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禅と剣道のはなし 〜上泉伊勢守が見た世界〜

 そよ風が頬を伝う。
 鳥のさえずりが、水のせせらぎが、身体に溶けていく―――――――――――――――――


 

 この稿を書きはじめた今、私は京都・南禅寺に居る。
 この寺では毎月2回、「暁天座禅」と呼ばれる座禅体験会が開かれる。午前6時頃から法話が始まって7時までの1時間、その日その場所に偶然集ったひとびとと、目の前の自然と我が身を一如にしようと試みる。

 30分もの間、目を瞑り、脚を組み、頭の中に日々溜まっていく考えごとを、少しずつ濾過していく。
 そうして最後に濾紙に残るものは、いつも、研ぎ澄まされた五感だ。
 五感を通して、みずみずしい自然を己の身体に注いでいったとき、人ははじめて、禅なる心に触れた、と言えるのかもしれない。

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 余談をしたい。
 私は大学生活を始めるべく京都に来てすぐ、「禅」というものに惹かれた。
 掴みどころのない、とはいえ核心を突くような考え方、心のスタンスに、生きにくい世の中を生き抜くヒントがあるように思われたのである。

 そもそも、「禅」とは何か。
 正直私自身なかなか分からないのだが、ここでは臨済宗妙心寺派大本山である京都・妙心寺の言葉をお借りしよう。

 禅とは、心の別名です。
 私たちの心は、もとより清浄な「ほとけ」であるにも関わらず、他の存在と自分とを違えて、対象化しながら距離と境界を築き、自らの都合や立場を守ろうとする我欲によって、曇りを生じさせてしまいます。

 世の中、意のままにならないものですが、正確には我欲のままにならないということです。禅語の「如意」は意の如くと、思いのままになることを言いますが「如意」の「意」は我欲のことではなく、自他の境界と距離を超えた森羅万象に共通するほとけの心のことを指しています。

 自他の距離と境界を越えるには、自分自身を空しくすることです。

 禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。


  (筆者により一部抜粋。全文はこちら)


 「禅」の世界には、こうした思想を短い言葉に凝縮した「禅語」というものがある。
 禅語の中には、既に私たちの生活にあまりにも身近になった言葉も多い。例えば、

「挨拶」=「何気なく交わす短い言葉から、相手の真意を察すること」

「主人公」=「個性とは気を衒うことではなく、自分の中にいる本当の自分に問いながら、自分らしく生きること」

などである。


 数多くの禅語の中で、私は以前から


「木鶏(もっけい)子夜に鳴く」 

という言葉に惹かれている。


 古代中国の時代、闘鶏を育てる名人が皇帝に召し出され、強い闘鶏を育てるように命じられた。
 しかし、名人はなかなか出来上がった闘鶏を連れて現れず、皇帝待つこと数十日、ようやく1羽のおとなしい鶏が献上された。
 名人は、言う。

「どれだけ強くても、その強さを見せびらかすうちは本物ではない。
 興奮も自惚れも威嚇も、全ては己の未熟な心から生まれるもの。
 本当に強い鶏は、どんなときでも木彫りの鶏の如く、泰然自若としているものである。」

 のちに宋代、風穴延沼という禅僧がこの故事をもとにして「木鶏子夜に鳴く」という言葉を残した。

 木彫りの鶏のように泰然自若とした心持ちでありつつ、皆が寝静まっている頃(=子夜)鳴くように、人知れず努力を重ねることができる人こそ、本当に優れた者なのだ

という意味である。

(↑昼下りの妙心寺退蔵院。筆者撮影)

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 余談が過ぎた。
 私がこの稿で書こうとしているのは、ひとりの男を通して、禅と剣術の繋がりを考えてみる、ということである。

 男のことを触れねばならない。
 名を上泉伊勢守信綱という。
 数多くの剣豪が生まれた戦国時代、「剣聖」と呼ばれ、こんにちの新陰流の祖として歴史に名を留めた孤高のひとである。
 彼に関する史料は多くない。
 上州厩橋(現在の群馬県前橋市)の生まれで、壮年期に至って自らの創始した新陰流を指南するため、諸国流浪を始めたという。
 はじめ伊勢国へ行き、ついで大和国に入った。
 ここで柳生宗厳(やぎゅう・むねよし)と出会い、印可証を与えて皆伝を許している。
 のちに柳生一族は宗矩の代において江戸幕府の剣術指南役に抜擢され、新陰流は「将軍家御流儀」という日本の正統な剣術流派として栄えた。

(↑群馬県前橋市にある上泉信綱銅像。
写真は前橋市公式HPより)


 上泉伊勢守の伝えた奥義は、己の身を守ると同時に相手をも尊重し、その生命を奪うことを疎む。
 ゆえに新陰流はその佇まいにおいて「戦わずして勝つ」ことを旨とし、

「無刀の境地(=刀を必要としない境地)」

を求めた。そのために上泉は、

己を天地と一(いつ)にする

ことが肝要だという。
 「刀を鞘から抜かないために刀を振りつづけ、我が身と自然の融合を図る」上泉の姿勢に、木鶏を刻む宋僧の姿が重なる。


 剣道ほど思想的で自省的な武道も古今東西少ないのではないか。
 その優れた精神性でもって歴史にきこえる中世西洋の騎士道でさえ、神の信仰という強い宗教心に支えられたものであって、騎士たちに求められた規範意識は、"Prowess (優れた戦闘能力)"や"Courage (勇気)"、"Charity (博愛精神)"、"Courtesy (礼儀)"など、およそ我が身を自然に帰していく精神的修練や、その精神を武具にまで及ばせる思想は無かったと言っていい。

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 余談ながら、ときをうつして1905年、日露戦役の最終局面でバルチック艦隊に奇跡の完全勝利を遂げる作戦を立てた連合艦隊作戦参謀・秋山真之は、戦役後に佐世保で開かれた解散式にのぞんで『聯合艦隊解散之辞』を起草した。
 末尾を、このように結んでいる。


「神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ戰ハヅシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ榮冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ滿足シ治平ニ安ンズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ。

 古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨト。」


(現代語訳)
「神仏は平時からひたすら鍛練に努め、戦う前に既に戦勝を約束された者に勝利の栄冠を授けると同時に、一勝に満足し、太平の世に甘んずる者からは、ただちにその栄冠奪うであろう。

 古人も言う。『勝って、兜の緒を締めよ』と。」

 江戸時代約260年もの間、武士に伝え続けられた新陰流と秋山真之の『聯合艦隊解散之辞』。
 上泉の思想を知っていたものか定かではないが、彼もまた、命のやりとりをする武人として、平和な時代に己を磨くことの意味を私たちに考えさせるものであろう。

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 上泉伊勢守のことを言い忘れた。
 諸国流浪のあと、男は歴史から蒸発したように消える。
 一説には、上洛を果たした後ふるさとに帰り、そこで没したという。
 ありあまる才能を持ちながら、室町幕府にも大名家にも仕官しなかった一匹狼と見るか。戦乱の時代に刀に禅的思想を込め、時代を先取りしすぎた悲運の思想家と見るか。

 いずれにせよ、功名という我欲に流されず、最後は住み慣れた自然へと帰っていくあたり、彼自身の生きざまもまた禅的であったのかもしれない。








(カバー写真は、初秋の南禅寺・三門。筆者撮影)

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