見出し画像

「ロシア」を考える vol.1 曾祖父について

 流るる雲に秋を感じるころとなりました。
 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 新型コロナウイルスの感染拡大に依然として予断を許さない状況が続く昨今、学校の友人などと気軽に話せる機会はまだまだ多くはありません。
 そうした中、京都の部屋で、訪れた先の寺社で、自分の頭に思い付いたことどもを少し整理して、せっかくなら書き残しておこうと思い立ち、noteを始めることにしました。

 おおむね、外交について(特にロシアとの関係)歴史・文化について書くことになると思います。また、書くことを通して私が人生を通して探らんとするテーマ

「日本人とは何か?」

について考えを深める手がかりにできればと思っています(なぜこのテーマと出会ったか、こちらも後日書くつもりです)。
 所詮、寂しさを紛らわせる程度の雑記帳、とでもいいましょうか。
 以上、はじめにおことわりさせていただきます。

 さて。
 いまさら私の自己紹介を書くのは億劫なのでいたしませんが、今後書いていく内容を鑑みれば、なぜ外交に興味を持ったのか?、なぜロシアに興味を持ったのか?については触れねばなりません。

 そこで第1回となる今回は、その問いの答えとなる身近な人物として、私の曾祖父を軽く紹介したいと思います。
 身近な、とはいえ、私が曾祖父と直接会ったり話したりしたことは一度もありません。しかし、自分がロシアや北方領土、さらには外交に興味を持つキッカケとなった人であり、私がロシアのことを考えるとき、脳裏にいつも思い浮かぶ人でもあります。


===========================================

 
 日本海の波濤と向き合う新潟の小さな漁村に生まれた私の曾祖父は、大学以来北海道に住みはじめ、卒業後は水産会社に就職し、仕事の都合で択捉島や樺太(サハリン)で家族とともに生活していました。
 当時、択捉には水産加工工場がいくつもあり、曾祖父もそのうちの1つで働いていました。また樺太では私の祖父が生まれており、自然豊かな土地で家族と過ごす、穏やかな日々だったそうです(祖父が生まれた街は現在、ロシア領・ユジノサハリンスクという名前になっています)。

(↓ユジノサハリンスクにあるサハリン州郷土博物館)


 しかし、戦争の蛩音が近づくにつれ、曾祖父は満州へ出征することになりました。1939年には満州の関東軍とソ連軍との間に起きた、「ノモンハン事件」という戦いに参加しています。何とか生還したのも束の間、今度は終戦直前に樺太にソ連軍が侵攻し、家財を全て置き捨てて命からがら北海道に戻ってきたそうです。

「曾祖父たち家族が過ごした択捉や樺太は、いったいどんな所なのか?」

「曾祖父が戦ったロシアとはどんな国なのか?」

「曾祖父たちはロシア人のことをどう思っていたのか?」

 私のこんな疑問が、ロシアという巨大なブラックボックスを開きたいと思った最初のキッカケでした。

 波瀾万丈な曾祖父の人生を想うとき、私は次のようなことをいつも考えています。

 いかなる外交問題にも、頭で考えるだけでは見えてこない当事者の生身の声や想いがある。

 たとえその当事者が現在いなくても、その声や想いに耳を、心を傾け、自分の心に問い直さねばならない。

 私にとっての曾祖父とは、外交を考えるときに忘れがちな「心の部分」をふと思い出させてくれる存在なのです。


(↓1938年頃の曾祖父。後方の丘陵がソ連と満州国の国境)

 
 それでは、最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
 次回は北方領土論の前提として、「主権」という言葉の意味について思うところを書きます。
 季節の変わり目になりますので、皆さまくれぐれもご自愛くださいませ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?