今夜は薔薇を買って

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和子は今井家の長女であり直樹の三つ上の姉である。25歳で結婚し26歳で長男雅史、29歳で次男克行を産み育てながら食品メーカーの社員として勤続23年のキャリアを自負している。「我ながら今までよく頑張った」これが和子の心の中での口癖である。夫の守雄は飲食店勤務で店のマネージャーをしている。夫の薄給だけでは男の子二人これからお金が掛かる時、この私がしっかり稼いでいなかったらどうなっていたことやら。「和子さんビールにします?それともワインになさいますか?」瞳がそう聞くと和子はむっとした様子を隠すことなく「瞳さん、私いつも赤ワインしか呑まないでしょ?それとももう忘れたのかしら?」と語気を強めてそう言い返した。「これだから専業主婦で今まで一度も社会に出た事の無い人は物覚え悪すぎ」と心の中で瞳を蔑んでワインが注がれたグラスを手に取りくるくる回して香りを嗅ぎひとくち含んだ。フン、まあまあねこのワイン。しかし瞳さん変わったわね。地味で控えめな人だったのにあんなマニキュアなんかしちゃってさ暇な人は良いわね、と和子は瞳を馬鹿にした目つきでちらちら覗き見ながら赤ワインをぐびりと呑み込んだ。

和子のこの態度はいつもの事である。いつもと言ってもそれほど頻繁に会う機会は無いのだが盆暮れ正月、冠婚葬祭に必ず顔を合わすのでせめてここにお客として来る時だけこの横柄な態度は遠慮してもらいたいものだと瞳は思う。この人達と会う時は食事する事が殆どなので食事の仕方でどんな人なのか大体分かるようになっていた。午前中、急かして帰した伸明を思う。彼との食事は毎回楽しいし美しい。伸明がそういう人柄で瞳を大切に扱ってくれるのが食事の仕方で伝わってくる。瞳が何を食べたいか細かく心を砕き瞳の為に店を選び酒を選び会話を選んでくれる。全てが完璧なのだ。食べるだけでなく食事に絡む行為そのものが食事としての儀式であるからなのだろう。だがここに居る和子を筆頭に今井家の人達(直樹も勿論含む)は瞳が好まないスタイルの食事なのだ。口に物を入れたまま喋るし飲み物と食べ物のチョイスが合ってない。それよりも我慢できないのは瞳を女中かお手伝いさん扱いをしながら食事をする事なのである。彼らにしてみれば「直樹のお嫁さん」は一番下、独自のカースト制度を勝手に作り上げているので、瞳が食事をしていようがしていまいが「瞳さんお酒お代わりお願い」「瞳さん胡椒取ってきてくれないかしら」「瞳さんちょっと先にお会計してきて」とまあ始終こんな調子なのである。瞳は半年前まで良く我慢してきたほうだと自分で思う。そして表情を崩さず言われた通りにしてその場をやり過ごした。

二時間前に着た直樹からのメールを見た時、呆れてしまった。あんなに自分から頼んでおいて当日間際になって急な仕事が入った・・・か。少しばかりの情を持って今日の食事会を準備し、直樹の家族を向かい入れ接待している瞳はメールの内容が嘘だと分かっていても不思議と怒りがと沸いてこなかった。ただこの瞬間直樹との生活の終わりを迎えている事を知った。和子が「直樹仕事で来れないんですって。さっき私にもメール着たわ。瞳さん大丈夫?直樹に浮気でもされてない?アハハ、ごめんなさい冗談よ」明らかに瞳を馬鹿にした言葉や態度だった。瞳は静かに、そしてはっきりとした口調で「そうですね。もし浮気されてたら離婚します。お姉様その時は味方になってくださいね?」と微笑しながら言った。和子は驚きなんと言って返していいのか分からず呆然としてしまった。本当に瞳は変わった。「お姉様、ワインのお代わり如何?」と綺麗にネイルされた右手で優雅にワインを注いだ。

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