言えばいいのか。瞳には仕事で遅くなるとメールを入れればそれで良いだろう。携帯を取り出し画面を見るとメール一件受信のお知らせとあり、開いてみると「今日は義父様、義母様、和子さんがいらっしゃる日です。忘れずに食後のデザートを買ってお帰りください。待ってます。瞳。」

月一度夕飯を一緒に食べ、お互いの近況報告をするだけの簡単な食事会で向こうの気は済むんだから頼むよと懇願したのは直樹ほうからだった。瞳が同居を拒んだ次の日から姉の和子が何度も電話をしてきては「夫がだらしないから女房がつけあがる」「父さん母さんが可哀想だと思わないの?」とクレームが入り「月に一度は直樹の家で今井家一同の会食をやることに決めたから」と一方的に決められたその最初の会食の日が今日だった事をすっかり忘れていたのだ。まあしょうがない。直樹は今日、紗江子との夕食を選ぶことにした。瞳にメールで「悪いが緊急の仕事が入り家に帰るのが遅くなる。適当にお相手宜しく頼むよ。あまり無理するなよ。」と返信した。元はと言えば瞳のせいで会食する事になったんだし一生に一度あるかないかの誘い断るのは男が廃るだろと訳の分からない勝手な解釈をし、自分を納得させ、今夜行く店とネットで探しその近所にあるホテルを検索し始めるのであった。


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