魚の小骨

どうも、まーくんと申します。変な名前ですね。
「この出だしも久々ですね」って毎回書くたびに思っています。3日坊主を繰り返して人生が終わっていくんだろうな。

タイトルの意味はそう、「何か引っかかっててまだ呑み込めていないエピソード」のことですね。
それこそカスみたいなツイート群に混ぜて不法投棄しても良いのですが、noteの方まで読んでくれる人は、ツイートと違って「わざわざ見に来てくれる人」なのである程度ぶっちゃけてもいいかな……という意識が勝手ながらあります。
あなた、”覚悟してきてる人”ですよね……あっいや別にそんな時効を過ぎた犯罪の暴露とかじゃないんですけど。

本題。
小さな頃、親の再婚に伴って引っ越しをしたばかりの頃です。
当時はまだ基本的に親とお風呂に入る年齢だったので、再婚相手(以下、カスと表記 家族だと思うことも苦痛であるため)と入る日も多くありました。

その頃の自分は服を脱ぎ着するとき、靴下を最後に脱ぐ、あるいは最初に履く癖がありました。
これは今になって思えばですが、元々住んでいた地域よりも寒い地域に越したため、足元の冷えに慣れていなかったのだと思います。別にそれを自分は意識してもいなかったのですが、同様におかしなこととは思っていませんでした。癖っていうのは得てして無意識なものですからね。

ある日、それを見たカスはこう言いました。「その順番で服を脱ぐのはおかしいよ」と。

当時の自分は子供で、今考えられるほどの理屈が一つ一つの行動につけられるわけでもありません。身近な大人に「おかしい」と指摘されれば(そういうものなのかな……)とか思いながら最終的に従っていたと思います。

ただ、そのときは何かモヤモヤしたものが心の奥底に残って、素直に従う気になれなかったのを覚えています。思えば、カスに対して不信感を抱くようになったきっかけの出来事のような気もします。

それまではこんなことを言われた記憶が無かったし、自分の行動を「おかしいから」という理由で断じられたことはありませんでした。
単に性格や子供との接し方の違いと言ってしまえばそれまでですが、少なくともそのときの(あるいは今も)ぼくにとってその考え方は素直に受け入れられるものではなかったのだと思います。

幼い頃の思い出はよく時系列が混ざりやすいものなので、
他にも記憶している「不信感エピソード」が先に起きていた可能性もあります。
まあここでは「そういうエピソードがいっぱいあって、その内の一つとして強く残っているものの話なのね」として大目に見ていただければと思います。

この一件に限らず、何かにつけてカスは「お前の家族内の立場がこうだから」「性別がこうだから」「世間的にはこうだから」といった物差しを以て、家族の行動をジャッジしてきました。
子供を育てるのは愚か、家庭を持つという経験すらも無かったカスにとって、「その思想を植え付けることが正しい教育であり、その教育により家庭を支配することが親の役割である」という信念は揺らぎのないものだったのかもしれません。

長い時間を経て、色々なことがあり、今カスとは完全に連絡を絶っています。家族の中でもいつもはいないものとして/たまに話題にあがったときには、過激な方向に話題が飛びがちな着火剤として扱われています。

本当に色々なことがあったので、この扱いについて一口に語るのは無理です。今ぼくがカスと呼んでいる相手を可哀想と思うかも、あるいはぼくのこの記事を批判したいと思うかもしれませんが、そのときは「そう呼ばれるだけのことが裏で起きていたのかも?」ということに少しだけ思いを馳せてくれると嬉しいです。

別に再婚相手を選んだ側の親のことも、離婚した側の親のことも怨んでいません。そっちは今でも基本仲良いからね。
ただ時々、こういう魚の小骨みたいなエピソードを思い出しては、このつっかえた感じが一生自分の思い出から消えてはくれないという事実を噛みしめて苦い顔をします。
ぼくがフレーメン反応みたいな顔したり頭掻きむしってたりしたら原因の2割くらいはこういう過去のことです。

大きくなったぼくは今、寒い日には自分の意志で、靴下を最後に脱いで最初に履きます。それは単なる子供から親への反抗ではなく、「これが、自分の体と心を寒さに晒さないための最善の方法だ」と、今のぼくが自信を持って言えるからです。

おわり。特にオチはありません。
あっ、寒さにはお気をつけて。


ハイパー余談:
友人が以前「わたしって他の人と比べて変かも?」という主旨のお題で小説を募集していたのを見てから、自分の中でグルグルしていたエピソードでした。
小説にするにはあまりに私的であって詩的でなさすぎるので、なんとなく胸の内にしまっていたのですが、なんとなく放流しました。人生が行き当たりばったりすぎる。

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